前回に引き続き、オリエント文明の拡大について見ていくことにしよう。
アケメネス朝による再統一
アッシリア帝国の崩壊ののち複数の王国に分裂していたオリエントは、前6世紀後半にイラン高原のペルシア人という民族によって再び統一された。
この帝国をアケメネス朝(前550〜前330)という。
アケメネス朝は東はインダス川、西はギリシアのエーゲ海にまたがり、広大な帝国から貢納によって富を集め、総督を派遣することによって統治した。
征服された地域の人々がちゃんと納税や軍役を果たしている限り、かれらの言語・宗教・法など、伝統や慣習を維持することは許された。
また被征服地の旧支配層も、アケメネス朝の王に忠誠を誓えば、そこでの支配的な地位は保証された。
ペルシア人の文化を押し付けて無理に支配しようとするよりも、このほうがコストの低い統治方式だったといえるだろうが、その実現のために必要なものこそ、帝国ないを迅速にむすびつける交通・通信ネットワーク、すなわち「王の道」というインフラの存在だった(参考:川瀬豊子「ハカーマニシュ朝ペルシアの交通・通信システム」『岩波講座世界歴史2 オリエント世界』岩波書店、1998年、301-318頁、302頁)。
ペルセポリスに残されたレリーフには帝国内のさまざまな民族の姿が刻まれている。
資料 ペルセポリス アバダーナ東側基壇南翼レリーフ:朝貢団
どのような民族の姿が見えるだろうか?
これだけの人々が貢物を持ちペルセポリスに集まることができたのも、王の道があればこその話だった。
前5世紀はじめには、アテネとスパルタを中心とするギリシアのポリスの連合軍が、ギリシアに遠征したアケメネス朝を撃退。これをペルシア戦争(前500〜前449)という。
勝利したポリスのうち、とくに戦果の大きかったアテネは、戦後のギリシア世界で他のポリスを支配するなど、覇権をひろげていった。
また、ペルシア戦争期には「アジアのアケメネス朝が負けたのは、皇帝による専制によるもので、アテネ率いるギリシアが勝利したのは民主政のおかげだ」という考え方も広まっていった(下記リンクを参照)。
大規模な戦争は人々を動員する必要があるから、しばしばその期間中から戦後にかけて、政治に参加する権利(参政権)の拡大をともなう。
第一次世界大戦中・戦後に、女性の参政権が欧米諸国で拡大したのも、同じような理屈によるものだ。
そんなアケメネス朝も、前4世紀後半、マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされることになる。
アレクサンドロス大王とは何者だったのか?
19世紀以降、ドイツ人の歴史家ドロイゼンによって「ギリシア文化をオリエントに伝え、両者を融合させた(オリエントの文明をギリシア化させた)人物」と評価されるようになったアレクサンドロス大王。
前4世紀後半にマケドニア王国(?〜前148)の王に即位すると、父の服属させていたギリシアの諸ポリスを率いて、東方遠征を開始した。
アケメネス朝を打倒し、ギリシアからエジプト、インダス川に至る大帝国を一代で築き上げ、没後にもマケドニア、シリア(シリアからペルシア高原にかけての地域)、エジプトを大王の後継者が支配し続け、ギリシア文化の影響を受けたヘレニズム(ギリシア風)文化がオリエント各地で華ひらいた。
しかし、オリエントから見れば片田舎のギリシア文明のマケドニアが、たった一度の遠征で、数千年の歴史を持つオリエントの文明を凌駕するに至ったというのは、できすぎた話のようにも聞こえる。
アレクサンドロス大王は、実際にはどのような人物だったといえるのだろうか。
視点1 ギリシア人の史料を通した見方
アレクサンドロス大王に関する史料は、複数の著者のものが現存している。
森谷公俊氏によれば、(1)アリストテレスの親戚にあたる歴史家カリステネス。(2)技術者 ・建築家のアリストブロス 。(3)マケドニアの貴族で 、アレクサンドロスの側近の一人プトレマイオス 。(4)犬儒学派の哲学者ディオゲネスに学んだ哲学者オネシクリトス 。(5)ギリシア人で大王の朋友でもあったネアルコス 。(6)前三世紀初頭 、プトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアで活躍したクレイタルコス—これら6名による史料が知られている。
アレクサンドロスに関する人口に膾炙した逸話の多くは、こうした史料をベースにしていることが多い。だから、アレクサンドロス大王を多面的にとらえるためには、それ以外の史料も視野に入れて検討していく必要があるということだ。
視点2 アリストテレスの見方
アリストテレスはアレクサンドロス大王の家庭教師として知られる。これらの史料・資料からは、アレクサンドロス大王に対するアリストテレスの影響が限定的であったことがうかがわれる。特に例3からは、両者の外国人に対する認識の違いを読み取ることができる。
視点3 バビロン人に対するアレクサンドロスの見方/バビロン人のアレクサンドロスへの見方
では実際にアレクサンドロス大王は、外国人(バルバロイ)に対してどのような視点を持っていたのだろうか。そのへんをうかがうことのできる、メソポタミアのバビロンに入城したアレクサンドロスに関する史料を読んでみよう。
この入城儀礼は、サルゴン 2 世もキュロス 2 世もおこなったバビロンの伝統的儀礼だった。バビロンはアレクサンドロスに先立つ数千年の歴史を持つ、オリエントの最先端の都市である。この都市の支配層の支持を取り付けなければ、オリエント支配はままならない。
このとき大王はバビロンの神殿と聖域を尊重することを布告している。
