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新科目「歴史総合」をよむ 3. グローバル化への問い


■「グローバル化」って何だろう?

 
 歴史総合では、これまで「近代化」「国際秩序の変容や大衆化」の展開を通して、日本を含む世界の変遷をたどってきた。

 第一に、「近代化」の動きは、資本主義経済と国民国家の成立に代表され、19世紀末から20世紀初めにかけて帝国主義諸国が台頭していくこととなった。



 そして第二に、1914〜1918年の第一次世界大戦をターニング・ポイントとして、「国際秩序の変容や大衆化」が進んでいった。そこではマス・メディアが大きな役割を果たし、大衆が政治や経済の動向を左右するようになる。
 「近代化」によって成立した資本主義経済と国民国家が再編され、世界恐慌(1929年)をきっかけとして、上からの統制と国民の主体的な参加を引き出す国家体制へと、その内部に複雑な対立をはらみつつ組み替えられていった。



 第二次世界大戦後、戦前・戦中に形成された新しい国家体制は、その目的を戦争ではなく経済成長に変えつつ、受け継がれていく。その分水嶺は日本においては、高度経済成長と55年体制の始期である1955年とみることができる。

 ソ連とアメリカの両陣営は、共産主義と自由主義というイデオロギーの違いから鋭く対立(=東西対立)しながらも、経済成長と進歩を目指して化石資源を大量消費し、大量生産・大量消費をおこなう点、そして、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国の経済的搾取を前提とする点(=南北対立)では共通していた。



 
 しかし、そうした体制は1970年代前後(とくに1968年の「68年の運動」を契機として)より、行き詰まりを見せるようになる。
 直接的には第一次石油危機オイルショックを契機とし、市場経済を放任する新自由主義が台頭し、「グローバル化」(グローバリゼーション)が本格的に始動する。東西冷戦は1990年前後に終結するが、その後の世界の展開は、情報技術革命のさらなる進展や新興国の台頭、持続可能な開発の問題化とともに、新たな局面に突入しているかのようにも見える。


 一般に「グローバル化」という言葉は、1970年代以降の変化に限定せず、「地球規模に広がっていくこと」「世界が一つにまとまっていくこと」といった意味で、あいまいに使用されることが多い。
 しかも、歴史総合におけるグローバル化が具体的にどのようなものを指すのか、学習指導要領を読みとく限り、明確に定義されているとはいいがたい。
 それはおおむね1950年代から1960年代以降、東西冷戦が展開する中で、世界経済が拡大していくなかで始まったものととらえられ、特に「市場経済のグローバル化」に限定した記述が散見される。

(3) 世界秩序の変容と日本
この中項目では,日本とその他の国や地域の動向を比較したり,相互に関連付けたりするなどして,市場経済のグローバル化の特徴と日本の役割などを考察したり表現したりして,市場経済の変容と課題を理解できるようにすること,また,冷戦終結後の国際政治の特徴と日本の役割などを考察したり表現したりして,冷戦終結後の国際政治の変容と課題を理解できるようにすることをねらいとしている。

(出典:『学習指導要領 平成30年告示(解説) 地理歴史編』文部科学省、177頁)


 その意味では、次のような「グローバル化」の定義が、歴史総合の意図する用法に近いように思われる。

 これまで存在した国家、地域などタテ割りの境界を超え、地球が1つの単位になる変動の趨勢(すうせい)や過程。グローブ(globe)とは、球体としての地球の意味。1970年代、地球環境が人類的課題だという意識が生まれたことなどから広く使われるようになった。冷戦期には、東西分断を超える人類的視点をグローバルと呼び、世界平和を志向する用語。こうして、国家ではなく人類の視点から、環境破壊、戦争、貧困などの地球的問題に取り組む「グローバルに考えて、ローカルに行動する」という標語も広まった。しかし90年代には、経済のグローバル化が強調された。各国が金融自由化を進め、また旧ソ連圏が崩壊し、情報通信システムの統合が加速した。その結果、巨大企業が世界を市場や投資先として苛烈に競争を展開し、半面、政府は資本への規制力を弱体化させ、短期の資本移動や為替の投機的取引に対する統治能力が弱まった。また地球の1カ所の経済破綻が、通貨危機や世界同時不況として波及する事態が相次いだ。さらに、国民経済は構造調整が迫られ、広範な倒産失業が広がった。これら経済のグローバル化は、実質的には米国の経済的優位に重なることが多い。その中で、グローバル化は資本の支配貫徹であり、貧富の差を拡大し、環境と固有文化を破壊するという反グローバリズム主張が力を増している。こうして、むしろマイナスの価値を示す言葉としてグローバル化が語られることも多くなり、言葉の二面性が強まっている。(坂本義和 東京大学名誉教授 / 中村研一 北海道大学教授 / 2007年)

