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3.3.3 唐と隣接諸国 世界史の教科書を最初から最後まで

東アジアの国家を「中華」を中心とする国際体制の下に組み込んでいった唐。その周辺地域の様子を見ていこう。

モンゴル高原

まず、モンゴル高原を含む広い範囲を束ねていた騎馬遊牧民の国家であるトルコ系の突厥(突厥;トゥージェ、552~744年)は、隋の攻撃により、すでに東西に分裂していた。




このうちの東突厥の君主が独立しようとしたところ、唐は他の遊牧民の勢力と組んでこれを討伐。
このとき、モンゴル高原の騎馬遊牧民の諸勢力によって、唐の皇帝(太宗)はなんと「可汗(カガン)」という、騎馬遊牧民の君主の称号が贈られている。

しかし、その後8世紀半ば(今から1200年ほど前)になると、東突厥を滅ぼしたウイグルが、騎馬遊牧民たちを従えて国家を建設。
中国を圧迫するようになった。

しかしそのウイグルも、別のキルギスという遊牧国家に倒されて滅亡し、タリム盆地方面に移動した。
だから、現在のウイグル人の多くはタリム盆地に居住しているんだ(現在は中華人民共和国の自治区)。


チベット

チベット人たちは、チベット高原という高原地帯でヤクなどの遊牧と農業を組合せた生活をしていた。
7世紀になるとソンツェン=ガンポさんが、各地の勢力を統一することに成功。中国からは吐蕃(とばん;トゥボー、7~9世紀)と名指された。
ソンツェン=ガンポは中国の"家来"になるつもりはなく、あくまで対等の外交を目指す。中国側も攻撃は控え、皇帝の娘を差し出すことで友好関係を結ぼうとした

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インドから文字をとりいれ独自のチベット文字をつくらせ、仏教にチベット人の信仰をミックスさせたチベット仏教を国の宗教としたよ。


8世紀後半には唐とチベットの争いが激化。一時、長安を占領し、対等な形で和平を結んでいる。とても強い国だったんだね。


雲南


そんな中、中国の西南部の山岳地帯 雲南(うんなん;ユンナン)では、南詔(なんしょう;ナンヂァオ、?~902)という国が建てられ、中国の文化を受け入れて栄えたよ。


ここは中国やチベット、それに東南アジアへの交易ルートにあたる重要ポイント。一時はベトナム方面にまで支配エリアを伸ばした。



住民の中には、チベット系のペー人(白族;バイツー)

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もいたようだけれど、支配層は現在のイ人(彝族;イーツー)

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ではないかとも言われている。


朝鮮半島

朝鮮半島では、唐が新羅とタッグを組んで、百済高句麗を滅ぼしたのち、新羅が朝鮮半島の大部分を支配する結果となった。


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新羅は唐との関係を保ちつつ、唐のスタイルを受け入れて官僚制を導入したものの、伝統的な身分制度である骨品制(こっぴんせい;ゴルプムジェ)はそのまま遺された。
仏教が保護され、首都の慶州(けいしゅう;キョンジュ)には多宝塔で知られる仏国寺が建立されている。

一方、滅ぼされた高句麗の王族 大祚榮(テ・ジョヨン)は、渤海(ぼっかい;パルヘ、698~926)を建国。
王は唐の”家来”として任命され(冊封され)、その支配が認められる形となった。中国と陸続きである朝鮮半島の宿命だ。唐の官僚制をとりいれ、都の上京(じょうきょう)も長安のプランを真似したもの。「海東の盛国」とうたわれる繁栄を見た。
新羅との対抗上、日本とのつながりを重視し、何度も渤海使を送った。かつて日本の北陸地方には、渤海人をおもてなしするためのレセプションセンターもあったんだよ。


日本


超大国「隋」「唐」の出現に対応するべく、飛鳥に都を置く有力者たちは天皇を中心とした”中国”風の国家を建設するため、大化の改新を経て律令国家体制を整えていった。
”野蛮”な国とみなされてしまえば、ナメられてしまう。
”文明”国としての体裁をととのえることで、独立を示したのだ。

その証拠に、奈良県の藤原京(ふじわらきょう)や平城京(へいぜいきょう)のように中国の長安そっくりの都が建設され、均田制をマネた班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)が整備された。中国式のコインを参考にした銅線も発行されている。

こうした国づくりに欠かせなかったのは、中国の最新・最先端の情報だ。遣隋使・遣唐使を派遣したことは、小中学校でも習ってきたことだから知っているよね。
日本側の認識としては、遣隋使や遣唐使は「朝貢」ではなかった。
けれども、中国の歴史書においては「朝貢」として扱われている。
ともかく、”家来”扱いをする冊封(さくほう)が行なわれなかったことは事実。
日本」という国号や「天皇」(てんのう)という国号が定められたのも、この時期のことだよ。「天皇」という称号は、中国の皇帝が「天子」であることや皇帝の「皇」の字を含むことからすれば、かなり微妙な称号だったにちがいない。




遣唐使たちは、インターナショナルな雰囲気の長安の様子を見て、さぞかしビックリしたことだろう。
イラン系のソグド人やアラブ人の商人たちの運んできたアートや工芸品を持ちかえり、その一部は奈良の正倉院(しょうそういん)のコレクションとなっているね。
たしかに正倉院の白瑠璃碗(しろるりのわん)と呼ばれるカットグラスは、イランのササン朝のものとソックリだ。

そういうわけで、同時期の唐と同じように、奈良の平城京でも唐の影響を受けた国際色豊かな文化が栄えたんだ。
これを天平文化(てんぴょうぶんか)という。


このように、国づくりに向けた努力や地理的位置関係も手伝って、日本が唐の”家来”になることはなかったよ(唐による冊封(さくほう)は受けなかった)。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