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5.3.1 十字軍とその影響 世界史の教科書を最初から最後まで

 1000年頃から1300年頃にかけてのヨーロッパでは、中世温暖期(ちゅうせいおんだんき)ともいわれる温暖期が到来したとされる(★1)。

 さらに農業分野における同時多発的なイノベーションによって、農業生産量が飛躍的にアップした。

この時期に発達したテクノロジーには、例えば以下のようなものがある。

・土の養分を効率よく回復させながら家畜の飼育もできる、画期的な農牧地のローテーション方法(三圃制(さんぽせい)、スリー・フィールド・システム)

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・犂(すき。家畜にひかせて土地を掘り起こすための道具)の改良



・水車(水の力を回転運動に変換するための機械)の改良


 また、農地そのものを拡大させたり、過剰な人口を移住させるためのプロジェクトも、領主を中心に進められていった。

・西ヨーロッパ一帯に広がっていた原生林を破壊して農地に変えるプロジェクト(クリュニー修道院などによる大開墾運動

・オランダの干拓(海水を抜いたり埋め立てたりして、海岸付近の低地を農地に変える運動)


・エルベ川以東への東方植民運動(ドイツ人を主体としたエルベ川よりも東への移住促進プロジェクト


・イベリア半島のイスラーム教勢力の土地を奪う戦争(国土回復運動(レコンキスタ)


・巡礼の流行(イェルサレム、ローマ、サンチャゴ=デ=コンポステーラへの1000年前後の「ミレニアム」巡礼ブーム)


・十字軍(イェルサレムをイスラーム教徒の国家から取り戻すための戦争)


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これらのうち最も大規模だったのが、十字軍だ。



 そもそも西ヨーロッパの封建社会は、主君が家来に土地を領有することに”お墨付き“を与えることで成り立っていた。
しかし、当然ながら土地に無限ではない。

 社会の安定や農業技術の発展を背景に人口が増える中、フランス王、イングランド王、ドイツ王(神聖ローマ皇帝)たちは、ローマ教皇の“お墨付き”を得る形で、東方のアジアの領域を獲得しようとしたわけだ。そうすれば、キリスト教徒としての名誉やご利益も得られるし、家来に分配する土地も得ることができる。

 十字軍の発端となったのは、聖地イェルサレムをセルジューク朝というトルコ人のイスラーム教の国が支配下に置き、さらに東ローマ(ビザンツ)帝国を圧迫したことにあった。



 当時、空前の“巡礼”ブームに湧いていたキリスト教徒たちにとって、セルジューク朝の進出は不安の種だった。
 それだけでない。キリスト教徒たちがパレスチナに出向くと、そこにいる人たちの暮らし向きは非常に豊かなものだった。

資料 キリスト教徒の巡礼者は、自分たちがパレスチナで粗末に扱われていることに気づきはじめた。といっても、打たれたり、拷問されたり、殺されたりしたわけではない。…問題はそういうことではなかった。それはむしろ、彼らが絶えずちょっとした屈辱感を嘗(な)めさせられたり、嫌がらせを受けたりして、二流の存在と感じさせられていたということだ。…
 こうした事情で、ヨーロッパに帰った巡礼者には悪口と不平の種が山ほどあった。だが、絢爛豪華な東方世界についての話の種にも事欠かなかった。その目で見た豪壮な邸宅、庶民までもが身につけていた絹やサテンの衣服、素晴らしい食べ物、香辛料、香水、黄金…これらの見聞譚(けんぶんたん)は聞く者の心の怒りと羨望をかき立てた。

タミム・アンサーリー(小沢千恵子・訳)『イスラームから見た「世界史」』、実教出版『世界史探究』より


 実際にセルジューク朝が巡礼者を妨害したという記録は残っていないのだが、ビザンツ皇帝アレクシオス1世が、ローマ教皇に救援を要請する。

資料 …アナトリアからトゥルクマーン勢力〔トルコ系遊牧民〕を駆逐するには兵力が足りなかった。そこで彼〔ビザンツ皇帝のアレクシオス1世コムネノス〕はローマ教皇ウルバヌス2世に支援を求め、教皇はそれに応じた。…しかし、皇帝の意図は…異民族の侵攻に対抗するための援軍要請であり、聖地奪回や異教徒排斥運動をめざす教皇庁、聖地巡礼への憧憬に突き動かされた民衆、領地獲得に意欲的な冒険好きな西ヨーロッパの領主たちのいだいた「十字軍構想」とは無縁なものであった。

太田敬子『十字軍と地中海世界』、実教出版『世界史探究』より





これを受け、ローマ教皇ウルバヌス2世(在位1088~99年)は1095年にフランスのクレルモンに聖職者や俗人たちを集め、「聖戦」を起こすべきと主張したのだ。
 この会議をクレルモン宗教会議(公会議)という。