 まわりくどい話になったが、「グローバル化」という言葉も、これまでの「近代化」や「大衆化」と同様、明確に定義することは難しく、むしろ個々の事例に即して理解するほうが、実りある結果が得られるということであろう。

 まずは以下の5つの項目に触れ、問いを立てることで、「グローバル化」が進展する前提となった出来事や、「グローバル化」が進展することでいかなる変化が生じるのか、考えていくことにしよう。


 ただし、その際、それぞれの項目で扱う要素は、「グローバル化」によって突然生まれたわけではないことに注意しよう。「グローバル化」を「これまで存在した国家、地域などタテ割りの境界を超え、地球が1つの単位になる変動の趨勢(すうせい)や過程」とするならば、その過程はすでに「近代化」以前から始まっていたとみることもできる。
 時代ごとに起きたさまざまな変動が積み重なっていった結果、1970年前後以降に生じる「市場経済のグローバル化」が、どのように生起していくことになるのか。
 非常に射程の広い問いではあるが、以下、さまざまなトピックを挙げていくことにしたい。


***

1. 冷戦と国際関係

 まず、第二次世界大戦後に生まれた「冷戦」という状況について、簡単に整理しておこう。
 冷戦とは、「第二次世界大戦後、1980年代末までの国際関係を特徴づけた、アメリカを中心とする資本主義(西側)陣営とソ連を中心とする社会主義(東側)陣営間の、全世界的な緊張・抗争状態を示す表現」で、(局地的な「熱い戦争」はあったものの、「両陣営全体の間で武力衝突は起こらなかったため、「冷たい戦争」と称される」ものである(参考:『角川世界史辞典』)。

 その起点については諸説ある。その一つは、第二次世界大戦中の1944年10月9日、イギリスのチャーチル首相とソ連のスターリンとの極秘会談に遡る。チャーチルが手書きのメモにより、バルカン半島の勢力圏をめぐり、イギリスとの交渉がおこなわれたのだ。
 これによりヨーロッパは、イギリスとソ連の間に分断されることとなった。

資料 パーセンテージ協定(1944年)

(CC 表示 3.0,  File:Churchill si crucificarea Romaniei.jpg by Utilizator:Mihai.1954 (romanian Wikipedia) - romanian wiki)

 戦争終結末期に成立した国際連合には、これからは大国同士の協調によって、世界の安全保障がはかられるとの期待もかけられていた。


資料 国際連合の地図(1945年)
「このきわだった地図はこの出来事の背景にある楽観主義の証人である。……この時代には現実には対立があったというしるしを、日本の上で炸裂している原子爆弾の小さな絵に見るべきであろう。」

(出典:ピーター・ウィットフィールド『世界図の歴史―人は地球をどのようにイメージしてきたか』大英図書館・ミュージアム図書、132頁)




 しかし戦後まもなくその期待には暗雲が立ち込める。東欧や東アジアで、ソ連とイギリス・アメリカの対立が強まり、そのうえアメリカ合衆国が圧倒的な軍事力・経済力を背景として、イギリスをしのぐ勢いをみせるようになっていったのだ。
 人類最初の核兵器を開発したアメリカ合衆国を追うように、ソ連も核開発を進め、やがて米ソ両大国は核軍拡を進めていくこととなった。


https://ourworldindata.org/nuclear-weapons
https://ourworldindata.org/nuclear-weapons
https://ourworldindata.org/nuclear-weapons


 米ソ両陣営が対立する中、植民地支配を受けていた地域は次々に独立に向かった。
 しかし、長年宗主国に従属していた新興独立国にとって、先進工業国のように工業化を果たすことは容易ではない。
 勢力圏を拡大しようとする米ソ両国や、旧宗主国の思惑が重なって、「開発途上国」の開発を援助する「開発援助」の枠組みが、しだいに形成されていくこととなった。


 ただ、1945~1989年にかけての時期に世界各地でおきたさまざまな出来事のすべてを、「冷戦体制」の論理で説明しようとすることは適切なのだろうか?
 人々の意識のなかで、「冷戦」はどのように想像され、共有され、意味付けされてきたのだろうか?
  

