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アレクサンドロスは西洋文明の伝え手か?2-3-1-3. オリエント文明の拡大 新科目「世界史探究」をよむ

前回に引き続き、オリエント文明の拡大について見ていくことにしよう。


アケメネス朝による再統一

 アッシリア帝国の崩壊ののち複数の王国に分裂していたオリエントは、前6世紀後半にイラン高原のペルシア人という民族によって再び統一された。
 この帝国をアケメネス朝(前550〜前330)という。

 アケメネス朝は東はインダス川、西はギリシアのエーゲ海にまたがり、広大な帝国から貢納によって富を集め、総督を派遣することによって統治した。

 征服された地域の人々がちゃんと納税や軍役を果たしている限り、かれらの言語・宗教・法など、伝統や慣習を維持することは許された。
 また被征服地の旧支配層も、アケメネス朝の王に忠誠を誓えば、そこでの支配的な地位は保証された。
 ペルシア人の文化を押し付けて無理に支配しようとするよりも、このほうがコストの低い統治方式だったといえるだろうが、その実現のために必要なものこそ、帝国ないを迅速にむすびつける交通・通信ネットワーク、すなわち「王の道」というインフラの存在だった(参考:川瀬豊子「ハカーマニシュ朝ペルシアの交通・通信システム」『岩波講座世界歴史2 オリエント世界』岩波書店、1998年、301-318頁、302頁)。

出典:川瀬、上掲、302頁。ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、全長450パラサンゲス(13500スタディオン)、すなわち2400km。20〜30km間隔に111の宿泊施設(カタルシス)を備えた宿駅(スタトモス)があり、要所には関所や衛兵所があり、治安が維持されていた。1日150スタディオンで全行程90日かかったというが、各宿駅の間隔が平均的な旅行者の1日の旅程ごとに配置されていたとすれば、111日かかったと考えるべきだろう。王や高官の発給する押印文書を持つ旅行者に対しては、食糧と馬糧が無料で保証されていたし、不慣れな旅行者には王室所属のガイドもつけられた。


 ペルセポリスに残されたレリーフには帝国内のさまざまな民族の姿が刻まれている。


資料 ペルセポリス アバダーナ東側基壇南翼レリーフ:朝貢団

どのような民族の姿が見えるだろうか?

出典:川瀬、上掲、306-7頁

 これだけの人々が貢物を持ちペルセポリスに集まることができたのも、王の道があればこその話だった。


 前5世紀はじめには、アテネとスパルタを中心とするギリシアのポリスの連合軍が、ギリシアに遠征したアケメネス朝を撃退。これをペルシア戦争(前500〜前449)という。
 勝利したポリスのうち、とくに戦果の大きかったアテネは、戦後のギリシア世界で他のポリスを支配するなど、覇権をひろげていった。
 また、ペルシア戦争期には「アジアのアケメネス朝が負けたのは、皇帝による専制によるもので、アテネ率いるギリシアが勝利したのは民主政のおかげだ」という考え方も広まっていった(下記リンクを参照)。

 大規模な戦争は人々を動員する必要があるから、しばしばその期間中から戦後にかけて、政治に参加する権利(参政権)の拡大をともなう。
 第一次世界大戦中・戦後に、女性の参政権が欧米諸国で拡大したのも、同じような理屈によるものだ。

 そんなアケメネス朝も、前4世紀後半、マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされることになる。



アレクサンドロス大王とは何者だったのか?