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 この模様を伝える史料は限られているけれど、当時カリスマ的な人気を持っていた隠者ピエールという説教師は、貧しさに苦しむ人々に対する講演で「十字軍への参加は、神が望んでいることだ」と熱弁。会場は「神がのぞみたもう! 神がのぞみたもう!」という熱狂的なムードに包まれたそうだ。

 こうしてローマ教皇の呼びかけと熱狂的なムードに影響され、経験のない民衆たちが1096年にイェルサレムに向かった。
民衆十字軍」だ。

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 しかし、彼らの多くは途中奴隷として売り飛ばされてしまう。この悲劇からは、苦しい暮らしを送り、死後の幸せを願う人々の強い思いが透けて見える。

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 さて、この民衆十字軍を追うようにして、諸侯や騎士たちがイェルサレムを取り戻すための十字軍として東方に出発した。あるものは“功徳”(くどく)のために。そしてまたあるものは“手柄”のために。


 イスラーム教徒の勢力との戦闘の末、1099年にはイェルサレムを占領することに成功し、イェルサレム王国(1099年~1291年)を建国。初代の指導者にはフランスの由緒正しい諸侯が即位した。

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 これを第1回十字軍としてカウントする。入城の際には、ローマ=カトリックではない多数の人々が、無残な虐殺にあったという記録が残されている。

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十字軍はビザンツ帝国の側から見るとどのように映ったのだろうか?

ローマ教皇に提唱された十字軍は、ビザンツ帝国から見るとどのように映ったのだろうか?
先ほど述べたように、「十字軍はビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世の救援要請によって始まった」とされる。彼は分裂していたローマ教会との合同も画策し、議論を始めていたようだ。
ローマ教皇ウルバヌス2世にとっても、かねてより尊敬していた教皇グレゴリウス7世の果たせなかった東方への教皇軍の覇権の夢をかなえたいという野心もあり、クレルモン宗教会議(公会議)で教会の改革とともに、十字軍の実施を訴えたようだ。

かくして実施された第一回十字軍について、アレクシオス1世の長女アンナは『アレクシアス』に次のように記している。

「ところで実際に生じた事態は、広く噂されていた以上に大きく、恐ろしいものであった。なぜなら全西方が、すなわちアドリア海の向かい側からヘラクレスの柱〔ジブラルタル海峡〕にいたる土地に住んでいる蛮族のすべての民が群れをなして移動を始め、ヨーロッパの諸地域をつぎつぎと横断しながら全家族をつれてアジアに向かって旅を続け進んできたのである。」(★2

ビザンツ帝国のアンナにとって十字軍とは、西方の蛮族たちの「大移動」なのだった。

資料 アラブ側の記録をみるかぎり、当時のムスリムは…フランジとの戦争をイスラーム世界とキリスト教世界の叙事詩的な闘争とみなしていなかったようだ…二つの文明の衝突どころか、ムスリムにとって十字軍は…文明に…降りかかってきた災難でしかなかった。それは一つには、彼らの目に映るフランジには文明のかけらも認められなかったからだ。ウサーム・イブン・ムンキズ(1095〜1188)というアラブの貴公子はフランジを評して、まるで「けだもののようだ。勇気と戦う熱意には優れているが、それ以外に優れた点は何もない。動物が体力と攻撃力で優れているのと同様である」と述べている。

タミム・アンサーリー(小沢千恵子・訳)『イスラームから見た「世界史」』、実教出版『世界史探究』より

資料 1097年4月、カイロの実力者、体躯堂々たる宰相、アル=アフダル・シャーヒンシャーは、彼のもとにアレクシオス・コムネノス帝の使者が来て、フランク戦士の大群がコンスタンティノープルに到着したこと、および彼らが小アジアへの攻撃を開始しようとしていると告げた時、満足の表情を隠しきれなかった。…
…「異端派」はイスラムを襲うすべての災禍に対し、決まって責めを負わされたから、フランクの侵略が彼らの策謀だとされたのもあながち驚くに当たらない。したがって、ファーティマ朝がフランクを招き寄せたとする説は単なる想像に過ぎないとしても、カイロの指導者達が西洋の戦士達の到来を喜んだのは事実であった。

アミン=マアルーフ、牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』。シーア派のファーティマ朝にとって、セルジューク朝がフランクの攻撃を受けたことは朗報であったことがわかる。

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第3回は英・仏・独(神聖ローマ)の君主が参加

 その後勢力をもりかえしたイスラーム教徒を攻撃するため、第2回十字軍(1147~49年)、第3回十字軍(1189~92年)が起こされた。
第3回十字軍には、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)、フランス王、イングランド王がそろって参加。
諸侯や騎士も含め領地を獲得しようとしたけれど、エジプトに都を置くアイユーブ朝のサラディン(サラーフ=アッディーン)によって阻まれた。



第4回十字軍は「脱線十字軍」

 つづく第4回十字軍は、ローマ教皇の権威が最高潮に達したインノケンティウス3世によって命じられ、部隊の主力は都市国家ヴェネツィアに任された。
 聖地イェルサレムを奪い返すのではなく、ローマ教皇と敵対するコンスタンティノープル教会を攻撃することになった。
 ローマ教皇の側にも、東西の教会をローマ教会のもとにまとめようという思惑があったのだ。


