2.1.8 南インドとインド洋交易 世界史の教科書を最初から最後まで
1. オリエントと地中海世界南インドはドラヴィダ系の人々の地域。
アーリヤ系の人々の多い北インドとは、違った個性を持つよ。
北インドのサンスクリット語文学が豊かになったのに対し、南インドではすでに紀元前後(今から2000年ほど昔)にはタミル語の文学が盛んになっていた。
6世紀半ば(今から1450年ほど前)になると、シヴァやヴィシュヌといった神様に対する”ラブソング”やダンスが流行(バクティ運動)。その最先端を言っていたのも南インドのタミル語圏だ。
また南インドは、年中暑くて雨も多い。
港町は古くからインド洋を通じてローマ帝国との交易関係をもっていた。
地中海から、アラビア海を通りインドに至り、さらにベンガル湾を通ってマラッカ海峡を抜けて東南アジアに入り、中国に至る海の交易ルートのことを、今では通称「海の道」と呼ばれている。
海のルートは、馬やラクダによる「陸の道」(シルクロード)よりも、多くの積荷を運べるという利点があった。季節により方向の変わるモンスーン(季節風)を利用する技術は、すでに1世紀ころには知られていた。ギリシア人のヒッパロスという人物が残した『エリュトゥラー海案内記』というガイドブックには、インド洋各地の都市や特産物などが詳細にまとめられているよ。
カネー(★1)と「幸福なるアラビア」(★2)から(インド南方への)航海を昔の人たちは今よりも小さな船で湾岸を迂回していたが、舵手ヒッパロスが初めて……大海横断による航路を発見し、それ以来インド洋で局部的に吹く季節風である南西風はヒッパロスと呼ばれるように思われる。以来今日まで、ある者はすぐカネーから、またある者はアローマタ(★3)から出港し、リミュリケー(★4)に向う者はかなりの間風にさからい(★5)、バリュガザ(★6)やスキティア(★7)に行く者は3日をこえず陸地にくっついて進み、以後は自分の航行に都合よい(風を得て)、沿岸を離れ外海を通って前述の数々の湾を航過するのである。
★1 アラビアのアデン東傍に比定。 ★2 アデン ★3 アフリカ東端ガルダフイ岬付近? ★4 インド西南岸地方 ★5 正確には「風を横なぐりに受けて」 ★6 インド西北の現ナルバダ河口。 ★7 インダス河口のサカ(スキティア)族の住む地。
(出典:村上堅太郎・訳『エリュトゥラー海案内記』、江上波夫・監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、19頁)
そのことは、各地で見つかるローマのコインからも明らかにされている。
インドの主要な輸出品は綿布。
のちにローマ帝国が衰退すると、中国や東南アジアとの取引が増加。マラッカ海峡やインドシナ半島の南部の港町が、ビジネスの拠点となっていく。
こうした港町と輸出品の生産地を束ねる、”海域を支配する”王国も出現。例えば、スリランカや、カンボジアの扶南(ふなん)、ベトナム南部のチャンパー、マラッカ海峡周辺のシュリーヴィジャヤ王国が知られるよ。
こうした海の道の活況に、南インドの王様も反応する。
ヒンドゥー教を保護し大規模な稲作により生産力をアップさせたチョーラ朝という王国が、10世紀~11世紀にかけて、何度もスリランカや東南アジアに遠征軍を派遣したんだ。
なんと中国が宋という王朝の時代には、商人の使節団まで派遣している。
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