中国・四国地方の石造物④:自性院宝篋印塔(伝・足利義政・日野富子の墓)

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名称:自性院宝篋印塔

伝承など:足利義政、日野富子の墓

所在地:岡山県赤磐市沢原 自性院


JR山陽本線の熊山駅から北方に数キロの所にある自性院は、室町時代中期に権勢を振るった日野富子が晩年を過ごした場所と伝承されている。

自性院は、赤松政則、およびその被官である浦上則宗を頼ってこの地に隠棲した日野富子が、夫である足利義政の供養のために建てた寺院と言うが、寺名の自性院は読みが義政の法号である「慈照院」と重なり、山号の小川山も富子の京都での居館であった小川第を連想させる。

ただ、富子がこの地に隠棲したとするのはあくまで地元での伝承であり、史実ではもとより京都で没しているが、何らかの富子との関わりをうかがわせる。

宝篋印塔は本堂奥の覆屋の中にあり、向かって左が足利義政の墓、右が日野富子の墓と言う。

ニ基の宝篋印塔は明らかに作風も形式も異なっており、また石材も義政塔が花崗岩なのに対して、富子の墓は砂岩である。

あるいは、造立時期も造立者も異なるのかも知れない。

義政の墓とされる宝篋印塔は、完形で洗練された中央の作風であり、室町時代中期の宝篋印塔の特徴をよく示している。

伝承の真偽はさておき、中央の作風が見られる点からするに、在地の豪族の手によるものと考えるよりも、赤松氏か浦上氏によって造立されたとも考えた方が自然であり、あるいは富子と言うよりもこのうちのいづれかが造立した義政の供養塔かも知れない。

富子の墓の方は、地方色がかなり強く出た宝篋印塔であるため時代比定が難しいが、江戸時代までは下らずおそらく中世の造立であろう。

なお、自性院の近くには和気清麻呂の墓と伝承される宝篋印塔(四枚目)があり、これも地方色が強く富子の墓に酷似してした石塔である。


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