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7.1.6 16〜17世紀の東アジアの状況 世界史の教科書を最初から最後まで

徳川家康により、日本の戦国時代が終わった!

世界的に貿易が活発になり、新型の火薬を使う武器(火器)がヨーロッパ方面から伝来すると、東日本でも各地に独立した武装勢力が成長するようになった。




彼らの中には、海域で略奪をくりかえす倭寇のようなグループもいたが、なかには多くのエリアを支配下に入れ新たな国家を組織するものも出てくる。


日本では、織田信長(おだのぶなが、1534〜82年)や豊臣秀吉(とよとみひでよし、1537〜98年)が有名だね。
彼らはヨーロッパ商人、中国商人、東南アジアの商人との貿易(南蛮貿易(なんばんぼうえき))に積極的で、その利益を吸い上げ、利益を独占しようと努めた軍人たちだ。

織田信長は室町幕府の将軍と協力しながら天下をおさめようとしたものの、1582年に本能寺で殺害されてしまう。

その最後の現場には、アフリカ出身のヤスケという黒人がいたのではとも伝えられている。



しかし、信長を暗殺した明智光秀(あけちみつひで)は豊臣秀吉によって殺害。その動機にはいまだ定説がない。


秀吉は、天皇を中心とする組織にも影響力をおよぼし、自ら天皇を補佐する「関白」(かんぱく)という役職に就任し、箔(はく)をつけようとした。

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さらに、落ちぶれつつあった明の「皇帝」の位を狙う、壮大なプランを描き、その足がかりとして朝鮮半島の王国「朝鮮」に2度にわたり侵攻した。

これを日本では文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱(じんしんていゆうわらん)という。

史料 豊臣秀吉によるフィリピンのスペイン総督への書簡(万暦19年、1592年)
「私の誕生のときに際しては、天下を治めるという奇瑞があり、壮年になった国を領して、年たらずのたいだにわずかな土地も残さず、域内をことごとく統一した。これにより三韓(朝鮮)と琉球などの遠い国々は、ねんごろに入貢してきている。いま大明国を征服しようとするのは、私の為すところではなく天が授けたものである。」

上田信『中国の歴史09 海と帝国―明清時代』講談社、2005年、257頁。


)日本・朝鮮・明の3つの国家による戦争という点を考えると、「倭乱」という言葉では偏りがあるとして「壬申戦争」(じんしんせんそう)と呼ぶ動きも見られるようになっている点にも注目したい。



朝鮮側は李舜臣(イ=スンシン、りしゅんしん、1545〜98年)率いる亀甲船(きっこうせん)の海軍や、

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明による攻撃、さらに民間勢力による抵抗が続く中、秀吉が1598年亡くなると中止。


日本軍は撤退することとなった。
このとき、日本に連行した朝鮮人たちの中には、のちに九州で焼き物を発展させる職人や、超一流の朱子学の学者たちも含まれていたんだよ。





その後、秀吉亡き後の権力を掌握したのが、現在の愛知県出身の徳川家康(とくがわいえやす、1542〜1616年)だ。


彼は1600年に“天下分け目”の関ヶ原の戦いで勝利し、大都市に発展する素質を見抜き幕府を関東平野の江戸に置いた。


財源確保のため、商人に朱印状(しゅいんじょう)という許可証を発行し、管理しながら東南アジアでの貿易を振興した。
これを朱印船貿易という。
日本人たちが東南アジア各地に建てた都市を「日本町」(にほんまち)というよ。




徳川家康に鹿児島県の支配を認められた島津氏(しまづし)は、1609年に琉球王国(りゅうきゅうおうこく)に侵攻。
属国として支配することに成功したけれど、琉球王国はその後も中国との外交をやめなかった。
島津氏としても、琉球を通して中国の物産を手に入れることは悪くない話だったのだ。



