【第2回】ニッポンの世界史:日本人にとって世界史とはなにか?
「世界史」という科目は、どのようにして生まれたのか?
前回、1949年に「世界史」という科目がつくられたと述べました。
どのような経緯で「世界史」という科目が置かれたのでしょうか?
今回はちょっとお堅い内容にはなりますが、「科目世界史」がどんなふうに誕生したのか、その秘話をきちんと確認しておかねばなりません。
まずは戦後まもなくの状況を確認しておくことからはじめましょう。
戦後の新科目「社会科」
1945(昭和20)年9月2日、1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号において、降伏文書調印式が行われました。
9月にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が本格的に活動を始め、占領政策に着手。GHQの指示をうけた政府が、様々な分野で戦後改革をすすめていくこととなりました。
改革のメスは教育分野にも及びます。
まず、修身、日本歴史および地理の教科を教えることは、GHQの指令によって1945年12月31日に停止され、教科書は回収・廃棄されることとなります。
これら3教科には「軍国主義的および超国家主義的イデオロギーが、修身、日本歴史および地理の教科に執拗に織り込まれていた」とされたためです。
翌1946年3月にはアメリカ教育使節団が来日し、1ヶ月後に包括的な報告書を公表。そこには「記録された歴史と神話とが意識的に混同され」た戦前の歴史教育の問題点を指摘した上で、新たな歴史教科書の編纂が提案されていました。
そして1947年には小学校 6 年・中学校 3 年・高校 3 年・大学 4 年と改められた新しい学制がしかれ、新しく「社会科」という教科が設置されることになりました。
新科目「社会科」の目的は次のようなものです。
社会科は軍国主義的な要素を一掃し、民主主義を徹底するための教科として重視されたわけです。
そのためにふさわしいとされたのは、問題解決学習と単元学習というアメリカで発達した学習方法です。
高校では「国史」(日本史)の代わりに東洋史と西洋史が置かれた
しかし、改革は早くも修正されます。
新学制がはじまったのは1947(昭和22)年4月ですが、これより前の1946年10月14日、GHQは歴史の授業を再開する許可を出していたのです。
それを受け文部省は11月に通達「国史授業指導要項について」を公にしますが、まだ新学制がはじまっていない段階でした。
そこで、国民学校、中学校、師範学校などで使用する教科書が、わずか1か月半で編纂されることとなります。つまり、新学制において「社会科」が実施されるのとは別コースで、国史の教育が再開されるといういびつな状況が生まれたわけです。
とはいえ、国史はいったんは「軍国主義的および超国家主義的イデオロギー」とにらまれた科目です。
歴史や地理に関する科目が、新学制の高校ではどのような科目に再編されることになるのかも問題でした。「民主主義を徹底するための教科」としてもうけられた社会科と、整合性をとる必要もありました。
結果的として、小学校から中学校までの9年間の社会科は、高校1年の「一般社会」(必須科目)に引き継がれることになりました。
そして高校2〜3年においては、4つの選択科目が置かれます。
この4つの選択科目のラインナップは以下のとおり。
・東洋史
・西洋史
・人文地理
・時事問題
ようするに、高校の歴史科目からは依然として「国史」が省かれたままとなり、歴史科目としては東洋史と西洋史が置かれることとなったのです。西洋史・東洋史はほかの科目とあわせて最低1科目が選択必修の扱いでした。
歴史研究を国史・西洋史・東洋史に区別する明治以来の日本の歴史研究における3分科制が、国史をとりさることによって、西洋史・東洋史が残されたわけであって、「世界史」が西洋史・東洋史に分けられたわけではありません。
歴史は東洋史、西洋史、国史で構成されているのだから、戦前の皇国史観の影響を排除するために国史を省けば、のこるは西洋史と東洋史だけということとなります。「世界史」という学問分野自体、存在する余地もありませんでした。
ちなみに、西洋とはどこからどこまでを指すのかというと、実は判然としていませんでした。東洋というくくりは、ほぼ中国を指すものと考えてよいですが、実際には西洋以外の地域、つまりイスラームやインド、アフリカといった地域は、東洋という箱に投げ込まれることとなります。
とはいえ、その導入の目的は、西洋史を学ぶことが、戦後日本の民主化に貢献するという期待にあったことは、学習指導要領試案からも読み取れます。
西洋史と東洋史はどのような科目だったのか?