 結局コンスタンティノープルは十字軍によって占領され、東ローマ(ビザンツ)帝国は一時滅亡。代わって「ラテン帝国」が建国された。
 多額の資金援助をしたヴェネツィア商人にとって、コンスタンティノープルに拠点を置けば、物流ルートをゲットすることができるから儲けものだ。

 現在でもヴェネツィアのサン=マルコ聖堂の正面には、このときに奪い取ったビザンツ帝国の四頭立ての馬の像が堂々と飾られているから驚きだ。

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その後の十字軍

 その後も十字軍は断続的に続けられ、通常は第7回までカウントされる(カウントの方法は諸説あり)。


 一般的には1291年にアッコン(現在のイスラエル)という拠点が陥落したことによって、十字軍は終わったとされる。

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 十字軍は、結果としてイェルサレムをイスラーム教徒たちから取替えすことはできずに終わったのだ。
となると”言い出しっぺ”の教皇の立場は悪くなる。


十字軍が変えた中世世界


 逆に、新たな領地や戦利品をゲットすることができた諸侯・騎士や、十字軍の兵士・物資の輸送を担当したイタリア半島各地の諸都市は、十字軍をキャリアアップのチャンスととらえた。

特に国王にとっては、十字軍での武勇伝が良い宣伝材料となり、教皇に代わって権威を高めることとなった。

 イングランド王、ドイツ王(神聖ローマ皇帝)、フランス王のいずれにとっても、”アジアや北アフリカの商業エリアへの進出は実に魅力的だ。アルプス山脈より北にあるヨーロッパは”ど田舎”。
豚のソーセージをコネコネしているよりも、地中海方面で流通する珍しい物産をなんとしてでも手に入れたかったわけだ。

 このように十字軍に関わった人々の本音は、じつにさまざま。

 民衆十字軍や少年十字軍(1212年)ひとつとっても、民衆や子どもたちの素朴な願いの裏には、彼らを奴隷として売り飛ばそうとするあくどい商人の影もあった。


 ともあれ、十字軍によって地中海を舞台にした東西の人・物・金・情報の動きがさかんとなったことは、自給自足で閉鎖的な生活が中心であった西ヨーロッパの人々に、新風をもたらすことになったと言えるね。


)例えば、東方のマニ教の受け、南フランスではアルビジョワ派(カタリ派)というマニ教の影響を受けたキリスト教の勢力が流行る。
また、ビザンツ帝国やイスラーム教徒からもたらされた情報の中には、キリスト教以前の古代ギリシア文明の当時最先端のテクノロジーも含まれていたんだよ。


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十字軍はキリスト教 vs イスラーム教?

 なお、十字軍が実施されていた期間(1096〜1291年)、キリスト教徒とイスラーム教徒との間が、ずーっと常に緊張関係にあったわけではない。それに、地中海の東部周辺が全面的に戦場になっていたわけでもない。それは、十字軍の期間中でも平和に旅行ができたことを報告する旅人の記録か。


 それに、キリスト教 vs イスラーム教というシンプルな構図がずっと続いていたわけではなく、キリスト教側もイスラーム教側も一枚岩ではない場面も多かった。

 たとえば、第5回としてカウントされる十字軍では、ローマ教皇ではなく、その反対を押し切った神聖ローマ皇帝(フリードリヒ2世)が、エジプトのアイユーブ朝の君主と外交交渉をおこない、平和的にイェルサレムを一時奪回するという結果をもたらしている。


イスラーム教徒も多く暮らしていたシチリア島生まれのフリードリヒ2世ならではの“離れ業”だ。



 また、1291年の十字軍が終わった後も、「イスラーム教徒」との戦いの際には、しばしば「「十字軍」という名前の軍隊を結成しよう!」という声があがりつづけた。
 たとえば、現在のリトアニア方面では、いわゆる「北方十字軍」が、


 バルカン半島にオスマン帝国が侵入したときには「ニコポリス十字軍」が結成されている。

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 ごく最近の例だと、2001年9月11日の同時多発テロに対する報復攻撃について、アメリカ合衆国のブッシュ大統領がこの十字軍は...と発言。


 のちに訂正されたものの、数百年経った今でも「十字軍」という言葉を用いて、「イスラーム教徒とキリスト教徒は、はるか昔から互いに憎しみ合ってきたのだ」という”ストーリー“が、簡単に焼き直されかねないことを示す良い例と言えるだろう。


★1 現在では、全球的に一様に温暖であったという説は否定されている。2021年に発表されたICPP「第6次報告書」では、その影響はヨーロッパに限定され、従来想定されていたよりも温暖ではなかったと報告されている。
★2 中谷功治『ビザンツ帝国―専念の興亡と皇帝たち』中公新書、2020年、232頁


加筆修正:2021/10/28

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