雑記:西の京山口

山口県の山口市は、室町時代から戦国時代にかけて大内氏の城下町として栄えた場所で、その城下町は京都を模したとされる。

山口市内の龍福寺は、大内義興・義隆の居館跡であり、同寺は大内氏滅亡後に毛利隆元(毛利元就の長男)が再興した寺院で、境内には大内氏ゆかりの文物を展示する龍福寺宝物館があり、宝物館の入口には大内義興の騎馬像がある。

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宝物館には大内氏歴代当主の肖像画もあるが、中でも大内義隆の肖像画は義隆の側近でもあった隆元が描かせたものとされ、眼光炯々とした精悍な表情をしており、小説やドラマなどでは文弱な人物として描かれがちな義隆の戦国武将としての相貌を今に伝える貴重なものである。

山口市内には大内氏ゆかりの寺院や史跡も多いが、その代表格が瑠璃光寺であろう。

瑠璃光寺の前身は室町時代前期に大内義弘が造立した香積寺で、義弘が応永の乱で足利義満に反乱を起こして敗死した後、弟で家督を継いだ大内盛見によって義弘を供養するために五重塔が建造されることになった。

実際に五重塔が完成したのは嘉吉二年のことで(発起人である盛見はその後九州で戦死し、後を継承した義弘の子・持世も塔の完成直前に、嘉吉の変の際の負傷が元で死去している)、現在塔は国宝に指定されている。

大内文化の傑作と言うべき美しい塔で、内部には義弘の木像が収められている(私が訪れた際にはあいにくの大雨であったため、写真にはだいぶ雨が写り込んでしまっている)。

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その後、香積寺は大内氏に取って代わった毛利氏が、萩に居城を移した際に同地に移転し、その場所には今度は陶氏が建立した瑠璃光寺が移って現在に至っている。

瑠璃光寺の北方の天花にある俊龍寺は、最初大内氏の家臣・弘中氏の菩提寺であったが、後に毛利輝元が豊臣秀吉の菩提を弔うために改修した寺院で、境内には豊臣秀吉・足利義輝・足利義昭・慶寿院(義輝・義昭の生母)の供養塔がある(下の写真)。

これは輝元の命で中興開基となった柳沢元政が、元々は義昭の家臣であったために足利氏の供養塔も造立したものと思われる。

四基の石塔のうち、向かって右端の五輪塔が秀吉の供養塔で、足利氏の供養塔はいづれも五輪塔の水輪と無縫塔を重ねたような奇妙な形をしているが(下の写真二枚目はそのうちの義輝の供養塔)、これは乱積みではなく、この地方の近世石塔に見られる特殊な形式である。

いづれも近世の供養塔であるが、義輝と義昭は他に墓塔が現存しないため、この俊龍寺の供養塔が唯一のものと言える(義昭については、広島県に墓と伝承されるものもあるが、確かな記録がある彼の供養塔としてはこれが唯一である)。

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瑠璃光寺の西方の山口県警の裏手の山中にある法泉寺跡には、大内義興の父であり、応仁の乱の西軍の有力武将として活躍した大内政弘の墓がある(ただし墓塔の宝篋印塔自体は乱積みである)。

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山口市大内の乗福寺も大内関係の寺院の一つであり、大内氏ゆかりのものと考えられる石塔がある。

大内氏の氏祖であり百済の王族とされる琳聖太子の墓と伝わる宝篋印塔がそれであり、その背後には大内重弘(大内義弘の曽祖父)と弘世(大内義弘の父)の墓(三枚目)もある。

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宝篋印塔は、塔身が後補であり、また相輪の代わりに別の宝篋印塔の笠を重ねているため七重塔のようになっていて異形であるが、室町時代前期の作と思われる。

後方の重弘と弘世の墓(六角形の塔身を持つこの地方独特の無縫塔である)が後代の造立であるため、宝篋印塔は元々はこのどちらかの墓、あるいは供養塔(時代的に弘世か)だったのかも知れない(山口市洞春寺にある大内盛見の墓もこの形式の無縫塔であるため、それにあわせて後年造られたものかも知れない)。

また宝篋印塔の笠の数からするに、かつては他にも大内氏ゆかりの宝篋印塔が数基あったものと考えられる。

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