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薫の君も吉田の女の子もみんな|京都、奈良、大阪日記




二日目
 朝いちばんに、宇治へ。はじめて。曇天の宇治川にりっぱな、ふるい木の橋が浮かぶ。そこに、夢浮橋とある。宇治十帖では、浮舟が、薫の君と匂宮とのあいだでくるしみ身を投げた。むこうのほうに、こんどは赤い橋。朝霧がおりて、なにも見えないさらにそのむこうは、別世界に思える。

 あのむこうに、きっとある。そう思わせる。薫の君も胸のうちでそう、信じたと思う。はるかな幻、もうひとつの現実、あったはずの物語、それか、あの世。そうだとしたら今のこの、現実はいったいなんなんだろう。現実を生きることは「もうひとつの物語」にとって、なにを意味するだろう。なにもわからないまま、命はそうっときえていくように思える。

 流れるまま、平等院へ。小雨になったり、やんだり、はげしく風が吹きつける。団体客であふれ、日本語はきこえない。ふと見上げた大きな木、ちいさな雨粒がつぼみのように、枝という枝から無数に垂れ、風にゆられて身をふるわせている。あのしずくが花ひらくことがあれば、現実と夢がすりかわるような気がする。

 鳳翔館へ入る。しいんとした、洞窟のよう。次々に押し寄せるなにかに、からだが小刻みにふるう。よろこびでも、感慨でもなく、純粋ないのちのふるえとしての。時は流れる。ひとは、いつのときも物語をひつようとする。こんなにも、と思う。死んだら、いちばん会いたい人が菩薩になって、そのほかにも、もっと大勢の天上の人たちがかたまりになって、お迎えにきてくれるという。会いたい人の手のなかの、蓮の花にこのいのちがくるまれて、極楽へいける。仏教も、物語。

 ぼうっと壁一面の、その光景をながめていると、あの人たちは天上の神さま仏さまじゃなく、みんなしっている人たちなんじゃないのかな。あの人も、あの人も、あの人もいる。みんなすこしほほえんで、さあゆく時間と、パーティになって迎えにきてくれる。そんな物語。

 きのうの吉田の、虚言の女の子。あの子にも、信じている世界がある。あの子があの子であるがゆえの、ゆるぎない世界。ここより他に、別の世界があるということは、人を支える。屈強に。そこではくるしみから放たれ、自由に生きられる。生きているのは、現実だけじゃない。



 平等院のあと、宇治上神社をぬけて、源氏物語ミュージアム。思いがけず、すてきな造りに、また薫の君を恋しい。出て、ぐるっと円を描いてまた宇治川へもどる。昼すぎ、霧はすっかり晴れて、サンシャワー。朝のあの景色はもうどこにもない。まぶしくて、なにもかもみえすぎる、現実しか。黒光りの、背のほうにすうっと白の入ったとても大きな鳥が水辺で首をくい、とのばし、羽をしきりにばたばたさせているのが神秘的で、平等院で鳳凰をみたせいかも。

 駅への道のりで清庵という、生ゆばのお店。おなかがぺこぺこで、奈良まで待てず、のれんをくぐる。雨降りにもかかわらず、しんと爽やかな店内の、わたしがきっと今日はじめてのお客さん。空いたばかりの店の、すっきりした空気に憩う。でてきたのは、葛であんをしてとじた生ゆばのどんぶりと、お吸い物。高菜をこまかく刻んだものも、ついている。とてもやさしい味で、目をつむる。



 五時に、なんばのみかさんのオフィスへいく。それまで、道すがらの奈良へ。思いたち、美容院の予約もいれる。奈良は小学校の、修学旅行ぶり。三十分歩いて着いた、目的のカフェは一時間待ちであきらめた。商店街をぶらぶら。おむすびの番句でひと休憩。手土産に、きれいなうぐいす色のういろうをみつける。うつくしい豆がしっかりたっぷり、のっている。お店の軒先で、つやつやの真っ赤なべっこう飴をたくさん干していた。駅のむこう側の美容室で、前髪を切ってもらう。旅先で美容院は、ちょっとしたお約束。店主さん、いちげんさんにおどろいているのか、目がわらっていない。

 なんばは宇治とも、奈良ともちがう、極彩色の繁華街、歓楽街。そのど真んなかに、ちょっと菩薩のようなみかさんがいる、ふしぎ。五月の尾道ぶりのみかさんは、ちょっとやせた気がした。また会えて、とてもうれしい。また前髪切ってきたん、とやさしく、リンゴジュースをすーっと注ぎながら、わらってくれる。どうして、わかったんですか。いやあのときもそうだったやん。みかさんは、ほんとうにきれいな人。からだのなかから、きれいなんだなあ。そして、声がやわらかい。うまれてくる前にずっと耳をすませて、聴いていたような気さえする。やっと「やさしいせかい」を渡せた。渡してから、ああ、そういえばみかさんとしょうこさんのこと、この本に書いたんだった、と照れくさい。

 ミーティングのあるみかさんとさよならをして、夕飯に、心斎橋のお好み焼き、OKO。ヴィーガンで、小麦粉もつかっていない。ここも、三階建ての異世界。これは、と思い、ただごとじゃない無秩序の秩序。そうとうな店主さんの気がなければ、こんなふうにびくともしない店、できない。それとも、大阪なら、ふつうなのか。あらゆる国からやってきたお客さんにかこまれて、しほさんという、はつらつとした小さなお姉さんがひとりで切り盛り。なんだか、エネルギッシュを通りこして、なんらかの道に入っているようなお姉さんのたたずまいにわたしの背すじはのびた。あかるいとかやさしいとかをとっくに超えた気、こんなふうに一本の気をたたせて、迷いなく、しゃんと生きていようと。


 
 淀屋橋まで歩く。ながい一日をからだからゆっくり引き剥がし、てのひらにのせる。砂のような時間と、刻一刻、わかれていく。丹波橋でのりかえ、宿のある東福寺の駅まで。京都の駅名は墨染とか、山城青谷とか、城陽とか玉水とか、匂いたつような、ふるくからその場所に流れてきた時間をとどめているようなのが、どきどきする。いつかわたしも、その一部にいただろうと思う。

 がらがらの電車、深緑のシートのむかいに、おじいちゃん三人がなかよくくっついて座る。飲んだあとらしい、ほんのり紅色のほっぺで、目はとろん、たのしそう。あのセーター、三万もするんやわ。今どきの若い子は、平気でそんなん買うらしいけどな。そういえば、龍谷大前深草駅って、変わったな、わしらの頃は、ただの深草駅やった。

 だれも待っていない部屋に、まっくらな道を、しらないのに知っている気がする夜道を、帰る。そういう今が、なによりいとしい。年代も、場所も、なにもかもちがうわたしたちが、みんなでおなじひとつの命を生きているとしたら、このわたしの役目はなにか。旅は、そういうことを、とりもどすため。明日は、京都をでる。





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