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多様性社会への覚悟はあるのか? 〜誰かにとって「正しい」ことが、他の誰かを傷つける〜

皆さんお久しぶりです。
今回は、巷で話題の「多様性」について取り扱っていきたいと思います。

私は世界の宗教や思想について興味があります。しかし、このようなテーマを元に他の人、特に当事者がいる場で話をするのは、ものすごく気を遣います。というのは宗教や思想、歴史に関する話題を扱う時に、誰も不快に感じないような話し方をするのは非常に難しいからです。

例をあげましょう。
近年性的マイノリティの人権が叫ばれています。性的マイノリティの方々としては、同性婚など、異性愛者と同じような権利が保障されて然るべき、と思うかもしれません。性的マイノリティ当事者でなくても、彼らへの権利は当たり前で尊重されて然るべき、賛同しない人は差別主義者、と考える人もいるかもしれません。一方で、キリスト教徒(一部例外もありますが)やイスラム教徒からすれば、特に同性愛は「罪」です。キリスト圏、イスラム教圏では迫害を受けることもありました。

多様性を認めるのであれば、性的マイノリティの人達だけでなく、キリスト教徒やイスラム教徒の人達の主張も尊重する必要があるのではないでしょうか?特に日本においては、キリスト教徒やイスラム教徒は宗教的なマイノリティでもあります。日本で普段「マイノリティの権利」を主張する人々でも、日本における宗教的なマイノリティの信仰については言及していません。

勿論、キリスト教徒やイスラム教徒が教義を理由に性的マイノリティに暴言を吐いたり暴力を振るったりすることは許されません。もし、日本でこのようなことがあれば、法によって裁きを受けるべきでしょう。ですが、心の中で「同性愛は罪である」と考えることまで制限することはできません。性的マイノリティ側の意見が絶対的に正しいと誰が決めたのでしょうか?性的マイノリティにも権利がある、と考える人もいれば、同性愛は罪、と考える人、どちらがいても良いのではないでしょうか?しかし、たとえ私がこのような言い方をしても、中にはこれこそが「神に対する冒涜」と感じる人もいるかもしれません。なぜならキリスト教やイスラム教では、神が絶対と考えられているからです。私のような「異教徒」が何を言うんだ、と思う人もいるかもしれません。

このように、キリスト教やイスラム教と性的マイノリティの関係について述べるだけで、様々な方向において不快に感じる人が登場する可能性があります。たとえ自分としては公平に話しているつもりでも、特に宗教が関わっていると、「神が言っていることが絶対」と考える人達にとっては、神の教義に反する立場について言及されること、しかも解説者が異教徒であるというのは納得がいかないかもしれません。宗教について触れようとする人がなかなか現れない理由もなんとなく分かります。

しかし、それでも「多様性が大切」「誰とでも話せば分かり合える」と簡単に叫ぶ人達には、真摯に上のような問題について向き合って欲しいです。多様性社会とは、前述の例のように、思想が真っ向から対立する人達が共存するということです。思想が異なるということは、誰かにとって「正しい」ことが、他の誰かを「傷つけ」たり「不快に」したりする可能性があるということです。私は大学で宗教について勉強しました。それを通じて、宗教や思想などにおける考え方が違う相手と根本的に理解し合うことは難しいと感じました。中には「多様性社会のためには相手の考えを受け入れるべき」と考える人もいます。しかし、中には異教徒の存在自体良く思わない宗教も存在します。多様性社会だから、相手の考えを受け入れるべきだから、と相手の宗教や考え方まで受け入れる必要はあるのでしょうか?

「多様性が大切」と口で言うのは簡単です。しかし、中には矛盾した考え方も存在するのに、「全ての考えを受け入れる」というのは、論理的・物理的に不可能です。他の国ではどうか分かりませんが、少なくとも日本では、世界にはどのような宗教や思想、考え方が存在しているのか学ぶ取り組みが行われていませんし、特に自分達の考え方と大きく異なる点において、どう折り合いをつけていくのか、議論が盛んになっているとは思えない現状があります。

難しいことではあります。日本人的な「皆に配慮して」「誰も傷つけないように」という感覚を持つ人であれば、様々な方向から批判が飛んでくる可能性のある試みは苦痛でしかないでしょう。しかし、本当に多様性のある社会を目指すのであれば、向き合わざるを得ません。大きな問題が起きる前に、皆さんが「多様性」の意味について、振り返る機会となれば幸いです。