19世紀以降、ドイツ人の歴史家ドロイゼンによって「ギリシア文化をオリエントに伝え、両者を融合させた(オリエントの文明をギリシア化させた)人物」と評価されるようになったアレクサンドロス大王

前4世紀後半にマケドニア王国(?〜前148)の王に即位すると、父の服属させていたギリシアの諸ポリスを率いて、東方遠征を開始した。

アケメネス朝を打倒し、ギリシアからエジプト、インダス川に至る大帝国を一代で築き上げ、没後にもマケドニア、シリア(シリアからペルシア高原にかけての地域)、エジプトを大王の後継者が支配し続け、ギリシア文化の影響を受けたヘレニズム(ギリシア風)文化がオリエント各地で華ひらいた。


アレクサンドロス大王没後、オリエントには後継者らの諸王国が出現。最終的には、マケドニアはアンティゴノス朝、エジプトはプトレマイオス朝、シリアなどその他はセレウコス朝となった。
出典:森谷公俊『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2012=2016


しかし、オリエントから見れば片田舎のギリシア文明のマケドニアが、たった一度の遠征で、数千年の歴史を持つオリエントの文明を凌駕するに至ったというのは、できすぎた話のようにも聞こえる。
アレクサンドロス大王は、実際にはどのような人物だったといえるのだろうか。


視点1 ギリシア人の史料を通した見方

例1)「この王は短期間にこの上ない偉業を成し遂げ 、彼自身の英知と勇気のおかげで 、その功業の 大きさは 、太古の時代から記憶によって伝えられているすべての王を凌駕した 。というのも、彼は一二年でヨーロッパの少なからぬ部分とアジアの大半を征服し 、古の英雄や半神たちに匹敵する赫々たる名声を手に入れたのだから」 (ディオドロス、第17巻1章) 。

例2
思うに当時 、人類のいかなる種族 、いかなる都市 、いかなる人物であれ 、およそアレクサンド ロスの名が届かなかった場所はなく 、その名を聞かなかった者もいなかった 。実際かくも比類なき人物は神なくしてこの世に現れるものではない
と私には思われる (アリアノス、第7巻30章) 。

例3)
「一般に、アレクサンドロスは東方人に対しては尊大で、しかも自分が神から生まれた神の子であることを固く信じているようだったが、ギリシア人に対しては、自分を神とするのは適度に控えめに していた。(...)アレクサンドロスは、自分が神だという評判に影響されたり目を眩まされたわけでは なく、この評判によって他人を服従させようとしたのである」(プルタルコス、第 28 章。太字は引用 者)

例4)
 「アレクサンドロスが自分の出生を神に帰したことも、それが臣民に威厳をもって臨むための方便 にすぎなかったとすれば、私はそれほど大きな誤りだったとは思えない。」(アリアノス、第 7 巻 29 章。太字は引用者)

出典:森谷公俊『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2012=2016

アレクサンドロス大王に関する史料は、複数の著者のものが現存している。

森谷公俊氏によれば、(1)アリストテレスの親戚にあたる歴史家カリステネス。(2)技術者 ・建築家のアリストブロス 。(3)マケドニアの貴族で 、アレクサンドロスの側近の一人プトレマイオス 。(4)犬儒学派の哲学者ディオゲネスに学んだ哲学者オネシクリトス 。(5)ギリシア人で大王の朋友でもあったネアルコス 。(6)前三世紀初頭 、プトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアで活躍したクレイタルコス—これら6名による史料が知られている。

「アレクサンドロス研究においてはこれら一一人を常に念頭に置き 、現存作品のどの部分にどの原典が用いられたかをたえず確認しながら 、記述の意図や信憑性を検証しなければならない。これだけでも十分に複雑な作業である 。ところがそれだけではない 。原典である六篇の作品自体が、すでにそれぞれ独自の大王像を描いていた。それらがさ らにローマ時代の作家によって変形 ・修正されているのである 。要するにわれわれは 、ヘレニズム時代とローマ時 代という二重のフィルタ ーを通してしかアレクサンドロスを眺めることができない。」(森谷公俊、上掲より)

アレクサンドロスに関する人口に膾炙した逸話の多くは、こうした史料をベースにしていることが多い。だから、アレクサンドロス大王を多面的にとらえるためには、それ以外の史料も視野に入れて検討していく必要があるということだ。


視点2  アリストテレスの見方

例1) アリストテレスはアレクサンドロスが王位につくと、『王たることについて』という論説を書き、王に贈った。アレクサンドロスは「今日、自分は王ではなかった。なぜなら私は今日、誰に対しても善いこ とを成し得なかったからだ」といつも述べていたという。

