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7.2.3 清朝と東アジア 世界史の教科書を最初から最後まで

第6代 乾隆帝(けんりゅうてい)の最盛期には、朝鮮、琉球王国、タイのアユタヤ朝、ビルマのタウングー朝、ベトナムの黎(れい;レ)朝といった周辺諸国が、こぞって清朝に貢物やメッセンジャーを贈った。



清のほうからすれば、これら周辺諸国のことは“文明”の足りない“野蛮”な国々。

上から目線を受けた周辺諸国の支配者も、「圧倒的軍事力を持った清を敵に回せない」「貿易の利益を確保するためにも清への朝貢は必要だ」「清とのつながりを国内支配に利用しよう」と考えた。


しかし、当時の東アジア・東南アジアの貿易は、ヨーロッパ諸国も積極的に参入するようになり、しだいに「清中心の秩序」もしだいに揺らいでいくこととなる。




並行して清朝の時代には、東アジア・東南アジア各地で、「自分たちは独自の“国”をつくっているんだ」という意識が、しだいにハッキリと芽生えていくようになる。


そしてその多くが、現在にも残る各国の“伝統文化“(近世的な伝統社会)のルーツとなっていくのだ。
今ではあたりまえの伝統とされている各国の伝統や“民族性”(とされるもの)のルーツには、この時期に形成されたものも少なくないんだよ。



朝鮮の伝統社会

たとえば、朝鮮

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学問や道徳を重んじる儒教文化や、家柄や学歴を重んじる風潮がつよく、科挙(かきょ)による試験が厳格に実施された。

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しだいに科挙合格者のなかから、「両班」(ヤンバン;りょうはん)と呼ばれる由緒正しい家柄が役人の大多数を占めるようになり、政治の実権をめぐって役人同士が争うようになる(もともと両班は文官と武官の両方の官僚集団を指す言葉)。


この争いは朱子学の内部の学派争いとも結びつくようになっていく。政治家にも、学問・道徳がもとめられたんだね。

そんな朝鮮がもっとも気を揉んだのは中国との関係だ。

豊臣秀吉による侵攻の際、中国の明(みん)は援軍をさしむけてくれた。
その”ご恩“があったものの、女真人の清の侵攻を受けると服属せざるをえず、清に対して朝貢するようになった。

結局、明は滅び、清が皇帝に即位。

しかし、「どうして女真人という”野蛮“人の言うことを聞かなければならんのだ」「あいつらが皇帝になるんなら、まだわれわれ朝鮮こそ、明の”後継ぎ“にふさわしいんじゃないだろうか」という思いが、両班の中からふつふつと生まれていく。

中華であった明に対し、清は「夷狄」(いてき)にすぎない。
今や朝鮮こそが「ミニ中華」なのだという、「小中華」の思想だ。


こうして朝鮮では、清よりもかえって儒教が厳格に守られることとなり、それが朝鮮の”伝統“を形成していくことになったんだよ。




日本の伝統社会

清との朝貢関係に入らなかった日本でも、その後普及していく「日本人としてのまとまり」や「日本の伝統」のルーツが、この時代にたくさん育まれている。


16世紀半ばに明との勘合貿易がストップしてから、中国との間の朝貢貿易もストップしていた。

1630年代以降は、日本各地の外国との交流は、幕府によってきびしくコントロールされることに。

それでも、①長崎では中国、オランダとの貿易、対馬を通じた朝鮮との外交関係、②鹿児島(薩摩(さつま))の大名(だいみょう)が服属させた琉球王国をつうじた中国との関係、③現在の青森の大名を通じた北海道のアイヌとの関係、④朝鮮からの外交使節の受け入れ(朝鮮通信使)、など、外部との関係が全くシャットアウトされたわけじゃなかったんだよ。


これら①〜④の窓口は「四つの口」ということがある。



いわゆる「鎖国」というのは、東アジアの中国・朝鮮・日本に共通する、キリスト教の禁止(欧米諸国の植民地化への対抗)、海域の管理、出入国の管理、政権による貿易の独占的管理のことだと考えることができるわけだ。



それに、秀吉遠征のときに連行された朝鮮の学者の貢献もあって、儒学が広く学ばれた。
主君に対する忠誠を重んじる朱子学(しゅしがく)は、支配に都合のよい考えだったのだ。


その一方、オリジナリティも出てくる。

日本古来の伝説や古典の読解を通して「日本は特別な国なのだ」という考えも発展。
これを国学といい、江戸時代末期に「日本は将軍による支配ではなく、天皇中心の国づくりをするべきだ」という考えへとつながっていくんだよ。



経済的にも、中国からの輸入が減少したことで、生糸をはじめとする手しごと製品の国産化(輸入代替)がすすみ、日本国内の原材料産地・商品生産地・消費地を結ぶネットワークが、しだいに確立していくことになったんだ。



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