京都府内の石造物㊺:二尊院宝篋印塔、層塔(三帝陵)

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伝承など:三帝陵(土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨墓)

所在地:京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町 二尊院


京都の嵯峨にある二尊院は、平安時代初期の創建とされ、鎌倉時代に法然の弟子である湛空によって再興された。

二尊院の名は、釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を本尊とすることに由来し、本堂には鎌倉時代の釈迦如来・阿弥陀如来像が並んで安置されている。

境内の裏山には広大な墓域が広がり、鷹司家や二条家など公家の墓所も多いが(ただし石塔はいづれも江戸期のもの)、その中の奥手には「三帝陵」と通称される鎌倉時代の石塔三基が建ち並ぶ一角がある(一枚目)。

この三基は、その通称の通り三人の天皇の分骨墓と伝承され、向かって右から土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨墓とされる。

石塔はいづれも鎌倉時代後期の作であるため、伝承と若干のずれがあるが、湛空が土御門天皇と後嵯峨天皇の戒師を務めたためにそうした伝承が生まれたのであろう(湛空の次世の叡空は亀山天皇の戒師)。

向かって左側にある亀山天皇の分骨墓とされる宝篋印塔(二枚目、三枚目)は、鎌倉時代後期の宝篋印塔で、現在は相輪が塔の脇に落ちてしまっているが、復元すれば二メートルを超える大型塔であり、天皇分骨墓の伝承に相応しい迫力と風格のある塔である。

同じ嵯峨野にあり、やはり鎌倉時代後期の作である覚勝院墓地の宝篋印塔(「京都府内の石造物㊹」)参照よりもやや早い造立と思われ、おそらく清凉寺の伝・源融墓の宝篋印塔(「京都府内の石造物④」参照)と同じくらいの時期の作ではないだろうか)。

ニ基の層塔も鎌倉時代後期の作で、向かって左側の層塔(四枚目)は五重で、右側の層塔(五枚目)は現在十重であるが、当初は十三重の層塔であったと思われる。


墓地内には、法然廟と通称される湛空の廟があり(下の写真一枚目、嘉禄の法難の際に法然廟を二尊院に移し、その後分骨を祀ったため、寺院では法然廟と称している)、内部には宋の石工が造ったとされる建長五年銘の湛空の行状碑(下の写真二枚目)が納められている。

また廟の傍らには、戦乱で荒廃した二尊院の再建に尽力した三条西実隆の他、三条西実家の墓所(三条西実枝、実条の墓など)がある(下の写真三枚目)。

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二尊院は紅葉の名所としても知られ、特に総門から本堂に至る途中にあり、時代劇のロケにもよく使われる「紅葉の馬場」は有名である(下の写真)。

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