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【世界史探究】アッシリアのイメージは、なぜ悪いのか? 2-3-1-2. 古代オリエント文明の拡大 新科目「世界史探究」をよむ

アッシリアは厳しすぎる支配によって滅亡した?

前8世紀になると、メソポタミア北部を中心地とするアッシリアが、軍事力を用いて急拡大し、エジプトからメソポタミアに至るまで広い範囲を支配した。異民族を含む広大な領域を支配する国家のことを、時代や地域にかかわらず「帝国」と呼ぶ。
このアッシリア帝国は、しばしば「厳しすぎる支配によって滅んだ」と説明されることが多い。

出典:鵜飼恵太『大学入試 ストーリーでわかる世界史B[古代・中世・近世]』KADOKAWA、2015年、34頁

ほかにも、

出典:根本茂『決定版 世界史Bの点数が面白いほどとれる本』中経出版、2011年、15頁
 出典:山﨑圭一『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』SB Creative、2018年、91頁



アッシリア=過酷な支配。


この記号的な評価は、どこまで妥当なものといえるだろうか?


多言語による支配


そもそも、これまでどの国も、アッシリアほど広大な面積を支配したことなどなかった。そこでアッシリアが編み出したのは、多言語によって書かれた文書を通した支配システムだ。

これを見てみよう。
左上のアブラヤシの木の前に、右向きに立っているのが、アッシリア王
それに向き合っている二人の人物は書記だ。

出典:渡辺和子「アッシリアの自己同一性と異文化理解」、『岩波講座世界歴史2 オリエント世界』1998年、271-300頁、293頁。カラー写真は、下記リンク先、大英博物館の所蔵データを参照。



それにしても、どうして書記は二人も必要だったのだろうか?

資料 多重言語
「ティグラト・ピレセル3世(在位前744〜前727)の時代には、アッシリアの公的記録はすべてアッカド語とアラム語の2言語でとられるようになっていた。アッカド語は粘土版に楔形文字で刻まれるが、アラム語は羊皮紙にインクで書かれた。この時代以降のレリーフによく表されているように[…]、書記は二人一組で仕事をし、同じ内容のことを別の言語で書き留めた。

出典:渡辺和子「アッシリアの自己同一性と異文化理解」、『岩波講座世界歴史2 オリエント世界』1998年、271-300頁、292頁


そう。
帝国が広くなればなるほど、多言語による文書が必要になったわけだ。
これは、のちの時代に出現する帝国にも当てはまる。


つまり、

「アッシリア帝国は、征服地の民族の使っている言語や宗教などの文化を否定し、自らの文化を押し付けた。」

…というイメージは、
どうやら間違っているのかもしれないね。


もうひとつ、アッシリアがどのように征服地を支配したのか、考えるヒントとなる文章を見てみよう。

資料 『旧約聖書』「列王記下」18章17-35
アッシリアの王センナケリブが、高官たち(タルターヌ、ラブ・シャレーン、ラブ・シャケの職にある者)を軍隊とともにユダ王国の都イェルサレムに派遣した際の様子を伝えるヘブライ人の聖典より。
13ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。
14ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュにいるアッシリアの王に人を遣わし、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言わせた。アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。 15ヒゼキヤは主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀を贈った。 16またこのときユダの王であるヒゼキヤは、自分が金で覆った主の神殿の扉と柱を切り取り、アッシリアの王に贈った。
17アッシリアの王は、ラキシュからタルタン、ラブ・サリスおよびラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来て、布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった。 18彼らは王に呼びかけると、ヒルキヤの子である宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、アサフの子である補佐官ヨアが彼らの前に出て行った。 19そこでラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。 20ただ舌先だけの言葉が戦略であり戦力であると言うのか。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。 21今お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは自分を頼みとするすべての者にとってそのようになる。 22お前たちは、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『エルサレムにあるこの祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。 23今わが主君、アッシリアの王とかけをせよ。もしお前の方でそれだけの乗り手を準備できるなら、こちらから二千頭の馬を与えよう。 24戦車について、騎兵についてエジプトなどを頼みにしているお前に、どうしてわが主君の家臣のうちの最も小さい総督の一人すら追い返すことができようか。 25わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」
26ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアは、ラブ・シャケに願った。「僕どもはアラム語が分かります。どうぞアラム語でお話しください。城壁の上にいる民が聞いているところで、わたしどもにユダの言葉で話さないでください。」 27だがラブ・シャケは彼らに言った。「わが主君がこれらのことを告げるためにわたしを遣わしたのは、お前の主君やお前のためだけだとでもいうのか。城壁の上に座っている者たちのためにも遣わしたのではないか。彼らもお前たちと共に自分の糞尿を飲み食いするようになるのだから。」 28ラブ・シャケは立ってユダの言葉で大声で呼ばわり、こう言い放った。「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。 29王はこう言われる。『ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。 30ヒゼキヤはお前たちに、主が必ず我々を救い出してくださる、決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない、と言って、主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない。』 31ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリアの王がこう言われるからだ。『わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。 32やがてわたしは来て、お前たちをお前たちの地と同じような地、穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブと新鮮な油と蜜の地に連れて行く。こうしてお前たちは命を得、死なずに済む』と。ヒゼキヤの言うことを聞くな。彼は、主は我々を救い出してくださる、と言って、お前たちを惑わしているのだ。