資料 コネチカット州の高校生が書いた手紙
―1950 年の夏にハリー・S・トルーマン大統領に送られたもの
私は単なる一高校生で、あなたはおそらくこの手紙を読むことはないと思います。でも、15 歳の女の子がどれほど生きるチャンスを望んでいるのかわかってもらえるかと思い書いてみました。私たち、米国が、ロシアに奇襲攻撃をかけることはできないでしょうか。彼らがそうする前に。(中略)。ある夜、ベッドで横になって眠れなかった時のことです。飛行機が上空を飛び去る音が聞こえたのです。その瞬間、私はしばしの恐怖にとらわれました。みんなが一瞬にして殺されるのではないか、と。どうして、一か八か奇襲攻撃をかけてみないのですか。たとえ私たちが戦争に負けたとしても(もし手を打てばそうはならないと思いますが)、少なくとも私たちは試してはみた、ということはできるでしょう。私たちは素晴らしい国です。それがこれからもそのまま続くようにしていきましょう。」

(出典:益田肇「人びとのなかの冷戦:想像がグローバルな現実となるとき」『立命館国際研究』31(5), 107-124, 2019年、109頁)

 

資料 鳥取県米子市の 58 歳の男性医師が書いたもの
―1951 年の春、元総理大臣の芦田均に送られたもの
「五月号主婦の友主催の再軍備座談会の記事に関し深く感ずるところあり一書を呈します。
(…)何人もあの記事を読んではあまりにも無智無理解な彼女達の頭脳に匙を投げざるを得ないと思います。婦人が感情に走り時局の認識に無理解なることを指摘されて大いに憤慨しながら其口の下から非難の評言を如実に裏書きするような無智を其まま暴露しているのに驚かされます。か様な婦人達が時代の波に便乗して代議士だとか市長だとか堂々たる重職に就いている現代日本の社会と其軽佻浮薄な国民性に闇然たらざるを得ません。(中略)。憲法改正の国民投票については無智なる婦人の多数によって日本国民の良識を世界に誤解せしめるようなれば、御説の如く現行の儘、自由なる解釈の許に再軍備を行はるるようお願いしたいと思います。昔より歴史の裏に女ありと云ふ言葉の意味は常に滅亡と悲劇を意味するもので女性の政治的関与は積極的に効果を挙げた場合が極めて乏しく女賢くして牛を売り損なふ例は必ずしも東洋のみとは限りません。人道上女性に政治を禁ずる法律的措置は出来ないのですが女性の実際的政治の重要ポストへの就任は非常に慎重なる考慮を要するものと思ひます。偶々日本の代表的婦人論客と視られるべき女性達の偽らざる意見と思想の真相を知る機会を得てあまりにも浅薄なる小児病的頭脳の程度を知り密かに先生の心事を忖度し御同情申し上ぐると共に兼ねて公明なる先生の御持論に敬意を表する次第であります。再軍備反対論は要する 現実の状態に全々眼をふさぎたる純然たる空論に過ぎず私は彼らの良心の存在を疑わざるを得ません。」 

(出典:上掲、110頁)


***


2. 食糧と人口、資源・エネルギーと地球環境

メイン・クエスチョン
グローバル化は、食糧・人口問題、資源・エネルギー問題と地球環境問題に、どのような影響をもたらしているのだろうか?

資料 フードレジーム
農業・食糧の政治経済学という専門的な話になりますが、世界システムろんやレギュラシオンという考え方に基づいて、食と資本主義の歴史を「フードレジーム」という枠組みで捉える研究があります。食と農を中心に資本主義の歴史をいくつかの段階にわけてその特徴を考える枠組みです。その第1次フードレジーム(1870〜1914年)には、植民地や新世界で生産した小麦や砂糖などの商品作物を輸入し、欧州諸国において産業革命を支える労働者たちのやすい食料として、資本主義の発展を推し進めるというパターンが形成されたと考えられています。

