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言語と理性主義の限界


 近年、「ポリティカルコレクトネス」という観点から、この言い方は正しくない、あの言い方は正しくないという主張があちこちで見られます。例えば、「嫁」は差別的だが「妻」は良いとか、ですね。


 しかし、私は言語から「差別的」な要素を無くすことには限界があると思います。

「理不尽な」言語の仕組み


 私は大学時代に外国語を専攻していました。言語を勉強していると、しばしば「壁」にぶつかります。日本語にはこんな仕組みないし、ちょっと理解できないな、と思うような仕組みがあるからです。英語以外のヨーロッパの言語には、大抵男性名詞や女性名詞など、名詞に性が存在します。ロシア語などスラブ語の場合は、性が格変化と結びついています。また、主語の性や数により、過去形の語尾が変化します。しかし、なぜそのような仕組みになっているのか、究極には答えることができる人は少ないでしょう。

 文法事項には例外も多く存在しますし、その場合は「これはそういう言語なんだ」と受け入れて逐一覚えなくてはいけません。ある意味「理不尽」です。しかし、覚えなければ言語をマスターすることはできません。言語について学ぶうちに、私は、言語は論理など理性で説明しきれないものだと考えるようになりました。

言語と「人権」は相容れない


 近年のポリティカルコレクトネスを見ると、「差別」的で「偏見を含む」ような表現をなくし、誰もが「平等」であるための表現をめざそうというような動きが見られます。しかし、言語学習を通じて理性主義の限界に向き合った私には、傲慢であるように思います。

 「言語」というものは、「人権」という概念が生まれる前から存在する概念です。最初の言語と全く同じものではなくても、多かれ少なかれ我々はそのような物を祖先から受け継ぎつつ新たな文化を築いているわけです。

 日本や中国語圏で使われている漢字の中には、グロテスクで残酷な成り立ちの物が少なくありません。しかし、現存する漢字を変えるのは非常に難しいことです。

 ヨーロッパの名詞の性も同じです。ロシア語などスラヴ系言語の場合は特に、格変化や時制などの文法の仕組みと密接に関わっています。


 姓の語尾が性別によって異なることがあるなど、名詞の性は名前の仕組みにまで影響を及ぼしています。



 どこか一部を変えれば、次はここが良くない、と指摘されれるようになり、キリがないですし、最終的には言語そのものの仕組みを大きく変えなくてはいけなくなりますし、使える言葉が限られてくるでしょう。

 人工的に言語を生み出して成功したのは、エスペラント語くらいでしょう。人工的に言語を作り、浸透させようとしたところで簡単に広まらないのです。

 理性主義を元に作られたソ連ですら、ロシア語の文法を大きく変えるような極端な言語改造政策は行っていません。

 もちろん、言語によっては「正書法」が決まっていたり、日本だと常用漢字が定められていたりしていて、国家が公用語に対して何かしらの決まりを作るような政策が全て間違っているとは言いません。しかし、「差別」の基準は非常に曖昧です。非常に曖昧な基準によるものをはっきりと法によって規定することは正しいことなのでしょうか?自然と言葉が変わっていく、あるいは十分に議論を尽くした上で変更する分には良いと思いますが、曖昧な基準を元に無理やり現存する言語を変えようとするのが得策とは思えません。

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