東北地方の石造物⑪:花見ヶ森蘆名家御廟五輪塔(蘆名盛氏、盛興、盛隆の墓)

名称:花見ヶ森蘆名家御廟五輪塔

伝承など:蘆名盛氏、盛興、盛隆の墓

所在地:福島県会津若松市花見ケ丘 花見ヶ森蘆名家御廟

鶴ヶ城の雅名で知られる会津若松城は、蒲生氏郷がその基礎を築き、以降上杉景勝や加藤嘉明、そして幕末まで藩主を務めた保科正之に始まる松平氏などの大名が居城とした城であるが、城の南東には、伊達政宗に滅ぼされるまで中世を通じて会津の領主であった蘆名(葦名)氏の墓所である花見ヶ森蘆名家御廟がある。

もっとも、現在は大半の墓所は失われてしまい、住宅地の中に戦国時代の当主である蘆名盛氏、蘆名盛興、盛隆の三代の墓所をわずかに留めるのみである。

蘆名氏は桓武平氏三浦氏出身の佐原十郎義連を祖とする家柄であり、盛氏は十六代、盛興は十七代、盛隆は十八代の当主である(佐竹氏から養子に入った二十代目の蘆名義広の時に伊達政宗によって滅ぼされた)。

墓所はいづれも墳墓の上に五輪塔を置く形式で、向かって左側の墳墓が盛興(二枚目、三枚目)の墓で、右側の二つの墳墓(四枚目)のうち手前が盛氏の墓(五枚目)、奥が盛隆の墓(六枚目)であるが、墳丘の周囲は柵で囲まれており、五輪塔に近づいて見ることは出来ない。

五輪塔は戦国時代末期から江戸時代初期の造立と思われ、同市の興徳寺の蒲生氏郷の五輪塔(「東北地方の石造物⑧」参照)とよく似ているが、それぞれ微妙な形式の違いがあり、一度に造立されたものではないことがうかがえる。

最も没年の早い盛興の五輪塔が形式的には最も新しいものと思われるので、墓塔の人物比定が誤っているのか、あるいは後代に造立された供養塔かも知れない。


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