例2) 「青年は、身体に関わる欲望の中でも特に性的な欲望を追い求めがちで、自分でこれを抑制する 力がない。また、欲望に対しても気移りし易いし、飽き易く、激しく求めるかと思えば、さっと止んで しまう。世の醜悪なところをまだ見ていないため、気立ては悪くなく、むしろお人好しであるし、人に 騙され易い。どんなことでも知っていると思い込み、それを言い張る。」
(『弁論術』第 2 巻 12 章、戸塚七郎訳)

例3) 『植民地の建設について』
 「...ここでアリストテレスは、ギリシア人達には友人や同族の人々として配慮し、彼らの指導者として振る舞うこと、異民族に対しては彼らの専制君主として臨み、動物や植物のように取り扱うことを勧めている。異民族を動植物同然と見なすアリストテレスの言葉は、当時のギリシア人が外国人= バルバロイに抱いていた感情を集約したものだ彼の学問が一見広大なようでいて、所詮ギリシア 世界の狭い枠組みを超えられなかったことを証明している。これに対してアレクサンドロスは遠征先の各地に都市を建設し、マケドニア人やギリシア人ばかりか地元の住民をも住まわせ、またペルシア人貴族を高官や側近に採用した。」(森谷、上掲。太字は引用者)

アリストテレスはアレクサンドロス大王の家庭教師として知られる。これらの史料・資料からは、アレクサンドロス大王に対するアリストテレスの影響が限定的であったことがうかがわれる。特に例3からは、両者の外国人に対する認識の違いを読み取ることができる。



視点3 バビロン人に対するアレクサンドロスの見方/バビロン人のアレクサンドロスへの見方

では実際にアレクサンドロス大王は、外国人(バルバロイ)に対してどのような視点を持っていたのだろうか。そのへんをうかがうことのできる、メソポタミアのバビロンに入城したアレクサンドロスに関する史料を読んでみよう。

例1)入城の様子 (クルティウスの伝記)
「バビロニア人の多数は新しい王をひと目見ようと城壁の上に陣取ったが、それよりさらに多くの者たちが町の外へ出て彼を待ち受けた。その中には城塞と王室金庫を管轄するバゴファネスもい た。彼は王を歓迎する熱意においてマザイオスに負けないよう、街路に花と花環を撒き散らし、街路の両側のあちこちに銀の祭壇を配置して馬と家畜の群れが続き、獅子と豹が檻に入れられてそ の前を運ばれた。次にマゴス僧たちが慣例に従って讃歌を歌い、彼らのあとにはカルデア人(最 高神マルドゥクの神官)とバビロニア人が進んだ。最期にバビロニア人騎兵たちが行進した。騎兵 と馬の装束は、荘重華麗というよりもむしろ豪華絢爛たるもので、ひたすら贅を尽くしたものだった。
アレクサンドロスは麾下の軍勢にびっしり取り囲まれ、都市住民たちからなる群衆には(マケドニア人)歩兵のしんがりの後について進むよう命じた。彼自身は戦車に乗って都市に入り、それから 宮殿に入った(第 5 巻 1 章)。」

この入城儀礼は、サルゴン 2 世もキュロス 2 世もおこなったバビロンの伝統的儀礼だった。バビロンはアレクサンドロスに先立つ数千年の歴史を持つ、オリエントの最先端の都市である。この都市の支配層の支持を取り付けなければ、オリエント支配はままならない。

このとき大王はバビロンの神殿と聖域を尊重することを布告している。


一方、ペルシア文化の無理解から来る行き違いがなかったわけではない。これを示唆する例2を見てみましょう。

例2)無二の親友ヘファイスティオンの葬儀に際して
「(大王は)アジアのすべての住民に、ペルシア人の間で聖なる火と呼ばれているものを、葬儀が終わるまで入念に消すよう命令した。これはペルシア人が王の死に際して行う習慣だったものである。多くの人々はこの命令を不吉な前兆だと思い、王は大王の死を予言していると考えた(ディオドロス、第 17 巻 114 章)。」

