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01頭の中を流れる言葉をそのまま出していく

 頭の中を流れる言葉をそのまま書いていく。
 構成も何も考えずに。
 それはギターを適当に弾きながら付ける適当な歌詞のように自由でいいはずなのに、こうして形に残ることを意識すると、体裁を気にしてしまう。
 素粒子が観測されると動きが変わるように、言葉も文字として表された時、自分から離れて誰かに見られるものになってしまう、と、無意識で考えてしまっているのだろうか。


 働くということについて、ここ最近は考えている。「働く」って、もっと生活とつながってなかったっけと。
 例えば、昔は豆腐屋さんがあったけど、毎日それぞれで豆腐を作るのってすごく手間だから、代わりに豆腐を作る人がいて、その豆腐を買う人も、傘かなんかを作っていて、その傘を買う人も、ペンキ屋さんだったりして。
 いや、今だってそうだと言われればそうなんだけど、なんていうか、もっと見えやすかったんじゃないかなと。

 今感じている違和感としては、誰かに何かの価値を提供しているというより、「時間をお金に換えている」感覚があって。ここまでは仕事、ここからはプライベート、みたいな別々のものっていう感覚が強い。
 それでいいじゃん!って思うかもしれないし、自分もそう思ってた時期もあるんだけど、最近どうもしっくりこない。生活と仕事が地続きになっている形がないものか。


 そう思うようになったのは、今の状況的に子育てがしづらいと感じるから。時短勤務も育休も、仕事主体で見た時の、言っちゃえば企業側が仕方なくとれるようにしてるだけで、生活はそっちに合わせざるを得ない。というか、男性がそれをするのって、まだまだハードルが高いし。育休も一回取れればラッキー、会社に感謝してみたいなレベルで、個人の事情なんてあんまり関係ないんだよな。


 書いていて思ったんだけど、一番この男性の子育て問題で僕が言いたかったのは、育休よかとるにせよ、妻の状況とか仕事での取りやすさが第一にされて、「僕は子育てを頑張りたいんです。だから育休取りたいです。」っていう家族への「思い」みたいなものがくみ取られていないこと。
 そこに僕は違和感というか、内心腹立たしさを感じているわけです。その根底には、やっぱりまだまだ子育ては女性が主体でするもの、という社会通念があると思っていて。でももっと昔は家で商いをしながら、みんなで仕事も家事も育児もやっていたと思うんだけど。

 とにかく、今、自分の時間をお金に換えているだけ、っていう感覚はものすごくもったいなく感じるわけで。以前にくらべて、時間に対する価値観が変わっているのかもしれない。
 それは相応に歳をとってきたから、というのもあると思うし、仕事以外の家族の時間を優先したいという思いもある。いずれにせよ、時代の価値観もめまぐるしく変わっているし、自分自身の価値観も変化しているわけで、一つの場所や仕事にこだわり続けるのは、ナンセンスだと思ったりもしている。
 僕は転職を2回したけど、その背景には、自分の価値観や大切にしたいものに合わせて、仕事や環境を変えてきたっていうことがある。自分を曲げて仕事に合わせるっていうのが、どうしてもできない体質なのだ。
 そして、僕は今、「家族との時間をいかにとりつつ、生活と仕事が地続きになっている、時間を切り売りせずに、自分の能力をどうやって最大限生活と仕事につかえるようにするか」という、まあ、考えているのは、そんなところ。

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