歴史総合入門(7)2つ目のしくみ : 戦争が変わり、社会や国際秩序が変わる
■国際秩序の転換と大衆化
20世紀の初めからは、2つ目の「しくみ」がうごきだします。
18世紀後半にイギリスではじまり、次第に世界中にひろがっていった「近代化」のしくみも、同時進行で存続しますが、ある3つの変化をきっかけに、2つ目のしくみ(国際秩序の転換と大衆化)が作動する、というイメージです。
■変化① 総力戦
1つ目の変化は、総力戦という、第一次世界大戦(1914〜1918年)にはじまるまったく新しい戦争の形です。
どのような点が新しかったのでしょうか?
そもそも近代化した国々では、徴兵制が普及し、自分の国は自分で守るという原則が当たり前になっていったんでしたよね。
兵士のほとんどを担っていたのは男性で、戦場と銃後(一般市民の暮らすところ)の区別もはっきりしていましたし、集中的な戦闘がずっと続くというようなこともありませんでした。
しかし、19世紀を通して近代的な科学技術が発達し、その技術が兵器に転用されていくと、状況は変わります。
ダイナマイトや機関銃の発明によって、戦場における死傷者が急増したのです。
すでに1853〜56年のクリミア戦争では70万人以上、1861〜65年の南北戦争では60万人もの人々が亡くなっています。
その状況が行きついた先にあるのが、第一次世界大戦。その死者は兵士だけでも900万人と推計されています。
機関銃を避けるためのに塹壕とよばれる穴が掘られ、有刺鉄線がはりめぐらされました。それを乗り越えるために戦車が発明され、機雷を避けるために潜水艦が導入。さらに飛行機による空爆もはじまりました。
一度はじまった戦争は、どちらかの陣営が根負けするまで続くことになります。
ようするに、武器や食料が尽きたほうが敗北です。となると、戦場の兵士を支えるために、女性を含む一般市民も必要になります。植民地の人々も戦争に駆り出されました。
■変化② 大衆の出現
さて、このような総力戦を勝ちぬくためには、国民が一丸になって団結し、使いうる資源を根こそぎ動員する仕組みが必要になります。
こうした時代にあって、欧米諸国や日本では、もう一つの大きな変化が生まれつつありました。
各国の「国民」が、これまでとは異なる「大衆」とよばれる特徴をもつ集団になっていったのです。
工業化の進んでいた当時の欧米諸国では、都市に住む人々が増えていましたが、100万人、200万人といった都市民を一斉にコントロールするなんて、ひとすじなわではいきません。田舎から都会に働きに出ていった人たちにとって、まわりはみな赤の他人です。
田舎での生活はきゅうくつではありますが、村のルールや役割ははっきりしていた。でも都会にはそれがありません。何が正しいのか、誰も示してはくれませんし、お金がなければ生きていけない。自分の意見を持たず、つねにまわりをキョロキョロしながら生活している。都会には、そんなふうに漠然とした不安をかかえた人々が、10万、100万人単位で集まってくるようになったわけです。
こういった人々を「大衆」といい、この変化にいち早く気づいた世界各地の人々が、大衆をコントロールするにはどうすればよいかということを考え始めました。総力戦を勝ち抜く上で、大衆のもつ「数」の力は、毒にも薬にもなりますから。
放っておけば、19世紀のヨーロッパで起きたように、社会主義の思想・運動がもりあがり、革命がおきてしまう…。心配した政府は、すでに19世紀後半から、選挙権を拡大し、保険制度を整備するなどして、労働者の不満をとりのぞこうとしていきました(ですから、「大衆化」のしくみ自体は、20世紀はじめではなく、19世紀後半にはすでに起きていたとみたほうがよいでしょう。そもそも歴史総合に登場する3つのしくみは、時代の区分を指す言葉というわけでありません)。
とはいえ工業化がすすめばすすむほど、生活水準もあがっていきます。過激な運動はしだいになりをひそめていきますが、やはり都市に住むおびただしい人々は、政府にとっても、経済界をにぎる資本家にとっても危険な存在です。
政府は、多くの人々におなじ情報を伝達するメディア(マス・メディア)を活用し、大衆をコントロールできないものかと考えるようになります。活用されたのは、100万部単位で毎日発行される新聞です。また、第一次世界大戦中に発達した通信技術も民間に転用され、1920年代にはアメリカでラジオ放送がはじまります。戦争にはメディアの発達をうながす側面があるのです。
また出版やメディアも、センセーショナルな報道によって、部数や視聴者を増やそうとしました。戦争報道も、その一つです。
■変化③ 国際秩序の転換
第一次世界大戦は、これまでの国際秩序も変化させました。
戦争に勝つためには、どれだけの人間を動員できるかがが勝負に。国が思いのままにコントロールできる人の「数」が大切だということが明らかになったわけです。すべての人的・物的資源を活用する、この新しい戦争の形を、先ほども紹介したように「総力戦」といいます。
そもそも第一次世界大戦がはじまったのは、1870〜80年代からエスカレートした帝国主義(植民地の拡大をめざす動き)が原因です。各国が植民地を争奪し合う中、同盟関係をむすび、同盟国と連合国の2大陣営がうまれたのです(非欧米圏のなかでは、近代化に成功していた日本が連合国にすべりこんでいます)。19世紀の価値観では、各陣営の軍事力が、まるで天秤のようにつりあっていれば、破局的な戦争には至らないと考えられていました。これをパワー・オブ・バランス(勢力均衡)といいます。
しかし、それは甘い考えであったわけです。
900万人もの人々が亡くなったことで、戦勝国である連合国陣営(イギリス、フランス、イタリア、日本など)は、このような惨禍をくりかえさないためには、勢力均衡に代わる、新たな国際秩序が必要だという議論が生まれます。それが、国際連盟の設立につながります。
国際連盟は、すべての国がひとつの国際平和機構に所属し、平和を乱す国をみんなで取り締まる、集団的安全保障の発想にもとづいています。
歴史総合では、この転換を「国際秩序の転換」とよんでいます。
■「植民地だらけの世界」の温存
では、集団安全保障の仕組みが功を奏したかといえば、これも甘かった。
難民問題、感染症対策や人身売買の禁止など、成果がみられた分野もあるものの、肝心の「すべての国がひとつの国際平和機構に所属し」という部分と、「平和をみだす国をみんなで懲らしめ」る方法が不十分だったのです。
また、国際連盟の常任理事国には、イギリスやフランスのようなヨーロッパ諸国が居座りますが、この二カ国はあいかわらず世界中の国や地域を、保護国や植民地として勢力下に置いています。
負けた同盟国ドイツのもっていた植民地は、「委任統治領」と名前を変え、やはりイギリスやフランスなどの戦勝国がわけあいました。
じつはイギリスの勢力圏が最大となったのは、第一次世界大戦直後のことなのです。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