当時の東洋史、西洋史雰囲気を感じてもらうために、西洋史の学習指導要領(試案)の「はじめに」を、少し長いですが引いておきましょう。
「今日の世界の主流をなしているのは、西洋文明であるから、東洋の歴史を知るためにも、西洋史の知識が絶対に必要である」というのは、かなりの直言ですよね。
西洋史とは現代の感覚でいえばヨーロッパやアメリカの歴史ということになりますが、当時はそうではありません。すでに滅んでしまったオリエント文明も、西洋史の「前史」として位置付けられていました。
これには、先史時代から古代オリエント文明を経て、ギリシア→ローマ→ゲルマンというように一直線に進んでいったとする、西洋における伝統的な世界史理解が反映しています。
では、東洋史はどのような扱いだったのでしょうか?
おなじく「はじめに」をみてみましょう。
「西洋の近代文化は優秀」であったから、いったん東洋の「古風文化がこれに圧倒され」、「全世界は一つ」になった。
しかし、「東洋固有の特色」は絶えてしまったわけでなく、必ずやまた違ったかたちでリバイバルするはずだ——おおづかみに言うと、まあ、こういう理解になりますね。
この部分を読めば明らかなように、明らかに西洋=進歩/東洋=停滞という対立図式が認識の根っこにあったわけです。
「暗記科目ではない」
もうひとつ東洋史の「はじめに」で注目しておきたいのは、以下の箇所です。
ここでは歴史は暗記教科ではないことが、実にはっきりと掲げられていますね。
これには敗戦直後という状況もあるでしょう。当時は、現在のように国による教科書検定制度がなく、代わりに「参考書」が示されるだけでしたし、教科書の編纂も間に合わなかった。
指導要領(試案)には「学校当局として特別の努力をして多数を備え、生徒に自発的研究の便宜を提供すべきである」とあります。たとえば西洋史なら東洋史なら那珂通世の『支那通史(全3巻)』(岩波書店、昭13〜16)という具合です。
では指導要領には何が載っているかというと、「こんなふうに問いを立てて学習をすすめるとよいですよ」という、たとえば次のような問いの事例です。
単元一 東洋の古代文化はどのようにして成立したか。
単元二 東洋の文化はどのようにして拡充したか
単元三 庶民生活はどのように向上したか
単元四 古い東洋はどのように老成したか
単元五 東洋の近代化はどのように進んでいるか
国史の復活を求める声
ですが、東洋史と西洋史というように、外国史が分断されているのはおかしいだろうという見方があったことも事実です。
しかも、高校の選択科目から外された国史の研究者からの批判も強まります。高校から国史がなくなるれば、国史を学んだ大学生が、新制高校で教鞭をとることができなくなってしまうという就職口の事情もあったようです。
さらに細かな事情になりますが、戦前と戦後で、前期中等段階、すなわち中学校にあたる部分の扱いが変わり、そこで何を教えるかということも問題となっていました。
戦前の義務教育は初等教育、すなわち戦後でいう小学校までで、卒業後の進路は陸軍・海軍の学校も含め、複数のルートにわかれていました。しかし、戦後は中等教育のうち前期にあたる「中学校」までを義務教育とし、後期が「高等学校」とされます。そうなると、教育内容が校種によって多様であった戦前の中等教育をひとくくりにしようとしても、農業や工業など職業に関する中等教育をおこなっていた学校のカリキュラムと、普通科の学校のカリキュラムの間にギャップが生まれてしまう。そのため、職業高校と普通普通高校にかかわりなく、国民全員の教養として、高校生が学ぶべき共通教科・科目をつくるべきだという声が出てきたわけです。
こうしたさまざまな事情から、1949(昭和24年)年に東洋史と西洋史の代わりに、日本史(旧・国史)と世界史とすることが決められます。
新たに5 単位分の「日本史」を設けて選択科目にくわえるために、「東洋史」と「西洋史」が便宜的にひとまとめにされたと見るべきでしょう。
教育学者・茨木智志が詳細に研究するように、なぜ、どういう経緯で「世界史」という科目がうみだされたのか、占領下での改革ということもありいまだ謎に包まれた部分もあります(注)。
