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シャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ・オハイオ』

 今回はシャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』。シャーウッド・アンダーソンは20世紀前半に活躍したアメリカの小説家で、ウィリアム・フォークナーにも強い影響を与えたという。ウィリアム・フォークナーの作品の多くは架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にしている。さらにそのウィリアム・フォークナーに影響を受けたガルシア=マルケスは架空の都市マコンドを舞台に小説を書いた。ワインズバーグからジェファソン、さらにマコンドへと脈々受け継がれてきた文学の伝統を感じる。
 この小説の舞台、オハイオ州のワインズバーグはアメリカ中西部のさびれた田舎町だ。その田舎町に住む人びと一人ひとりがこの連作短篇集の主人公だ。同じ町を舞台にしているとはいえ、この作品をなす22の短編は(『神の力』と『女教師』は繋がりがあるし、ジョージ・ウィラードという『ワインズバーグ・イーグル』の新聞記者が多くの作品に顔を出すが)基本的に一つひとつが独立している。今回はそのなかで僕が好きな二つの作品を紹介する。

冒険

 生まれてからずっとワインズバーグにいる主人公のアリス・ヒンドマンはいまでは27になる。16の時にネッドカリーという少年と恋におち、その数ヵ月後、その年の秋にネッドカリーが新聞記者になることを夢見て都会に旅だってからもずっと彼を思い続けている。その11年間が11ページ凝縮されており、客観的にというか、ひいてみると、そんなあいくらなんでも16の恋でそこまで待つ女がいるか? と思うのだが、小説を一ページ目から順に読んでいると引き込まれ、納得させられてしまう。説得力がある。だが、それでもネッドカリーと一緒になることができるという自己の妄想にとりつかれたアリスが、ついに暴発するときがおとずれる。引用はラスト、講談社文庫143ページ。

 そしてそのうち、ある雨の夜。アリスは思い切ったことをやってのけた。そのことが、彼女をおびえさせ、混乱させた。その晩、九時に店から帰ってみると、家はからっぽだった。プッシュ・ミルトンは町へ出かけており、母親は隣りの家へ行っていた。アリスは二階の自分の部屋へあがり、暗いなかで着ているものをぬいで裸になった。しばらくガラスに当る雨音を聞きながら窓際に立っているうちに、奇妙な欲望にとらえられた。自分が何をしようとしているかも考えず、無我夢中で階段をかけおり、灯のついていない家のなかをぬけて、雨のなかへ走り出ていった。家の前にすこしばかりある芝生の上に立って、冷たい雨が体にあたるのを感じているうちに、裸のままで町の通りをかけぬけて行きたいという狂おしいまでの欲望がむらむらとわいてきた。
 何か創造的なすばらしい効果を、雨が自分の体に与えてくれるような気がした。こんなときにも若さと勇気が身内にみちみちてくるのは、何年かぶりかに味わう感じだった。跳びはね、走り、大声で叫びたかった。誰か自分以外にも孤独な人間をみつけて、抱きしめてやりたかった。たまたま家の前の煉瓦の歩道を、おぼつかない足どりで帰ってゆく男の姿が見えた。アリスはかけだした。彼女は荒々しい、やみくもな気分のとりこになっていた。

 いいですね。ここだけ読むと今一つかもしれないが、最初から読んでいると、ここでぐわぁーっともっていかれる。こういうラストの爆発力というか、それまでの普通だった町民が一変する描写を読むのも、『ワインズバーグ・オハイオ』の楽しみだ。このあと一ページ小説はおわるが、そこは実際に本で読んでみてください。

物思う人

 主人公のセス・リッチモンドはいいとこのぼっちゃんだ。だが、順風満帆というわけではない。父親のクラレンス・リッチモンドが決闘で死んだのだ。残された遺産も調べてみるとあまりなく、邸とわずかな年収くらいのものだった。それで母親は働きながらセスのことを大事に大事に育てた。その影響もあったのだろうセスは自分の思っていることをストレートに表現することができない。引用は友人のジョージ・ウィラードから、ヘレン・ホワイトという銀行家の娘が自分のことをどう思っているか聞いてきてほしいと頼まれて、ヘレンを家から連れ出したところ。170ページ

 ヘレンとセスは、通りに面して建っている低い暗い建物の前の柵のそばで、立ちどまった。その建物は昔は樽板を造る工場だったが、今では空家になっていた。通りの向うの家のポーチで一組の男女がお互いの子供時代の思い出話をしており、こちらの若い二人に、その話声が、手にとるように聞こえるので、二人はちょっときまりがわるくなった。やがて椅子をきしらす音がして、その男女は砂利道を通って木戸のところまで出てきた。木戸の外にたって男が身をかがめて、女にキスをした。「昔の思い出に」男はそういって、向きをかえ、さっさと歩道を行ってしまった。「ベル・ターナーだわ」ヘレンは小声でいって、大胆にも手をセスの手にすべり込ませてきた。「あのひとに男がいたなんて知らなかったわ。もうそんな齢じゃないと思っていたのに」セスは落ち着かない笑い声をたてた。少女の手はあたたかくて奇妙な感じがした。眼のくらむような感じが全身にひろがった。すると、それまではいわないでおこうと心に決めていたある事を、彼女にいってやりたい気がしてきた。「ジョージ・ウィラードはきみに恋しているよ」そういった彼の声は、感情が波立っているのと裏腹に、低く落着いていた。「あいつ、小説を書いててね。それで、恋をしたがっているんだ。恋する気分がどんなものか知りたいんだって。ぼくからきみにそう伝えて、きみがどういうか、聞いてきてほしいんだそうだ」

 うわぁーって感じ。せっかくいい感じになってんのに、なにいらんことを言いだしてるんだセスは。って感じだが、すごいよく分かる。これもこの連作短篇集の特徴だと思うのだが、老若男女いろいろなひとが主役になるからどんな人が読んでも22編のうちにはきっと、わかる! となるものがある。最初に取り上げた『冒険』も女性が読めば、うわぁーこれわたしだ! となる人がいるのでは? ということでセス君だが、どんどん自分の世界に酔っていく。そこは引用しないが、読んでるこっちは、あっちゃー、うわぁー、おぉーというか感じだ。付き合い下手の男はこの話にくるものがあるのでは? これは自分だ、と。いややっぱり少しだけ引用する。172ページ

 今、庭のベンチに坐っているセスは、落着かない感じで体を動かした。少女の手をはなし、彼は両手をズボンのポケットに入れた。相手の心に、自分のした決意の重大さを、とくとわからせたいという欲望がわいていきて、彼は家のほうに向かって顎をしゃくった。「おふくろはきっと大騒ぎするだろうなあ」と、彼は小声でいった。「おふくろは、ぼくがこれからやろうと思っていることなんか、夢にも考えたことがないんだから。ぼくが子供のままいつまでもこの町にいるように思っているんだ」
 セスの声に、青年らしい熱気がこもった。「だから、ぼくは断乎やる必要があるんだ。仕事をはじめなきゃいけないんだ。そうするのがぼくには向いているんだもの」

 まさにうわぁーって感じだ。止めるなよ止めるなよって言って、誰も止めてくれないという。まあ若いころはこういうこともある。

 ではまた!

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