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イギリス旅)カンタベリー)エドワード黒太子の墓

「エドワード黒太子」の「黒太子」というネーミングは、全国の世界史を勉強している高校生の心を強く揺さぶったはずです。私もそのひとりでした。かっこいい。英カンタベリー大聖堂にあるエドワード黒太子の墓を訪ねました。


エドワード黒太子とは

イングランドのプランタジネット朝の初代国王、エドワード3世の息子です。フランスの継承権を主張して始まった英仏百年戦争(1339~1453年)の初期に活躍しました。クレシーの戦い・ポワティエの戦いではロングボウ(長弓)隊を率いてフランス軍に完勝。騎行(シュボジェ)と呼ばれる破壊戦術でフランスをさんざんに荒らしまわりました。

カンタベリー大聖堂に

そんな黒太子の墓があるのはロンドンから南東に電車で1時間半ほどのカンタベリー大聖堂です。

ケント州のカンタベリー大聖堂

もともとはアングロ・サクソン人による七王国時代(5~9世紀)のひとつ、ケント王国にローマ・カトリックのアウグスティヌスが布教に訪れて修道院を設立。初代のカンタベリー大司教になりました。大聖堂内の歴代の大司教一覧には、1番目に名前が載っています。

代々のカンタベリー大司教一覧。初代(597年)にアウグスティヌスの名前が。

その後の英国国教会の成立(1534年)を経て、テューダー朝のヘンリー8世は宗教改革でカトリック教会の破壊を進めます。なかでも運よくカンタベリー大聖堂は英国国教会に転換して総本山となり、今に残っています。

いよいよ黒太子の墓に

カンタベリー大聖堂の中を進むと、いよいよエドワード黒太子の墓が見えてきます。エドワード黒太子は今でも現地でも大人気で多くの人が写真を撮ります。(英語ではBlack Prince=ブラック・プリンス)。甲冑姿に実を包んだ黒太子の姿からは、当時の勇ましい姿が浮かんでくるようです。

エドワード黒太子の墓

ローマの駐屯地としてのカンタベリー

カンタベリーが都市として成立したのは、ローマによる駐屯が起源です。近くには「カンタベリー・ローマ博物館」があります。当時のモザイクでできたタイルを中心に、ローマ時代の現地の出土品が並んでいます。

当時は辺境だったイングランド(ブリタニア)の一都市でさえ、コロッセオ(闘技場)があり、バシリカ(集会場)がありました。ローマの技術力と、その力をすみずみにまでぬかりなく届ける普遍性への信仰ともいえる熱意に驚かされます。

ローマ博物館・当時のモザイクでできたタイル

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