ヘブライ人のユダ王国は、結果的にアッシリアによる降伏の呼びかけを拒み、軍事的に征服されてしまった。
ただ、そこに至る前段階として、このような呼びかけが、ヘブライ人にとって理解できない支配者の言葉ではなく、ヘブライ人の言葉によってなされていたことは注目に値するだろう。



なぜアッシリアのイメージは悪いのか?


アッシリアの残した文書の多く、特に羊皮紙で記された文書の多くは、散逸してしまって、現在見ることができない。
また、シュメール人の栄えたバビロニアにハンムラビ法典がのこされているのに比べ、アッシリアに残されている文書は少ない。

じつはこのことが、アッシリアのほうが「文化の程度が低く、残酷だ」というマイナスイメージにつながってしまったのではないかと、アッシリア学者の渡辺和子氏は指摘する。

資料 なぜアッシリアはバビロニアよりも「遅れている」と見られたか?

「有名な『ギルガメシュ叙事詩』を見てもたどれるように、今日に伝わるメソポタミア文学の多くは程度の差こそあれ、シュメール文学を素材として用いながら、バビロニアでまとめられたものである。ただしその後の伝達、保存についてはアッシリア人の貢献が大とされている。〔…〕そしてバビロニア人の神がみは、アッシリア人の宗教のなかにも取り入れられた。
おおむねこのような事情から、非セム系のシュメール人から学んだセム系のバビロニア人は、同じくセム系のアッシリア人よりも、文化的にも宗教的にも進んでいるという暗黙の了解ができあがった。さらにアッシリア人については、戦争の場面を示す新アッシリア時代のレリーフから得られる印章も影響して、好戦的であることが強調された。こうして「温和なシュメール人とバビロニア人」に対する「残虐なアッシリア人」といった短絡的な図式が専門家の間にさえ広まり、いまだに払拭されていない。」

出典:渡辺和子、上掲、275頁


資料 獅子狩りのレリーフ(アッシュルバニパル2世)

CC 表示-継承 2.0 File:Sculpted reliefs depicting Ashurbanipal, the last great Assyrian king, hunting lions, gypsum hall relief from the North Palace of Nineveh (Irak), c. 645-635 BC, British Museum (16722368932).jpg、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Sculpted_reliefs_depicting_Ashurbanipal%2C_the_last_great_Assyrian_king%2C_hunting_lions%2C_gypsum_hall_relief_from_the_North_Palace_of_Nineveh_%28Irak%29%2C_c._645-635_BC%2C_British_Museum_%2816722368932%29.jpg


アッシリア=悪の帝国という見方の構築には、近代歴史学のベースとなったキリスト教的な世界史観も一役買っている。
18世紀以降の啓蒙主義の時代、ちょうど古代オリエントの考古学的な発掘と文字の解読が進み、聖書に登場する古代の帝国の代表格として位置付けられてしまったことも、アッシリアにとっての不幸だった。