ただ明らかのは、そこになんら学問的議論もなければ、世界史の内容構成に関する教育上の議論もなかったことです(高澤紀恵「戦後・教科「世界史」・西洋史学」『法政史学』(96)、2021年、1-4頁)。
怪物とよばれた新科目「世界史」
このように、「世界史」という科目は、敗戦直後のドタバタの中で急ぎ産み落とされました。
どのくらいドタバタであったかというと、新科目「世界史」が始まった当初は、教科書もなければ、学習指導要領もありません。学習指導要領(試案)は、ようやく1951年になって発表されます。
「まえがき」を見てみましょう。
ここからは「社会科における歴史教育」とあるように、世界史は、おなじく新科目として戦後にはじまった「社会科」の枠内に設置されたことがわかります。
学習の方針については、次のように「教科書全部の暗記」や「教科書全部の講義」を否定しています。
ここには歴史そのものを学ぶことが目的ではなく、歴史を通して「のぞましい社会」に対する認識を育てるという方向性が、一貫してうちだされているわけです。
時代区分は一応示されたが…
時代の区分については「いろいろな区分が考えられる」としながらも、一応の案として「近代以前の社会」と「近代以後の社会(近代社会と現代の社会)」という区分が採用されました。
いまでは考えられないほど大雑把なものですが、現代の社会を理解するためには、近代以前の細々とした知識の暗記は捨てて、現代により近い時代への問題意識をもってもらおうということでしょう。
ただ、問題解決学習をうたいながらも、学習指導要領のその後の箇所には、一応の参考として内容が列挙されています。
この構成をみると、特に「近代の世界」はほとんどが「西洋史」といってよい建て付けになっています。
この構成が、やがてどのように変化していくのかが、「ニッポンの世界史」を考える上でとっても大切になってきます。
問いをベースにした単元構成
教室では、これらの事項のすべてを網羅的に扱うのではなく、「単元」を設けて、生徒の自主的な問題解決学習や主題学習をさせるということになりました。
しかし、ついこの間まで、講義形の一斉授業をおこなっていた先生たちに、いきなりこんなことをさせるのは、当然むずかしいですよね。さすがに現場に「丸投げ」ということになっては困ると考えたのでしょう。
指導要領では、次のように4つの案が示されました。
なかなか大胆ですよね。
現場にいかに多くの裁量が与えられていたかがわかるでしょう(成立期の事情については、「文部省通達「高等学校社会科世界史の学習について」(1950年9月)の世界史教育史上の位置づけ」『歴史教育史研究』2、2004、19-28頁に詳しい)。
怪物と呼ばれた新科目「世界史」
社会科世界史はこのように、見切り発車というか、帳尻合わせのようなかたちでスタートしたわけですが、なにせ戦後まもない復興期のことです。暗中模索の現場には、当然ながら混乱も見られました。
たとえば1950(昭和25)年に出版された『世界史の可能性』という書籍があります。これは歴史学者どうしの分断された状況や、教育現場とのギャップを生々しく伝えている重要な資料で、その冒頭において編者で成城高校で教鞭をとっていたの尾鍋輝彦は、次のように伝えています。
歴史教育畑でしばしば引用される「名文」です。
このように「怪物」とされた世界史は、やがて暗記科目の代名詞となる一方、21世紀にはビジネスパーソンに必須の「教養」と目されることになります。
そのあいだ、世界史はいったいどのような道のりを歩んできたのでしょうか?
前回紹介した小川幸司の指摘のように、「暗記地獄」となった原因は、本当にひとえに受験を見据えた高校教師の善意にあったといえるのでしょうか?
まずはこのまま「教科世界史」の動向や歴史学・歴史教育界に軸足を置いて、日本人の世界史意識の変遷を教科書的にたどってみたいと思います。
(続く)
(注)茨木智志「成立期における高校社会科「世界史」の特徴に関する一考察」全国社会科
教育学会『社会科研究』72、2010、pp.11-20。木崎弘美「新制高校「世界史」の創設─2009年度歴研大会 茨木智志報告をめぐって」、歴史学研究会編集『歴史学研究』No.865、2010、pp. 27-32も参考になる。
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