出典:森谷、上掲。

「ペルシア人の間で聖なる火と呼ばれているもの」とは、おそらくゾロアスター教の信仰で使用される火である可能性がある。

これを「消せ」と命令したことで、住民たちは混乱してしまう。

「大王が聖なる火を消させたのは、ヘファイスティオンへの哀悼の念があまりに大きかったからである。とはいえ彼は、その措置がかえって自分に対する凶兆を意味することに思い至らなかった。この時のアレクサンドロスにとっては、亡き親友の葬儀をいかに盛大に行うかがすべてであり、それがペルシア人にとって意味するものなど眼中になかったのである。ここでもオリエントに対する根底的なところでの無理解・無関心が表れている。
 たしかにアレクサンドロスは各地域の伝統や儀礼を巧みに利用し、エジプトやバビロンなどアカイメネス朝の支配下にあった国々の権力を合法的に継承していった。王権の視覚化もひときわ盛大に実行して見せた。しかしそれらはあくまでも自己の支配に役立つ範囲のことであり、征服と支配に都合のいいものだけを選別して採用したにすぎない。そこにはオリエントの文化と伝統に対する深い理解と洞察が欠落していた。こうした異文化への本質的な無関心が、アレクサンドロスのオリエント理解に限界を与えていたのである。」

出典:森谷、上掲。

シュメール文明を受け継いだバビロニアが、オリエント文明の伝統の中心地であり、かのアッシリアの王たちも配慮を試みていたことは、すでにこちら(【世界史探究】アッシリアのイメージは、なぜ悪いのか? 2-3-2. 古代オリエント文明の拡大 新科目「世界史探究」をよむ)でも確認した。

師匠であったアリストテレスと異なり、脱・ポリス的で柔軟な思考を持っていたアレクサンドロス大王にも、このようなオリエント理解に対する無理解があった。そのことを示す一例である。アレクサンドロス大王のバビロニア住民への対応については、田中穂積「バビロニアとヘレニズム(1) —バビロンとアレクサンドロス大王」『人文論究』45(4)、11-24頁、1996年も参照されたい。




視点4 アケメネス朝ダレイオス3世による見方

前 333 年末、ダレイオス 3 世のユーフラテス川以西を割譲する申し出に対する拒否の書状(アリアノス伝、太字は引用者)

アジア全土に主人たる者は今やこの私である以上、貴下こそ我が許へ来られよ。もし我が許へ 来るにあたり、私より何か不快な処遇を受けはせぬかと危惧されるなら、我が方からの制約を受け 取るべく、側近の者を派遣せよ。(......)今後貴下が私の許へ申し出をなすにあたっては、アジアの王に対するものとしてなすべきであり、対等の立場で交渉することはまかりならぬ。(第 2 巻 14 章)」

前 331 年ガウガメラの会戦の勝利後、リンドスのアテナ女神に犠牲を捧げた際 「王アレクサンドロスはダレイオスを戦で破り、アジアの主人となったが故に、神託にしたがいリンドスのアテナ女神に犠牲を捧げた。」

出典:森谷、上掲

当時の文明の先進地帯は、まぎれもなくアジア(オリエント)だった。
それは疑いようもない。
辺境であるギリシアのマケドニアの王にとって、「アジアの主人」となることは文明の中心に玉座を得ることを目指すものであった。
そのことが伺える史料だ。



こうしてみてみると、「アレクサンドロス大王は、ギリシアの文明をアジア(オリエント)に伝えた英雄だった」という視点が、あくまでギリシアに中心を置いた後世の見方に過ぎないことがわかるだろう。そもそもギリシアの文明というものは、シリアの延長線上に位置する「オリエントの文明」の一分派に過ぎないと見た方が、当時の地中海世界のとらえ方としては適切だ。そんなギリシアがオリエントと自らの文化を融合するというのは、当時の文脈に即せば正確ではない。

