見出し画像

新科目「歴史総合」を読む 2-2-5. アメリカ合衆国の台頭と大量消費社会

メイン・クエスチョン
大量消費社会によって、社会はどのように変化したのだろうか?


■アメリカ合衆国の繁栄と矛盾

サブ・クエスチョン
第一次世界大戦後のアメリカは、どのように変化したのだろうか?

 20世紀への転換期から第一次世界大戦にいたる時期のアメリカは「革新主義の時代」と呼ばれる。
 急速な工業化のもたらした資本の過度な集中、経済格差、都市の環境悪化や移民の増加などにともなう社会問題が、若いアメリカ中産階級に危機意識をもたらしたのだ。


スタンダード・オイル社による多業種の独占や政治的な影響力を風刺したリトグラフ(1904年)Political cartoon showing a Standard Oil tank as an octopus with many tentacles wrapped around the steel, copper, and shipping industries, as well as a state house, the U.S. Capitol, and one tentacle reaching for the White House.
(パブリック・ドメイン、http://loc.gov/pictures/resource/cph.3b52184/


 1920年代のアメリカでは、都市人口が農村人口を上回り、ホワイトカラー層からなる新中産階級が、マスコミを通した宣伝に刺激され、大量に消費を行うようになった。


資料 コカ・コーラの広告 

資料 宣伝について (アレン『オンリー・イエスタデイ』)
「誇大宣伝がつくり出した(スポーツ選手や冒険家や映画スターなど)今日的英雄に、民衆は頭を下げたが、この英雄たちは映画と組んで利益を得たり、ゴーストライターの新聞発表用の記事と関係をもって利益を得たりしているので、完全には信用されていなかった。大衆は私生活、社会生活では安穏に暮らしているとはいえ、彼等の生活には必要な何かが欠落していた。そしてそのすべてを直ちに、リンドバーグは与えたのである。ロマンス、騎士道、自己犠牲などアーサー王伝説の純血の騎士ギャラハッドにも象徴されるものを忘れてしまっていたこの時代の人びとに、現代のギャラハッドを体現してみせたのだ。)

(出典:藤久ミネ訳、生井英孝『空の帝国 アメリカの20世紀』講談社、2006=2018年)


 流れ作業方式により大量生産が可能となったT型フォードに代表されるように、自動車や家庭用電気製品が頻繁にモデルチェンジをおこない、高価な商品であっても月賦販売が導入されることによって労働者の手に届きやすいものとなっていった。現在では一般的となった通信販売やチェーンストアがあらわれたのも、この時代のアメリカのことである。

 人々は、他人と同じ話題や新しい情報の刺激を求め、雑誌やラジオ、映画、プロスポーツの興業やジャズ音楽に熱狂した。若い女性たちは、保守的な女性像を受け入れず、「フラッパー」と呼ばれた。

 こうした繁栄の影では、排外的な空気も強まっていた。19世紀末以降に「新移民」というカテゴリーをつけられた東欧や南欧系の移民にはカトリックやユダヤ教を信仰する人々が多く、アングロ・サクソン系の「旧移民」がプロテスタントを信仰していたのに対し、伝統にそぐわない「他者」として排斥されるようになった。 1920年代に憲法修正を経て禁酒法が制定されたのも、 アングロ・サクソン系の白人プロテスタント(WASP)による嫌悪が背景にあった。
 1924年には移民が国別に割り当てられるようになり、新移民の流入はおさえられ、移民総数も制限されるようになった。
 この移民制限には日本人も含まれていたため、日本ではこの法を「排日移民法」であるとちうよく非難した。
 こうした移民制限の背景には、ロシア革命によって共産主義者が入国することへの危惧もあった。
 また、KKK(クー・クラックス・クラン)という反黒人の結社の会員数が急増し、南部から北部に移住していった黒人に対する差別も深刻化した。


 資料 スコット・フィッツジェラルド『オンリー・イエスタデイ』 
「数年にわたってアメリカ国民は、精神的飢餓状態にあった。彼らは、次から次へと以前の理想や幻想、希望が壊されていくことに気づきつつあった。宗教の土台を崩し、その感傷的な考えをあざけり笑う科学の教義と心理学説によって、そして、猥雑と殺人とで食っている新聞の傾向によって壊されていくのだ。人びとのリンドバーグに対する気持ちは、巨大な宗教が復活したかような様相を呈したことに何の不思議があろうか」(太字は引用者)


 

資料 スコット・フィッツジェラルド『ジャズエイジのこだま』 
「何か光り輝く異様なものが空をよぎった。同世代の人びととは何も共通点も持たないかに見えた一人のミネソタ出身の若者が、英雄的行為を成し遂げた。しばらくの間、人びとは、カントリークラブで、もぐり酒場で、グラスをしたに置き、最良の夢に思いをはせた。そうか、空を飛べば抜け出せたのか。われわれの定まることをしらない血は、果てしない大空にならフロンティアを見つけられたかもしれなかったのだ。しかし、われわれは、もう引き返せなくなっていた。ジャズエイジは続いていた。われわれは、また、グラスを上げるのだった」(太字は引用者)




■大衆文化の広がり

サブ・クエスチョン
大衆文化は、それ以前の文化と比べ、どのような違いがあったのだろうか?