(出典:平賀緑『食べものから学ぶ世界史』岩波ジュニア新書、2021年、47頁)
第2次フードレジーム」(1947年〜1973年ごろ)は66頁以下を参照。すなわち、「第二次世界大戦後、多くの先進資本主義諸国はケインズ主義的な経済政策を採用し、政府が経済に介入しながら、米国を筆頭に先進諸国は「資本主義の黄金時代」を迎え、右肩上がりの経済成長を実現しました。」「この時代、農業・食料部門でも、大量生産と大量消費が推し進められました。農業は工業化・大規模化され、農薬や化学肥料、農業機械を使った大量生産になりました。」「戦前からせんごにかけての農業政策に支えられ、小麦、大豆、トウモロコシが大量生産され、それらを原料に食品製造業や加工型畜産が発展して、加工食品や動物性食品が大量生産されるようになりました。加えて、それらを大量に流通するスーパーマーケットやコンビニという新しい形の小売業や、ファストフード店など外食産業があわせて発展しました。」(同上、66〜74頁)


資料 日本の食生活の変化

(出典:社会実情データ図録280、http://honkawa2.sakura.ne.jp/index_list.html

資料 ハンガーマップ2020

資料 一次エネルギー消費量の地域別変遷

(出典:『エネルギー白書2020』、https://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2020html/2-2-1.html

森林面積の国別順変化と地域別準増減

(出典:環境省、https://www.env.go.jp/nature/shinrin/index_1_1.html
(出典:環境省、https://www.env.go.jp/nature/shinrin/index_1_1.html


二酸化炭素排出量の推移



3. 人と資本の移動

メイン・クエスチョン
グローバル化の進展とともに、人と資本の移動には、どのような変化がみられるのだろうか?

 大陸を超える活発な人の動きは、蒸気機関の交通機関への応用によって加速した。
 19世紀には蒸気船と蒸気機関車の普及にともない、数度にわたってインドのベンガル地方の風土病であったコレラが、全世界的に大流行をおこした。

 20世紀後半には、ジェット機が民間航空路線でも運行されるようになり、旅客数が跳ね上がった。また、1960年代以降、コンテナ船が実用化され、物流も激増していった。
 それとともに新興感染症・再興感染症が世界規模で流行するリスクも高まった。その代表例は、2002〜2003年のSARSの東アジアにおける大流行や、2020年以降の新型コロナウイルス感染症の大流行である。

資料 移民の流れ
純国際移動を表している。青は移民送り出し国・地域を、赤は移民受け入れ国・地域を示す。空欄はデータがない国・地域を示す。
Q. 現在、移民の送り出し国・地域には、どのような特徴があるのだろうか?

Net International Migration Flow Map.: The colours describe the net international migration. Blue indicates net emigration countries/regions, and red indicates the net immigration countries/regions. Empty spaces indicate countries/regions with missing data. The maps were generated using ArcGIS 10.2 (www.esri.com/software/arcgis)., https://www.researchgate.net/figure/Net-International-Migration-Flow-Map-The-colours-describe-the-net-international_fig4_307896332


資料 直接投資の受け入れ国・地域

https://www.visualcapitalist.com/mapped-foreign-direct-investment-by-country/



4. 高度情報通信

サブ・クエスチョン
情報通信技術の発達は、グローバル化の進展に、どのような影響を与えてきたのだろうか?

サブ・サブ・クエスチョン
情報技術の発達は、20世紀後半の世界経済をどのように変えたのだろうか?

 遠くにいる人とどのように連絡をとり、情報をやりとりするか?
 世界史は、情報伝達技術の革新の歴史でもある。

史料 古代エジプトの手紙 地方赴任中の役人が恋人にプロポーズをする内容(前2000年頃)
…もしも、この手紙に翼を与えて、空を翔ばせることができたら、そして、この嬉しいお報せをその日のうちにでも、愛しいあなたの許に届けることができるとしたら、どんなにか素晴らしいことだろう。せめて、あの、ファラオや総督たちのように、俊足の名馬にまたがった急使の手に、これを託することができたならば、ファラオの使者は夜に日に継いでひた走る。駅という駅には、乗り換え用の駿馬が待機し、百里の道を一日で駆けるのだ。でも、いい、私は幸せでいっぱい。今ここに胸を張ってあなたにいいます。お嫁においで、と。…

星野定雄『情報と通信の文化史』一部改変(実教出版『世界史探究』)

