アッシリアは厳しすぎる支配によって滅亡した?
前8世紀になると、メソポタミア北部を中心地とするアッシリアが、軍事力を用いて急拡大し、エジプトからメソポタミアに至るまで広い範囲を支配した。異民族を含む広大な領域を支配する国家のことを、時代や地域にかかわらず「帝国」と呼ぶ。
このアッシリア帝国は、しばしば「厳しすぎる支配によって滅んだ」と説明されることが多い。
ほかにも、
アッシリア=過酷な支配。
この記号的な評価は、どこまで妥当なものといえるだろうか?
多言語による支配
そもそも、これまでどの国も、アッシリアほど広大な面積を支配したことなどなかった。そこでアッシリアが編み出したのは、多言語によって書かれた文書を通した支配システムだ。
これを見てみよう。
左上のアブラヤシの木の前に、右向きに立っているのが、アッシリア王。
それに向き合っている二人の人物は書記だ。
それにしても、どうして書記は二人も必要だったのだろうか?
そう。
帝国が広くなればなるほど、多言語による文書が必要になったわけだ。
これは、のちの時代に出現する帝国にも当てはまる。
つまり、
「アッシリア帝国は、征服地の民族の使っている言語や宗教などの文化を否定し、自らの文化を押し付けた。」
…というイメージは、
どうやら間違っているのかもしれないね。
もうひとつ、アッシリアがどのように征服地を支配したのか、考えるヒントとなる文章を見てみよう。
ヘブライ人のユダ王国は、結果的にアッシリアによる降伏の呼びかけを拒み、軍事的に征服されてしまった。
ただ、そこに至る前段階として、このような呼びかけが、ヘブライ人にとって理解できない支配者の言葉ではなく、ヘブライ人の言葉によってなされていたことは注目に値するだろう。
なぜアッシリアのイメージは悪いのか?
アッシリアの残した文書の多く、特に羊皮紙で記された文書の多くは、散逸してしまって、現在見ることができない。
また、シュメール人の栄えたバビロニアにハンムラビ法典がのこされているのに比べ、アッシリアに残されている文書は少ない。
じつはこのことが、アッシリアのほうが「文化の程度が低く、残酷だ」というマイナスイメージにつながってしまったのではないかと、アッシリア学者の渡辺和子氏は指摘する。
資料 獅子狩りのレリーフ(アッシュルバニパル2世)
アッシリア=悪の帝国という見方の構築には、近代歴史学のベースとなったキリスト教的な世界史観も一役買っている。
18世紀以降の啓蒙主義の時代、ちょうど古代オリエントの考古学的な発掘と文字の解読が進み、聖書に登場する古代の帝国の代表格として位置付けられてしまったことも、アッシリアにとっての不幸だった。
実際のアッシリアはメソポタミアの北部で、土地神アッシュルへの信仰を長期間にわたり維持しつつ、メソポタミア南部のバビロニアの宗教や言語などの文化を積極的に学び、理解してきた。
そして、支配にあたって細やかな配慮もおこなっていたのである。最後にこれについても考えておこう。
支配者が被支配者の文化を採用するとき
資料 支配者は、どのような場合に、被支配者の文化をとりいれるのだろうか?
たとえば、アッシリア王センケナリブのとき、祈りのしぐさをバビロニアのスタイルに変更する宗教改革がおこなわれた。
支配者が、服属した民族の文化を採用する。
あまりピンと来ないかもしれないが、同様の事例は、その後登場する「帝国」でも、しばしば見られるものだ。
どうしてそんなことをする必要があるのだろうか?
意図や効果は、それぞれのケースに応じて異なるだろう。
「帝国による支配はどのように行われたのか?」
この先も探究を進めていこう。
このように見てみると、「アッシリアは厳しすぎる支配によって短期間で滅んだ」と、単純に説明することはできないことがわかってくる。
アッシリア服属を拒否した民族に対しては苛烈な攻撃を加えたが、降伏した諸民族に対しては、その多様性を重んじ、現実的な統治を行なっていた。
支配「する」側と「される」側。
その力関係の複雑さを読み解いていくことが大切だ。
しかし、その後、バビロニア南部のカルデア人とイランのメディアの勢力の連合軍による攻撃で、都ニネヴェが陥落(前612)し、最後の王が潰えた前609年、アッシリアの支配はその幕を閉じる。ここに、メソポタミア北部のアッシリアが、南部のバビロニアによって滅ぶことになったのだ。
では最後に、アッシリア帝国が、どのように広大な領域を支配しようとしたのか、以下の空欄に記入し、文章を完成させてみよう。
「アッシリア帝国は、___________________。」