補足 世界史を学習していると、インカ「帝国」やマリ「帝国」のように「帝国」を冠する国と、アステカ「王国」やガーナ「王国」のように「王国」を冠する国が混同していることに気づくだろう。じつは帝国と王国を定義することなど、曖昧かつ不可能であって、どれを「帝国」と名づけるかという問題は、多分に名づける側の主観に基づいていることにも注意してみたい。


実際のアッシリアはメソポタミアの北部で、土地神アッシュルへの信仰を長期間にわたり維持しつつ、メソポタミア南部のバビロニアの宗教や言語などの文化を積極的に学び、理解してきた。
そして、支配にあたって細やかな配慮もおこなっていたのである。最後にこれについても考えておこう。



支配者が被支配者の文化を採用するとき

資料 支配者は、どのような場合に、被支配者の文化をとりいれるのだろうか?

たとえば、アッシリア王センケナリブのとき、祈りのしぐさをバビロニアのスタイルに変更する宗教改革がおこなわれた。

メソポタミアのニムルドにあるナブー神殿のアッシリア王シャムシ・アダド5世の石碑。アッシリアの伝統的な祈りのしぐさ(ウバーナ・タラーツ)をしている。
CC 表示-継承 4.0 File:Stela of the Assyrian king Shamshi-Adad V from the temple of Nabu at Nimrud, Mesopotamia..JPG、https://ja.wikipedia.org/wiki/シャムシ・アダド5世#/media/ファイル:Stela_of_the_Assyrian_king_Shamshi-Adad_V_from_the_temple_of_Nabu_at_Nimrud,_Mesopotamia..JPG


出典:渡辺和子、上掲、288頁
「〔筆者注:センケナリブは〕[…]それまでのアッシリアでの伝統的な祈りのしぐさ(ウバーナ・タラーツ)を変更して、当時のバビロニアの支配者たちが好んでいた祈りのしぐさ(アパ・ラバーヌ)を採用した。それは「鼻を平らにする」という意味があり、右手に何かをもって、鼻に近づけるしぐさであった。「天命の印章」の図像としても、このしぐさをするセンケナリブが神アッシュルとその配偶女神ムリスの間に立っている姿が刻まれている。[…]センケナリブの没後に、彼の宗教改革が完全に放棄されたとは言えない。エサルハドンやアッシュル・バニパルがアパ・ラバーヌをする姿を示す石碑も発見されているからである。しかしエサルハドン以降は、バランスの取れたバビロニア支配を実践してゆくために、さまざまな努力がなされた。それは広い意味での異文化理解の努力であり、異民族対策の一環でもあった。」(出典:同上)


支配者が、服属した民族の文化を採用する。


あまりピンと来ないかもしれないが、同様の事例は、その後登場する「帝国」でも、しばしば見られるものだ。

チベット仏教徒にとって「文殊菩薩』としてふるまった清の皇帝(→7.2.1 清朝の中国と隣接諸地域 世界史の教科書を最初から最後まで


韓服を着る朝鮮統治時代の伊藤博文(中央)

どうしてそんなことをする必要があるのだろうか?
意図や効果は、それぞれのケースに応じて異なるだろう。
「帝国による支配はどのように行われたのか?」
この先も探究を進めていこう。


このように見てみると、「アッシリアは厳しすぎる支配によって短期間で滅んだ」と、単純に説明することはできないことがわかってくる。
アッシリア服属を拒否した民族に対しては苛烈な攻撃を加えたが、降伏した諸民族に対しては、その多様性を重んじ、現実的な統治を行なっていた。
支配「する」側と「される」側。
その力関係の複雑さを読み解いていくことが大切だ。

しかし、その後、バビロニア南部のカルデア人とイランのメディアの勢力の連合軍による攻撃で、都ニネヴェが陥落(前612)し、最後の王が潰えた前609年、アッシリアの支配はその幕を閉じる。ここに、メソポタミア北部のアッシリアが、南部のバビロニアによって滅ぶことになったのだ。


では最後に、アッシリア帝国が、どのように広大な領域を支配しようとしたのか、以下の空欄に記入し、文章を完成させてみよう。

「アッシリア帝国は、___________________。」

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