このような見方が生まれたのは、実は近代ヨーロッパよりもはるか以前、ローマ帝国の時代である。

資料 プルタルコス『倫理論集』所収「アレクサンドロスの幸運と卓越性について」
彼[筆者注:アレクサンドロス]は、ヒュルカニア人には結婚することを奨励し、アラコシア人には土地を耕すことを教え、ソグディアナ人には両親を殺さないで扶養することを説き、ペルシア人には母親と交わるのでなく敬うように説得した。アレクサンドロスがアジアを教化したおかげで、ホメロスが読まれ、ペルシア人やスシア人やゲドロシア人の子供たちは、エウリピデスやソフォクレスの悲劇を歌うことを学んだ。アレクサンドロスのおかげで、バクトリアとコーカサスはギリシアの神々を敬うことを学んだ。アレクサンドロスは夷狄の諸民族の間に七〇以上の都市を建設し、ギリシア風の国制でアジアの地を耕し、野蛮で荒々しい生活様式を克服した。  彼は自分が神によって遣わされた万人の統治者、全世界の調停者であると信じ、人々の生活と慣習と結婚と生活様式を、まるで「親愛の杯」の中でするように混ぜ合わせて、あらゆるものを一つに統合したのである。

出典:森谷、上掲

ローマの歴史家プルタルコスは、アレクサンドロスを、「夷狄の諸民族」に文明を与えた「全世界の調停者」とみなす。
歴史はいつでも、その語り手の思いを、かように映し出すものなのである。


その後、近代にいたりヨーロッパの歴史家ドロイゼンが「ヘレニズム」という言葉を発明し、アレクサンドロスには文明の伝播者というイメージがあてがわれた。
戦後日本で始まった世界史Bの教科書の構成も、「ギリシア」「ローマ」「ヘレニズム」を、「オリエント」と別立てにするのが常だった。
これがよくなかったのだ。
一転して、世界史探究の教科書では、地中海世界の枠組みの中で、あくまで並列的に扱われるようになった。これは我が国の世界史という科目の歴史において、画期的な変更点であるといえる


最後に、旧アケメネス朝の王族・貴族による見方も紹介しておこう。アレクサンドロス大王が「アジアの王」たる地位を獲得するために「アケメネス朝」の血筋を得ようとしていたことがわかるだろう。


視点5 旧・アケメネス朝の王族・貴族による見方

「前 324 年、スーサにおいて集団結婚式が行われ、アレクサンドロスはアカイメネス王家の二人の娘と同時に結婚した。一人はダレイオス 3 世の長女スタテイラ、もう一人はアルタクセルクセス 3 世の娘パリュサティスである。ダレイオスがペルシア王家の傍系なのに対し、アルタクセルクセスは王家の直系に属していた。それゆえ大王は、ペルシア王家の二つの血統を手に入れたことになる。」 

出典:森谷、上掲

このことからも、アレクサンドロス大王には、ペルシア帝国の継承をめざそうとする意図があったことが推察される。



アレクサンドロスは「東西の文化を融合させた」?


このように、アレクサンドロス大王に対する評価には、同時代の人々の間でも、温度差があることがわかるだろう。

現代の日本の世界史教科書では、次のような評価が下されることが多い。


アレクサンドロス大王はギリシア文化を東方に伝え、オリエント文化と「融合」させ、ヘレニズム文化を生み出した。


だが、この見方は、いささかギリシアに軸足を置きすぎたものではないだろうか?