 文化には、人々の欲望を刺激し、生き方や社会の理想像に影響を与える力がある。アメリカ合衆国で広まった大衆を対象とし、大衆に受け入れられた文化は、国境を越え、他国にも浸透していった。その急先鋒となったのは、ハリウッドを拠点とする映画産業だ。主要な映画会社の多くは、ニューヨークのゲットーを逃れたユダヤ系の移民により経営されていた。1920年代には、世界で上映される映画の大部分はアメリカ映画となった。

 たとえば第一次世界大戦後のドイツでは、アメリカ式生活様式が広まったが、それに追随する動きへの警戒感も存在した。

 大正後期から昭和初期にかけての日本でも、アメリカ合衆国で広まった生活様式の影響が見られた。

資料 「サラリーマン」
 一般的に、社会集団としての大衆が形成されるには、農村から都市へ人口が流入し、都市において労働者階級が成立できる状況が整っていることがその前提条件となる。もちろん、それ以前に、都市が成立していて、社会経済構造が農業経済社会から工業経済社会へと移行していて、都市に流入人口を労働者として受け入れ定着させるだけの産業が興っていることが必要であるが。農村人口の一部が都市に流出し、工業労働者となり、さらに、都市へ入人口は、工業から専門職業、商業、運輸業、サーヴィス業などのサーヴィス産業へと広がっ ていく。大衆社会が出現する過程では、商品が大量生産・販売され、それに応じてその商品 を大量に消費する消費者が誕生する。ひとたび大量に生産された商品が市場に大量に流通し 始めると、消費者がそれら大量生産商品を購入・消費することによってその生活様式は画一 化されていく。生活様式が画一化されると、商品は大量に生産しやすくなり、それが市場に 流通し、大量に消費される、という商品大量生産→流通→大量消費の商品経済循環ができあ がる。大量消費社会(消費者による)と大量生産体制(生産・企業側による)は表裏一体で あり、互いに補完しあって存在しているのだ。

本稿で対象としている19世紀末から20世紀初にかけての時期の日本は、欧米諸国に後れ をとったものの産業革命を成し遂げ、重化学工業が発展の緒についたところであった。その ような産業界の発展と足並みをそろえるようにして、上に述べたような大量消費社会も芽を 吹き出しつつあった。現代のそれへと通じる商品経済システムが軌道に乗り、うまく機能し 始めたのである。全国規模で都市が誕生し、消費人口が増大した。大量消費社会・大量生産 社会が出現した。企業の側からすれば、大量生産体制をとることができたのは、企業の管理 システムが十分に発展していたからであり、社会全体の経済活動が専門化していたからで あり、各組織内にあっては縦の命令系統が形成されていて、上部の意思決定がその系統にのっ とって即座に実行可能な状況が出来上がっていたからである。各企業レヴェルでは、様々な 業務が客観的基準(個人の才能によらず、それを満たしていればだれでも当該業務をこなす ことのできる基準)によって処理される態勢が整っていたからである。このような企業管理 システムが出来上がり、機能し始めると、企業には俸給(サラリー)を給付される労働者、 サラリーマンが増加していく。現代へと通じる、サラリーマン社会の到来である。サラリーマンの大量出現それ自体が大きな社会変化であるが、このことを契機として社会生活はさらにいっそう変化していく。サラリーマンの通勤のために、大量かつ迅速な移動を可能にする交通機関が発達する。サラリーマン(家族)層はまた大量消費人口でもあり、彼らの需要を満たすべく大量生産された商品を円滑に市場に提供するために、物資の大量・迅速輸送を可能にする交通機関が発達する。通勤のための交通機関が充実すると、居住住宅は職場から離れていても差し支えないので、住宅が近郊に広がる。こうして都市空間は拡大していく。鉄道沿線に新興住宅地や遊園地が造られ、ターミナル駅にはデパートが登場した。
社会全般の産業化が進み、重点が軽工業から重工業へとシフトするにつれ、工場は増えそ の規模を拡大し、都市人口は増大した。各種産業労働者数は増え、労働者層を形成するにい たった。そして、従来の農業従事者や中小商工業者などの旧中間層とは異なる、貿易商社や 諸企業に勤める、多数の俸給生活者=サラリーマンという新中間層を生み出したのであった。

Q. サラリーマンとはどのような人々を指すのだろうか?



 東京や大阪など大都市で人口が増加したことに目をつけた私鉄は、沿線を開発することで収益をあげようとした。その結果、郊外住宅が販売され、都市部のターミナル駅には百貨店ができた。人々は和風と洋風を折衷させた文化住宅も登場したのもこのころである。

