■アメリカ合衆国の繁栄と矛盾
20世紀への転換期から第一次世界大戦にいたる時期のアメリカは「革新主義の時代」と呼ばれる。
急速な工業化のもたらした資本の過度な集中、経済格差、都市の環境悪化や移民の増加などにともなう社会問題が、若いアメリカ中産階級に危機意識をもたらしたのだ。
1920年代のアメリカでは、都市人口が農村人口を上回り、ホワイトカラー層からなる新中産階級が、マスコミを通した宣伝に刺激され、大量に消費を行うようになった。
資料 コカ・コーラの広告
流れ作業方式により大量生産が可能となったT型フォードに代表されるように、自動車や家庭用電気製品が頻繁にモデルチェンジをおこない、高価な商品であっても月賦販売が導入されることによって労働者の手に届きやすいものとなっていった。現在では一般的となった通信販売やチェーンストアがあらわれたのも、この時代のアメリカのことである。
人々は、他人と同じ話題や新しい情報の刺激を求め、雑誌やラジオ、映画、プロスポーツの興業やジャズ音楽に熱狂した。若い女性たちは、保守的な女性像を受け入れず、「フラッパー」と呼ばれた。
こうした繁栄の影では、排外的な空気も強まっていた。19世紀末以降に「新移民」というカテゴリーをつけられた東欧や南欧系の移民にはカトリックやユダヤ教を信仰する人々が多く、アングロ・サクソン系の「旧移民」がプロテスタントを信仰していたのに対し、伝統にそぐわない「他者」として排斥されるようになった。 1920年代に憲法修正を経て禁酒法が制定されたのも、 アングロ・サクソン系の白人プロテスタント(WASP)による嫌悪が背景にあった。
1924年には移民が国別に割り当てられるようになり、新移民の流入はおさえられ、移民総数も制限されるようになった。
この移民制限には日本人も含まれていたため、日本ではこの法を「排日移民法」であるとちうよく非難した。
こうした移民制限の背景には、ロシア革命によって共産主義者が入国することへの危惧もあった。
また、KKK(クー・クラックス・クラン)という反黒人の結社の会員数が急増し、南部から北部に移住していった黒人に対する差別も深刻化した。
■大衆文化の広がり
文化には、人々の欲望を刺激し、生き方や社会の理想像に影響を与える力がある。アメリカ合衆国で広まった大衆を対象とし、大衆に受け入れられた文化は、国境を越え、他国にも浸透していった。その急先鋒となったのは、ハリウッドを拠点とする映画産業だ。主要な映画会社の多くは、ニューヨークのゲットーを逃れたユダヤ系の移民により経営されていた。1920年代には、世界で上映される映画の大部分はアメリカ映画となった。
たとえば第一次世界大戦後のドイツでは、アメリカ式生活様式が広まったが、それに追随する動きへの警戒感も存在した。
大正後期から昭和初期にかけての日本でも、アメリカ合衆国で広まった生活様式の影響が見られた。
東京や大阪など大都市で人口が増加したことに目をつけた私鉄は、沿線を開発することで収益をあげようとした。その結果、郊外住宅が販売され、都市部のターミナル駅には百貨店ができた。人々は和風と洋風を折衷させた文化住宅も登場したのもこのころである。
資料 阪急の商業宣伝
資料 田園都市株式会社のパンフレット
田園都市株式会社は、1918年に渋沢栄一が創設した。これには、関西で厭戦開発に成功していた現阪急電鉄(箕面有馬電気軌道)の創業者・小林一三がたずさわっていた。阪急百貨店は宝塚少女歌劇とともに、沿線の消費文化の中心となった。
こうした地域では、企業から俸給をもらうサラリーマンと呼ばれる新中間層が生まれ、女性もバスガールや電話交換手として社会進出するようになった。
日本でも、アメリカのハリウッド映画が人々を魅了し、アメリカ式の文化のいわば教科書となった。アメリカから紹介されたプロ野球の人気が高まり、大学や中学校(高等学校)にも導入された。浅草の喜劇、大阪のお笑い劇、宝塚の少女歌劇などの大衆演劇がさかんとなるとともに、アメリカ式生活様式を体現するモボ・モガと呼ばれる若者も注目を集めた。