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スロバキア旅)ブラチスラバ)ナポレオンも鉄のカーテンも見たデヴィン城

中欧のスロバキアの首都、プラチスラバを訪れました。ドナウ川沿いに建つ要衝デヴィン城は、交通の要衝。かつてはナポレオンに攻められ、さらに冷戦期には「鉄のカーテン」の最前線となりました。スロヴァキア・オーストリアの国境にあり、チェコ・ハンガリーも臨めるという、中欧の地政学の最前線に立つ城でした。


ハンガリーに対しての「スロヴァキア」

スロヴァキアは、日本人にとってはなかなかなじみのない国かもしれません。スロヴァキアは「スラブ人の地」という意味。ただスラブ人は中東欧一帯にいる民族です。誰にとってスロヴァキア、と宣言する必要があったかというと、それはハンガリーです。

もともとスロヴァキアは、「上ハンガリー」と呼ばれていた盆地とその周辺部です。6~7世紀にスラブ系の人々の住処になっていた地域に、10世紀末にマジャール人が東方から移動して「ハンガリー王国」を建国して組み込まれます。

13世紀ごろからはドイツ植民が盛んになり、また前後して西欧での迫害が厳しくなったユダヤ人が逃げ込む地ともなりました。ただベースはハンガリーに対して主張した「スロヴァキア」です。

ナポレオンが引き起こした西欧のナショナリズムの波を受けて、スロヴァキアとしての国民意識が醸成。第一次世界大戦でのオーストリア=ハプスブルク帝国の解体をうけて、「チェコスロヴァキア」として独立します。

デヴィン城からドナウ川を臨む

ナポレオンが攻め落としたデヴィン城

まさにナポレオンが攻め落としたのがこのデヴィン城です。ドナウ川とその支線のモラヴァ川が合流するこの場所は、まさに交通の要所です。現在はスロヴァキア・オーストリア間の国境線ともなっているこの場所の高台に築いた城は、まさに監視と守りにうってつけです。

まさに川の合流地点に存在するデヴィン城

上の地図をみても、まさにデヴィン城が川の合流地点に存在することがわかります。ハプスブルク家下のハンガリーの一部として、オスマン帝国からの攻撃によく耐えたといわれています。ただその後、近代砲術を駆使したナポレオンによって攻撃され、陥落することとなります。そのナポレオンがスロヴァキア・ナショナリズムの波を作ったと思うと、感慨深いものがあります。

尾根筋に造られた曲輪も立派です。川と山に守られ、高台から交通の要所を見渡せるこの城の存在は、戦略的にも戦術的にもかなり世界の城の中でも高いレベルの存在だったと考えます。

尾根筋に造られた曲輪

鉄のカーテンの舞台に

第二次世界大戦後の冷戦のさなかに、共産党が主導する政権によって、ソ連側の東側諸国としてチェコスロヴァキアは組み込まれます。その東側と西側、スロヴァキアとオーストリアを隔てる最前線がこのドナウ川、ひいてはデヴィン城でした。

デヴィン城の高台からは、今でもスロヴァキア、オーストリアだけでなく、ハンガリー、チェコの国境も見ることができます。海で隔てられており、普段国境管理の存在を気にしない日本と異なり、地続き・川続きで、国境が入り組んで管理の難しい中欧の地政学的状況をよく感じることができます。

スロヴァキアに向かうオーストリアの風力発電機群

オーストリアからスロヴァキアへ向かう車の中で、大量の風力発電群を見ることができました。広大な土地があり、陸地に風力発電を気兼ねなく設置できる中欧の地形。海に囲まれ、土地が狭く住民の騒音問題や景観問題が発生し、コストをかけて海岸や海上に風力発電所を設置しなければいけない日本の立地環境との違いも感じることができました。

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