16〜17世紀にかけて利益率が高かったビジネスは、日本と中国間の銀と生糸の貿易。
ここに、マカオを拠点とするポルトガル人台湾(フォルモサ)に要塞を築いたオランダ人も参入し、貿易ネットワークが網の目のように張り巡らされていったのだ。



しかし、貿易がさかんになるにつれ、ヨーロッパ勢力が日本沿岸部で奴隷売買をしたり、キリスト教布教と合わせて日本に拠点を築いたりする危険性も高まった。
九州方面の大名(だいみょう、幕府の将軍から支配を任された“家来”)の中には、キリスト教(ローマ=カトリック教会)に改宗し、領土の一部を国際布教グループ(イエズス会)に捧げてしまう者もいたくらいだ。



そこで江戸幕府は一転してキリスト教を禁止し、すべての貿易を管理下に置くことを決定。
1630年代を通して、日本人が海外に渡航することや、ポルトガル人が来航することを禁じていった。

この方針は、“祖法”として のち200年間以上守られ続けることになる。

その後、19世紀初め(今から200年前)ヨーロッパ人が自由な貿易を要求するようになって、「これは江戸幕府伝統の政策なんだよね」という説明をするときになって初めて「鎖国」という表現が使われるようになった。
初めから「鎖国」という表現が使われていたわけではないんだね。



女真人が清を建て、明を滅ぼした!

さて、日本で戦国時代が終わって江戸時代が成立しようという頃、中国の東北地方には、農牧・狩りを営むジュルチン女真;女直)という民族にも大きな動きが起こる。


もともとは細々とした暮らしを営み、特産品や交易品を明に貢いでいたんだけれど、この時期の貿易ブームにうまくのっかって繁栄。


女真(女直;満洲と改称)が住み、明の支配をうけて、薬用ニンジン(朝鮮人参、栄養ドリンクの中にはいっている薬用成分)や毛皮の交易が盛んになって、その利益をめぐる女真グループ内部の争いが激化。


めきめきとのしあがったヌルハチという人物率いる勢力が16世紀末に国を立ち上げた。

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国の名前はアイシン。
満洲語で「」の意味だ。
ん? どこかで聞いたことあるよね。
かつて中国が宋王朝によっておさめられていたころ、同じ地域から中国に進出し、中国の北半分を含むエリアを支配した国。



その後モンゴル人によって滅ぼされてしまった女真人が “復活”を期して、「金」という同じ名前を国家に付けたわけだ。
彼は従来の血筋・土地にもとづくグループをシャッフルし、あたらしい8つの軍団ユニットに再編。それがそのまま行政組織となる仕組みだ。
各グループの旗の8パターンのデザインを決めたので、「八旗」(はっき)と呼ばれる。

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八旗の氷上軍事演習



第2代のホンタイジ(太宗(たいそう))は、モンゴル高原南部(内モンゴル)のチャハルというグループに、支配下の満洲人、漢人、モンゴル人におされて、1636年に皇帝と称し、国の名前は(チン;しん)にすることにした。




このように16世紀後半〜17世紀前半には、「北虜南倭」(ほくりょなんわ)につづき、中国の東北地方も、中国の皇帝の“手のつけられないエリア”となっていった。
彼らは新型の武器である銃や大砲を導入していたため、従来型の戦いも効かなくない。明は軍事費の増加のために、財政難におちいった。

万暦帝(ワンリーディー;ばんれきてい、在位1572〜1620年)の初期に 張居正(ヂァンジューヂァン;ちょうきょせい)がおこなった、中央集権的な財政のたて直しも厳しすぎて失敗(銀で税をおさめさせる一条鞭法を全国的におこなわせたのは彼だ)。

その後、東林派と非東林派という政治抗争(党争)によって、政治も混乱。

重税と飢饉のために各地で反乱がおこり、最終的に明は農民の指導者 李自成(リーツーチァン;りじせい)の反乱軍に北京を占領され、あっけなく滅んでしまう。

1644年の春のことだ。




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