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ギリシアはヨーロッパ文明の御先祖?
古代ギリシアといえば、このようなイメージが浮かぶことだろう。
古代ギリシアの神話をもとにした映画でも、演じる俳優は欧米出身者ばかりだ。
しかしすでに私たちは、古代ギリシア文明が、古代オリエント文明と密接に関わりあって成立していたことを学んだ。
古代ギリシアをヨーロッパに直結させるのは、あくまで後世のヨーロッパ人が自らの願望をに押し付けたに過ぎないのである。
ほかにも、池内恵氏のこちらの文章(「ギリシア――ヨーロッパの内なる中東」)も参照。
現在の姿にはあんまり注目されないにもかかわらず、古代ギリシア人のイメージを存分に投影されてしまう。気の毒ではあるが、それが現代のギリシア人なのだ。
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フェニキア人の活動
実は、ギリシア人に先行して地中海で活躍し、ギリシア人に大きな影響を与えた民族にフェニキア人がいる。
フェニキア人は北アフリカに植民市カルタゴを築いた。そこを拠点に西地中海にも範囲を広げた。フェニキア人は、フェニキア文字という表音文字を用いた。これは交易を通じてギリシアに伝わり、アルファベットのものとになった。このアルファベットをギリシア人は「フェニキア文字」(フォイニケイア・グランマタ)と呼んでいた。
しかし、その後のギリシアやローマの歴史に比して、フェニキアの扱いはぞんざいだ。地中海はながらく「フェニキアの海」であったにもかかわらずである。
ここにもやはり「ギリシアはすごい」「フェニキア=アジアは遅れている」という史観が背後に隠されている、といっても過言ではないだろう。
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前8世紀初め頃から前6世紀末頃までをアルカイック期といい、オリエントから美術や工芸技術が導入され、フェニキア文字をとりいれてギリシア文字が考案された。これを「東方化革命」ともいう(歴史学研究会編2012年、158頁)。
ギリシア世界が躍動しはじめる前8世紀は、「ギリシア・ルネサンス」と呼ばれたり、一時はほとんどとだえていたオリエントとの交流が活発化したことから、「東方化(オリエンタライジング)の時期」という表現が与えられたりしている。
それとともにポリスという小規模な国家ができる。ポリスの国民は原則として対等で、政治的にも軍事的にも共同して国を運営する。特にエウボイア島のカルキスとエレトリアというポリス(桜井万里子氏によればポリスという形を備えていたかは疑問が残ります(桜井2014:22))は、はやくからシチリアや南イタリアに植民市を建設している。
ポリスといえば猫も杓子もアテネかスパルタかとなりがちだが、他のポリスに目を向けることで、いわゆる「暗黒時代」のポリス形成期の事情を明るく照らすことができるだろう(下記、歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014 所収の桜井万里子氏論文を参照)。
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古代ギリシア
ギリシアに先行するフェニキア人の文明があったとはいえ、やはり古代ギリシアには、注目すべき特質も多く見られた。
その一つが、参政権の平等と民衆の政治参加を理想とする民主政(デモクラシー)である。
民主政の歴史には、紆余曲折がある。
初期のポリスでは貴族が政治権力をにぎったが、貴族間の抗争の結果、単独の支配者が実権を握ることがあった。これを僭主(せんしゅ)という。
僭主の出現の背景には、ポリス間の戦いを制するためには、平民を主体とする重装歩兵の密集戦法が必要だったことが挙げられる。
前6世紀以降からの時代を古典期という。この時期は繁栄の極致に達したアテネに関連するものが多い。ほかのポリスに比べ、ヘロドトスやトゥキディデスなどの史書、悲劇・喜劇などの文学作品、プラトンなどによる哲学書など、史料が豊富に残されているからだ。
アテネはペルシア戦争を通して、ギリシア人としての自意識を強め、自らが発達させた民主政の制度を他のポリスにも広めようとした。
賄賂は民主政にとって善か悪か?
ここからは、古代ギリシア史を専門とする橋場弦氏の書籍を足場掛けとして、ギリシアの民主政の持つ特質について眺めてみよう。
民主政のもつ最大の弱点は、賄賂の横行だ。
現代、多くの先進国では、公務員が、親族や関連企業から賄賂をおくられ、便宜を図ることは、あってはならないこととして禁じられている。
しかし、そのような「公務員倫理」たるものは、アテナイにおいてはあてはまらなかったようだ。
なぜなら、国政に関わる役職——評議員や役人は、いずれもくじ引きで選ばれたアマチュア。専門家ではないし、公務員の倫理のようなものも期待されてはいなかった。
贈収賄が良くない行為、犯罪行為として糾弾されるものだったことはたしかである。
だが、贈収賄という行為をあらわすギリシア語(ドーラ、dōra)には「贈り物」という意味もある(橋場2008:24-25)。贈り物をおくられた者は、それをこころよく受け取り、のちに返礼をするべきである。そのような価値観は、古代ギリシアに限らず、世界中に見られる。客観的な証拠として残りにくい贈収賄は、じつは限りなく「贈り物」(贈与)に近い行為でもあったのだ。
しかし、贈収賄に対する見方は、ペルシア戦争を転機として厳しいものへと変化する。圧倒的な国力を持つペルシアが、その資力によってギリシア人に賄賂を贈って買収しようものなら、ポリスの自存自衛が危ぶまれるとの認識がふかまったからである(橋場2008:82)。
そのような価値観の変化の背景には、異民族をギリシア人に対して蔑む態度が目立つようになったことがある(たとえばアイスキュロスは前472年に『ペルシア人』において、ギリシア人とペルシア人を対比し、ペルシア人を思いきり蔑んでいる)。
ポリスの衰退
大国化したアテネに対する他ポリスの反発は強まり、前4世紀にはギリシア世界を二分するペロポネソス戦争がはじまった。
この頃になると、ポリスの市民たちの間に、公職者が賄賂を受け取り、ポリスに対する裏切り行為をはたらいているのではないかという猜疑心がいよいよ高まるようになる。
アテネの民主政が貧富の差にかかわらず政治参加を認めるものであった以上、富の力によりアテネの市民団の意思決定が歪められることはあってはならない。賄賂に対する厳しい処置の背景にあったのは、そのような価値観である。
だが、それでも賄賂が完全になくなることはなかった。
たとえば、富裕市民(外国人である場合もある)が国家のために私財をなげうてば、国家は富裕市民に対して名誉を与え、返報する(橋場2008:175-176頁)。民主政の正式な回路を踏まえてはいないものの、再分配の制度のなかったアテネにおいて、こうしたギブ・アンド・テイクの関係を100%否定してしまえば、それはそれで問題だ。
ペロポネソス戦争期、前5世紀末のアテネは「衆愚政」に突入したといわれてきた。これを記載している教科書も少なくない。
この時期の史料には、不特定多数の市民に対して、あることないことを吹聴し、弁論によってまどわすデマゴーグが多数登場する。彼らはしばしば論敵の収賄を糾弾する。弁論が盛んになり盛んに文字史料に残されたからこそ、この時期に賄賂が急激に増加したような印象を受けてしまう。
だが、橋場氏はこうした解釈に対し、「錯覚」であると釘を刺す。
ギリシアのポリスは結局、北方の新興国であるマケドニアの支配下にはいり、ポリスの繁栄は幕を閉じることになる。ギリシアの人々は、その後数多くの外部の諸勢力の支配下に置かれ続け、そのアイデンティティは失われていった。
しかし、この歴史を、単純に「あるべき民主政が損なわれたがために、アテネは没落した」というストーリーでもって説明できるものなのか。再考の余地は十分残されている。