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自分の履歴書⑦ 北京から引き上げる

この記事は北京でのフリーランスを始めてから、約1年滞在後に日本に戻るまでの記事です。

中国でITサービスを展開する上での大きな壁

中国のITは独自の検閲など、閉鎖的な状況なのは把握していました。一番大きな壁だったのは、中国国内でウェブサイトを公開するには国の認可が必要だったことです。中国のウェブサイトを見ると必ず認可番号が記載されています。この認可がないといつ締め出されてもおかしくないのです。
この課題については、中国人の友人に聞いてもコネがないと難しいとのことで八方塞がりのままでした。ここで諦めたのはレンタルサーバーを自分で提供することでした。それ以外のデザイン業務は問題ありませんでしたが、自分の集客用サイトは日本のサーバーを使いました。

どのように案件受注したか

果たしてまともに案件を受注できるか、、というのが最も心配でした。ただ、結果として多い時もあれば全く無い時もありながらも、平均して月に1〜2件といった状態で受注していただきました。ありがたい事に当時は中国の物価もまだ高くなく、生活費はだいたい月6万円でした。ですので、日本経済基準の案件を1件受注すれば数ヶ月は案件無しでも生活が送れていたのです。
それでも、会社勤めではうまく行っても失敗しても毎月給料がもらえる、この当たり前の事がいかにありがたいかは身にしみて実感しました。

受注元の割合としては、ウェブからの集客40%、知人のツテ40%、前職のデザイン会社からの受託20%でした。ウェブからの集客は、一つは自分の集客用サイト、もう一つはGoogleのAdWords。意外に問い合わせが来る事に驚きでした。あえて北京で展開したことも功を奏したのだと思います。上海で展開していたら、きっと他の優秀な会社に持って行かれていたでしょう。
集客用のサイトには、ブログも設置していて中国での生活やお役立ち情報、秘境への旅行の記事などを書くことで情報を発信し続けました。特に秘境の記事は、アクセス方法など多くの方からコメントをいただきました。案件受注には繋がりませんでしたが。。

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知人のツテも大きかったです。人と人をつなぐ事が天職のような方がいて、その人の紹介で仕事をいただいていました。しかし、受注額の半分以上も抜かれていたりして揉める事も多かったです。

痒いところに手が届く中国の発想

そうそう、こういうの便利だよね! という発想が中国には多くありました。
例えば、ペットボトルに入ったビール。街中を歩きながら楽しめるし、キャップをすれば炭酸も抜けないのです。

私が住んでいたのは胡同(フートン)という古い建物だったので、銭湯に行っていました。お風呂がない家屋が当時はまだ多く、銭湯が著しく発展していました。浴槽の壁面には大きな液晶テレビがあり、皆タバコを吸いながらお湯に浸かっているのです。お風呂でタバコ、これが意外に快適でクセになってしまいました。また、お風呂場には監視員がいて、体を洗わずに湯船に浸かろうとすると怒られたります。

あと、これは今でも日本に逆輸入したら流行ると思っているのが、カウンター席の1人火鍋です。1人でサクッと食べられるのは、むしろ日本の方が良いのではと思っています。また、当時から火鍋の麻辣味も日本でウケるだろうと思っていましたが、今はもう日本人の多くが山椒のシビれにハマってますよね。

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一見、しょうもないと思われがちな中国独特の「こうしたい、という欲求にダイレクトに手が届くような直感的な判断」は今でも大切にしています。

とにかく試行錯誤する日々

案件の受託だけではなく、いろいろと話をいただいていました。メディアサイトを作ろうとしている日本人の方には無償でオフィスを使わせてもらったり、中国人の方で日本向けの雑誌を刊行するための手伝いをしたり、豚をペットとして飼う習慣を広めようとしたり、前職のデザイン事務所が中国進出するにあたって法律事務所と調整する場に同席させてもらったり。。今思えば腹をくくって誰かの話に乗っていたら良かった、とも思います。それでも当時の自分は、自分自身で何かを作りたい、というワガママな気持ちを捨てきれませんでした。頑固に我が道を歩き続けました。

北京オリンピック前に帰国

約1年ほど案件を受注して制作するという日々を過ごしました。その間、何かを見つけようと必死にいろいろな人に会ったり、中国国内をいろいろ周ったりしました。
転機になったのはオリンピック目前でした。知り合いの中国人が皆、故郷に帰るというのです。オリンピックはテロが起きる、北京は危ないと口を揃えて言っていました。日本人で帰国する人もチラホラいて、自分も一旦帰国しようと思い始めました。ただ、一番の理由は中国で何をやるかを見つけられないままだったためです。デザイン事務所をやりたい訳ではないのに、このまま受注制作していても仕方ないと。
中国に対する強い思いはありましたが、具体的なビジョンが見いだせなかったのです。でも、ビジョンは日本でも考えることはできるだろうと。

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このようにして、やや消化不良のままひっそりと帰国しました。

社会人30代前半その1へ続きます

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