資料 ヘレニズム文化が東西文化を「融合させた」と見ることの問題点
 
欧米の歴史家は、ギリシア文化が他の文化と混合すると「融合」と呼ぶが、ペルシア文化が他の文化と混じるときは、しばしば「折衷」というマイナス価値の言葉を使う。実際にはペルシア人もまた、先行するアッシリア、バビロニア、エジプト、メディアなど多様な文化を吸収して独自の総合を遂げていたのであって、その具体的現れはペルセポリスの浮彫りに見ることができる。またヘレニズム時代になってギリシア人が多数東方に移住し、交易が盛んになり、各地で都市が発展し、コイネーと呼ばれる共通ギリシア語が広まったと言われる。しかし、諸民族の平和的な共存と交流はすでにアカイメネス朝時代に実現していたし、当時アラム語が国際商業語として広く用いられていたことは、高校の世界史教科書にもきちんと書かれている。にもかかわらず、交易の発展や文化の交流がまるでギリシア人の専売特許であるかのごとく語られてきた。その背後には紛れもなく、ギリシア文化が最高で東方の文化は劣等なものと見る、差別的な価値観がある。日本で流通しているヘレニズム概念もまた、このようなギリシア中心主義、それを受け継いだヨーロッパ中心の視点を深く内在させているのだ。

出典:森谷、上掲

ある地域で成立された完成度の高い文化が、別の地域に伝わっていくことで、周辺地域がようやく文化に浴することができるようになっていく
こうした見方を伝播主義という。

しかし実際のところ、アレクサンドロスの向かったオリエントには、すでに数千年にわたる文明の累積があったわけで、なんでもかんでもギリシア文化の影響とするのは正しくない。
一方向に伝わったのではなく、もともと各地に存在したさまざまな文物が相互に交換され合ったのだとみる方がよいだろうし、オリエント文明数千年の蓄積を甘く見てはいけない。
融合や共存ということなら、帝国内の人々の日常生活に干渉を加えなかったアケメネス朝が、すでに実現させていたことなのだから。

資料 アケメネス朝の言語政策
なぜペルシア語ではなくアラム語が公用語とされたのだろうか?
ハカーマニシュ朝(筆者注:アケメネス朝の現地語表記)は日常生活の言語に干渉を加えることはなかったので、母語を異にする人々が互いに共存し、言語が排他的な統合のシンボルになったり言語をめぐる争いが生じるという状況は見られなかった。しかし統治レヴェルにおけるコミュニケーションの充実を図るダーラヤワウ1世(筆者注:ダレイオス1世)は、あらたに帝国の公用語としてアラム語を採用し、王やサトラプ、高官のもとにはアラム語に通暁したバイリンガル/トリリンガルの書記を配属させ、中央と地方の情報交換の手段とした。王の言葉は、書記によってアラム語に訳され、王璽捺印のうえ地方に送付された。地方からの訴状、情報もアラム語で作成、書記によって王の前で訓読された。アラム語が唯一の公用語ではなかったとしても、アラム語/アラム語アルファベットは、すでに前8世紀以来、外来用語・商業用語として広くオリエントに普及した国際語リンガ・フランカであった。アラム語の採用は、支配者の母語であるペルシア語、あるいは考案されたばかりのその楔形文字を強要するよりは、コミュニケーションの手段としてはるかに即効性が期待できたに違いない。

出典:川瀬、上掲、310-311頁

そういえば、ダレイオス1世の即位宣言碑文は、古代ペルシア語、エラム語、アッカド語の三種の楔形文字で刻まれているから、帝国内のコミュニケーションが楔形文字によってされていたと思われがちだ。しかし実は、帝国各地に送られる碑文の写しはアラム語に翻訳され、羊皮紙・パピルスにしたためられていたのである(川瀬、上掲、310-311頁)。


このような、複数の言語の存在を前提とするゆるやかな統治は、その後も西アジア諸王朝の支配に受け継がれていくと見ることもできるだろう。



イラン高原の諸王朝


その後のイラン高原は、乾燥した気候にもかかわらず、ユーラシアの東西を結ぶシルクロードのルートに位置することから、多くの民族の争奪の的となった。

たとえば、前3世紀に遊牧民であるパルティアが進出し、王国(前248頃〜後224)を建設した。

遊牧民についてはのちに確認していくこととして、このパルティアは前3世紀にササン朝(224〜651)に滅ぼされるまで、ローマと中国(当時は漢王朝)との間の東西交易の中継地点として繁栄する。

ササン朝も、やはり東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と中国(特に唐王朝)を結ぶ交易を通して、7世紀にイスラーム教徒の勢力によって敗れるまで繁栄し続けた。

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みんなの世界史
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