資料 阪急の商業宣伝

 小林一三は1929(昭和4)年に梅田駅に日本初のターミナルデパート「阪急百貨店」を開業。洋食を庶民的な値段で提供し、人気を博した。


資料 田園都市株式会社のパンフレット

田園都市株式会社ブローシャー  Uploaded by 未知との遭遇 File:Denentoshi Brochure.png CC 表示-継承 3.0、https://ja.wikipedia.org/wiki/田園都市_(企業)#/media/ファイル:Denentoshi_Brochure.png


 田園都市株式会社は、1918年に渋沢栄一が創設した。これには、関西で厭戦開発に成功していた現阪急電鉄(箕面有馬電気軌道)の創業者・小林一三こばやしいちぞうがたずさわっていた。阪急百貨店は宝塚少女歌劇とともに、沿線の消費文化の中心となった。

 こうした地域では、企業から俸給をもらうサラリーマンと呼ばれる新中間層が生まれ、女性もバスガールや電話交換手として社会進出するようになった。

1932年12月21日付「東京朝日新聞」朝刊7面


資料 「働く女は 一九三一年の女性のほこり タイピスト学校御紹介」(東京朝日新聞、1931年6月13日)
 イギリスのやうに女大臣や女巡査が出るまでにはまだ相当の年月がかかりさうですが女性の職業は日を追うて開拓され、一九三一年の女性のほこりは、「働く女」であるとさへいはれてをります。
 現在女性に拓かれた職業は数にして百を越えるが、田舎から出て来たり女学校を出ただけの資格で働く愉快さのある職業といへば、さう沢山あるわけではありません。専門的な技術を修得するか、心にもない愛敬をふりまかなければ、少くとも女一人が自活したり、嫁入支度に十分の満足が得難いやうです。比較的修業期間が短く、学費も低廉で、就職の暁には働きに嫌味がなく収入も比較的多い商売の一つに、タイピストが挙げられませう。
 今から三、四年前、大阪のある女学校が希望者にタイプライテングを課外に教へたのがはじまりで現在女学校でタイプライターを正科にしてゐるところが随分あるのも道理でせう。
(中略)
 (タイピスト女学校への)入学の資格は制限がありません。邦文なら小学校卒業程度の漢字、英文なら女学校程度の英語を知ってゐればそれでいいので、生徒さんも十四五歳のお下髪の人から二十二三の娘さんが大部分といった有様です。(以下略)
(1931〈昭和6〉年6月13日付 東京朝日朝刊10面)

Q. タイピストは、当時女性にとってどのような仕事と考えられていたのだろうか?



 日本でも、アメリカのハリウッド映画が人々を魅了し、アメリカ式の文化のいわば教科書となった。アメリカから紹介されたプロ野球の人気が高まり、大学や中学校(高等学校)にも導入された。浅草の喜劇、大阪のお笑い劇、宝塚の少女歌劇などの大衆演劇がさかんとなるとともに、アメリカ式生活様式を体現するモボ・モガと呼ばれる若者も注目を集めた。



資料 新中間層の文化
 大正時代に始まり現代にまで通じる生活様式は、新中間層たるサラリーマンの家庭において 典型的に見受けられた。だが、目をこらして観察してみると、収入の面でも、生活の「質」 の面でも、真の中流階級とは隔絶の差があった。たとえば、同じ洋風住宅といっても、応接間と中廊下をもつ和洋折衷のモダンな文化住宅に住む中流階級に比べて、新中間層=サラリーマンの住む郊外の「文化住宅」は、しゃれた造りで見映えこそよかったが、所詮、安直 な建売住宅に過ぎなかった。上のように竹村が指摘するとおり、この時代のサラリーマンは、 その外面的なイメージとは裏腹に、実際には社会の底辺近くに存在する一般大衆であった。
島村抱月が「終日労作に疲れた勤め人や労働者が、晩食の後に妻を携え友を誘い劇場に一 夕を訳もなく面白く過ごして、翌日の英気を回復しようと願う」だろうと、優しい視線を向 けている「勤め人や労働者」とは、まさに、上に述べてきたようなサラリーマンや労働者の ことではなかろうか。大正時代は、様々な階層の人々の間で生活スタイルへの関心が生まれ、 大衆レヴェルで生活の「質」向上を目指す意識が高まった。その一端は、上述したように、 「文化住宅」に寄せる庶民層の関心と、それを背景とした郊外新興住宅地の開発に見られる。 その関心、向上願望は、単に衣食住の枠内にとどまらなかった。今より豊かで変化に富んだ 生活をしてみたいという欲求が、レジャーの形態そのものを変えていった。趣味や遊びを日 常生活の中に取り込んで、日常の場・時間において、楽しみたいという志向が生まれた。大衆娯楽は日常化し、多様化した。大衆娯楽は、まさしく、一般大衆の文化そのものとなった。

Q. 大正時代のサラリーマンは、どのような文化を求めていたのだろうか?

(出典:木村敦夫「島村抱月の通俗演劇論」『東京藝術大学音楽学部 紀要』第34集、平成 21年3月、https://geidai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=478&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=17)

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