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ジーン・リース『機械の外側で』

 今回は現代イギリスの小説家、ジーン・リースの作品を紹介する。紹介する小説はちょっとベヴィーな感じもあるので、いまちょっときつい人はまた別の機会に読んだ方がいいかも。
 河出書房新社からでている世界文学全集に『サルガッソーの広い海』が選ばれているのでジーン・リースの名前を聞いたことがある人もいるかもしれないが、あまり知られていない作家だと思う(アマゾンで検索しても『サルガッソーの広い海』か今回紹介する短篇が収録された短篇集しか出てこない。しかも短篇集はKindle版しかない!)。
 ジーン・リースはイギリスの小説家で、20世紀初頭から中頃にかけて活躍した。イギリスの小説家といっても、ジーン・リースが生まれ、16歳まで育ったのはカリブ海イギリス領ドミニカで、16歳からイギリスに移住したが、イギリスの学校には馴染めなかったという。小説を書くようになってからもイギリスの同時代の作家――例えばここでも紹介したヴァージニア・ウルフやキャサリン・マンスフィールド――ともあまり付き合いはなかったという。
 だが小説を読んでるとどことなく、ヴァージニア・ウルフやキャサリン・マンスフィールドとの繋がりを感じる。それは、三人とも女性であり繊細なタッチで人の機微を描きだすということや、あるいは少しでもバランスを失うと、なだれを打って崩れ落ちてしまいそうな人物造形のためもあるかもしれない。
 ただ他の二人にはないジーン・リースの特徴もあって、それは弱い立場の人が主人公であるということだ。紹介する『機械の外側で』の主人公であるイネスは重病を患い病院のベッドに横たわっている。病気のことに加えてお金の心配まである。イネスの内面はこんな具合だ。

「一、思ったよりまだずっと具合が悪い。二、明日になったら婦長にもう一週間入院していられるか訊いてみなくてはならない。入院代を前払いしろとは言われないだろう。三、もしあと一週間入院が許されたら、すぐあちこちに手紙を書いてお金を工面しなくては。五十フラン! それを退院までに。けれどこんな体調なんだから五十フランくらい惜しんではいられない」

 イネスは病院のベッドに横たわっているしかない。自分ではどうすることもできない。

 看護婦たちは機敏で確信に満ちている。すべてを自動的にこなしていく。機械の一部のようだ、とイネスは思う。滑らかに作動する機械の部品。ベッドの患者たちは起きたり寝たり、ベッドから出たり入ったり。この女たちも同じ機械の一部だ。女たちには力と確信がある。これまでの生涯ずっと部品として過(あやま)たずはたらき、役目を果たし、出たり入ったり言われるまま動いてきたのだから。たとえ機械が制御できなくなったり狂気にとりつかれたりしても、部品は相変わらず出たり入ったりをつづけるだろう、命令通りに。滑らかに作動するだろう。速く、さらに速く、壊れるまで。
 窓の外は黄色から菫色に、菫色から灰色に、灰色から黒に変わった。部屋は暗くなり、病室の天井から下がっている裸電球の列が赤く浮きあがるだけになる。イネスは枕に顔を埋めて、両の腕で頭を覆う。
「おやすみなさい」夫人は言う。しばらくしてこんどは「泣かないで、泣かないで」と。
 イネスはつぶやいた、「ここでじわじわ死んでいくんだ……」
 病室は延々とつづく灰色の河だ。ベッドは薄い霧の中に滲む舟の群。

 イネスが不安を感じながらも、どうしようもない無力さが抱いているのが伝わってくる。不安を抱いているのはイネスだけではない。あるときイネスが洗面室(洗面台とトイレと浴室が併設してある)で歯磨きをしようとしていると女が入ってくる。

 ドアが静かに開いた。誰かが入り口で一瞬ためらってから入ってきて、後ろを通りすぎ、奥の洗面台の前に立った。仏頂面のあの若い女、髪をお下げに編んでいる女だった。キモノ風の青いガウンを着ていた。
「苛々しているみたい」イネスは思った。
 女は洗面台の縁を両手でつかみ、前屈みになった。吐く気かしら? 女は震えるような長い溜め息をついてから、自分の洗面道具入れを開けた。
 イネスは視線を外し、黙って歯を磨いた。
 またドアが開いて今度は看護婦が入ってきて、洗面室のなかを見回した。看護婦のぽっちゃりしたピンクの顔に浮かぶ表情が短時間で無関心から不審に、そして驚きに、ついで憤慨に変わるようすは、そうそうは見られないものだった。
 看護婦は奥の洗面台に向かって走りだした。「やめなさい。マーフィーさん。さあ、こっちに渡しなさい」
 イネスはもみあう二人を見た。何か金属製のものが床に落ちる音がした。マーフィーさんと呼ばれた女は、蛇のように身をよじり抵抗している。
「来て、手を貸して、さ、腕を押さえて」息せき切って看護婦が言う。
「好きにさせて、好きにさせて」女が泣き叫ぶ。「おねがいだから、好きにさせて。あなた、なにも知らないでしょ」
「シスターを呼んできて。病室にいるから」
「この人、わたしに言ってるんだわ」イネスは気がつく。
「好きにさせて、好きにさせて、おねがい、おねがい、おねがい、おねがい、おねがい」マーフィーはすすり泣いた。
「この人が何かしたの?」イネスは尋ねた。「なんで好きにさせないの」
 そう言っていると看護婦が二人、すごい勢いでやって来てミセス・マーフィーに飛びかかった。彼女は叫びはじめた。口を開け、頭をのけぞらせて。

 マーフィーという女の患者の自殺未遂の場面。すごい臨場感。夫も子供もいるマーフィーのこの行為は病室の他の患者の反感を買い、みんなマーフィを責めたてるが、イネスはマーフィーのかばう。イネスには他人事とはまったく思えないのだ。
 最後まで救いはありながらも問題がまるっと解決するなんてことはない。ので、ちょっといま自分が精神的にきつい人は止めた方がいいかもしれないが、おすすめの小説です。kindleで800円! 是非!

ではまた!


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