一方、ペルシア文化の無理解から来る行き違いがなかったわけではない。これを示唆する例2を見てみましょう。
「ペルシア人の間で聖なる火と呼ばれているもの」とは、おそらくゾロアスター教の信仰で使用される火である可能性がある。
これを「消せ」と命令したことで、住民たちは混乱してしまう。
シュメール文明を受け継いだバビロニアが、オリエント文明の伝統の中心地であり、かのアッシリアの王たちも配慮を試みていたことは、すでにこちら(【世界史探究】アッシリアのイメージは、なぜ悪いのか? 2-3-2. 古代オリエント文明の拡大 新科目「世界史探究」をよむ)でも確認した。
師匠であったアリストテレスと異なり、脱・ポリス的で柔軟な思考を持っていたアレクサンドロス大王にも、このようなオリエント理解に対する無理解があった。そのことを示す一例である。アレクサンドロス大王のバビロニア住民への対応については、田中穂積「バビロニアとヘレニズム(1) —バビロンとアレクサンドロス大王」『人文論究』45(4)、11-24頁、1996年も参照されたい。
視点4 アケメネス朝ダレイオス3世による見方
当時の文明の先進地帯は、まぎれもなくアジア(オリエント)だった。
それは疑いようもない。
辺境であるギリシアのマケドニアの王にとって、「アジアの主人」となることは文明の中心に玉座を得ることを目指すものであった。
そのことが伺える史料だ。
こうしてみてみると、「アレクサンドロス大王は、ギリシアの文明をアジア(オリエント)に伝えた英雄だった」という視点が、あくまでギリシアに中心を置いた後世の見方に過ぎないことがわかるだろう。そもそもギリシアの文明というものは、シリアの延長線上に位置する「オリエントの文明」の一分派に過ぎないと見た方が、当時の地中海世界のとらえ方としては適切だ。そんなギリシアがオリエントと自らの文化を融合するというのは、当時の文脈に即せば正確ではない。
このような見方が生まれたのは、実は近代ヨーロッパよりもはるか以前、ローマ帝国の時代である。
ローマの歴史家プルタルコスは、アレクサンドロスを、「夷狄の諸民族」に文明を与えた「全世界の調停者」とみなす。
歴史はいつでも、その語り手の思いを、かように映し出すものなのである。
その後、近代にいたりヨーロッパの歴史家ドロイゼンが「ヘレニズム」という言葉を発明し、アレクサンドロスには文明の伝播者というイメージがあてがわれた。
戦後日本で始まった世界史Bの教科書の構成も、「ギリシア」「ローマ」「ヘレニズム」を、「オリエント」と別立てにするのが常だった。
これがよくなかったのだ。
一転して、世界史探究の教科書では、地中海世界の枠組みの中で、あくまで並列的に扱われるようになった。これは我が国の世界史という科目の歴史において、画期的な変更点であるといえる。
最後に、旧アケメネス朝の王族・貴族による見方も紹介しておこう。アレクサンドロス大王が「アジアの王」たる地位を獲得するために「アケメネス朝」の血筋を得ようとしていたことがわかるだろう。
視点5 旧・アケメネス朝の王族・貴族による見方
このことからも、アレクサンドロス大王には、ペルシア帝国の継承をめざそうとする意図があったことが推察される。
アレクサンドロスは「東西の文化を融合させた」?
このように、アレクサンドロス大王に対する評価には、同時代の人々の間でも、温度差があることがわかるだろう。
現代の日本の世界史教科書では、次のような評価が下されることが多い。
アレクサンドロス大王はギリシア文化を東方に伝え、オリエント文化と「融合」させ、ヘレニズム文化を生み出した。
だが、この見方は、いささかギリシアに軸足を置きすぎたものではないだろうか?
ある地域で成立された完成度の高い文化が、別の地域に伝わっていくことで、周辺地域がようやく文化に浴することができるようになっていく。
こうした見方を伝播主義という。
しかし実際のところ、アレクサンドロスの向かったオリエントには、すでに数千年にわたる文明の累積があったわけで、なんでもかんでもギリシア文化の影響とするのは正しくない。
一方向に伝わったのではなく、もともと各地に存在したさまざまな文物が相互に交換され合ったのだとみる方がよいだろうし、オリエント文明数千年の蓄積を甘く見てはいけない。
融合や共存ということなら、帝国内の人々の日常生活に干渉を加えなかったアケメネス朝が、すでに実現させていたことなのだから。
そういえば、ダレイオス1世の即位宣言碑文は、古代ペルシア語、エラム語、アッカド語の三種の楔形文字で刻まれているから、帝国内のコミュニケーションが楔形文字によってされていたと思われがちだ。しかし実は、帝国各地に送られる碑文の写しはアラム語に翻訳され、羊皮紙・パピルスにしたためられていたのである(川瀬、上掲、310-311頁)。
このような、複数の言語の存在を前提とするゆるやかな統治は、その後も西アジア諸王朝の支配に受け継がれていくと見ることもできるだろう。
イラン高原の諸王朝
その後のイラン高原は、乾燥した気候にもかかわらず、ユーラシアの東西を結ぶシルクロードのルートに位置することから、多くの民族の争奪の的となった。
たとえば、前3世紀に遊牧民であるパルティアが進出し、王国(前248頃〜後224)を建設した。
遊牧民についてはのちに確認していくこととして、このパルティアは前3世紀にササン朝(224〜651)に滅ぼされるまで、ローマと中国(当時は漢王朝)との間の東西交易の中継地点として繁栄する。
ササン朝も、やはり東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と中国(特に唐王朝)を結ぶ交易を通して、7世紀にイスラーム教徒の勢力によって敗れるまで繁栄し続けた。