人馬・伝書鳩などによる通信の時代

 近代以前においては、視覚による通信(火や煙での信号)、聴覚による通信(指笛、太鼓、角笛など)、伝書鳩による通信などが重要なコミュニケーション手段だった。
 国家が広域を支配するようになると、すみずみまで統治者の命令を伝えるために、アケメネス朝の「王の道」で知られるように駅伝制の整備によって情報ネットワークを構築する動きが見られるようになった。

 モンゴル帝国でもジャムチと呼ばれる駅伝生が整備され、パイザ(牌符)をもつものに通行の便宜がはかられた。

また、オゴデイ・カアンの宣うよう、「……また、使臣を馳せやる時、[所定めず]国民から取り立てて馳せてきたが、[そのため]馳せる使臣は行程が遅れがちであり、国民は苦しんでいた。今、我らがしかと一定の場所を定め、各地の千(ミンガン:千人隊)・千からジャムチ(駅站戸)やウラアチン(舗兵)を出させ、[然るべき]場所場所にジャム(駅站)を置き、心安んじて、[国民からの徴発]に頼ることなく、駅站に頼って馳らせれば、よかろうぞ……」とのジャルリグ(聖旨)があった。

 『元朝秘史』、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A0%E3%83%81(ジャムチの項)

 中世ヨーロッパでは、ローマ教会、修道院、大学が、それぞれ飛脚制度をつくりあげていた。
 ルネサンス期には、イタリアの諸都市で商用飛脚制度が発達した。保険や為替、手形割引のためである。

 これらこうした各地の飛脚や郵便を統合し、16世紀初めに広く一般の利用に供する郵便事業を開いたのは、16世紀の神聖ローマ帝国・タクシス家の運営したそれである。馬車によって手紙、荷物、人を運搬するサービスだった。

ヨーロッパの中世の時代には、教皇庁、僧院、僧尼たちの間に、通 信を運ぶ使者の往来が盛んとなった。また12世紀以後、各地の大学において、学生が故郷との通 信のための大学飛脚が生まれる。商業においては、取引のための通信が活発になり、なかでも腐敗しやすい肉類を運ぶ肉屋は、機能の優れた車や馬を使用し、その際信書も運ぶようになった。これは肉屋郵便とよばれ、到着を知らせるラッパは、今日に至るまで郵便のマークとして用いられている。こうした各地の飛脚や郵便を統合し、16世紀初めに広く一般 に利用される郵便事業を開いたのはタクシス家である。タクシス家は神聖ローマ皇帝から、領内における郵便事業の独占と、これを世襲する権利を与えられ、以後、タクシス家はヨーロッパの各地を結んで、郵便の業務を発達させた。

https://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/~mizuno/mizuno_taxis.html

ヨーロッパでは中世のキリスト教世界において、教皇庁と僧院、また僧院と僧尼との間に、通信を運ぶ使者の往来が盛んとなった。また12世紀以後、大学が建てられ、各地から学生が集まると、その故郷との通信のために、いわゆる大学飛脚が登場した。さらに商業の発達は、取引のうえでの通信を盛んにし、ことに腐敗しやすい肉類を運ぶ肉屋は、機能の優れた車や馬を使用した。これが信書をも運ぶようになったのである。肉屋郵便とよばれ、到着を知らせる「らっぱ」は、今日に至るまで郵便のマークとして用いられている。こうした各地の飛脚や郵便を統合し、16世紀初めに広く一般の利用に供する郵便事業を開いたのはタキシス家である。タキシス家は神聖ローマ皇帝から、領内における郵便事業の独占と、これを世襲する権利を与えられ、以後、タキシス家はヨーロッパの各地を結んで、タキシス郵便の業務を発達させた。

日本大百科全書(ニッポニカ)「郵便」の項

 イギリスでも、国営の郵便が16世紀初めからあったものの、王室専用だった。
 一般国民にひらかれたのは1635年になってのこと。1680年には、ロンドンの商人ドクラが、1ペニーという安い料金で郵便物を引き受けるペニー郵便をはじめた。
 しかし議員ら特権階級は無料で郵便物を送ることができたのに対し、一般人の距離によって料金が高額だったのが欠点だった。
 産業革命期になり、これに根本的な改革を加えたのがローランド・ヒルである。1840年、郵便の最低料金は1ペニーに抑え、全国を距離にかかわらず均一の料金とした。料金を前納とするために導入されたのが「切手」である。
 明治期の日本は、イギリスのこのロイヤルメールを模範とし、前島密を衷心に郵便制度を導入していく。

「郵便事業を示す黒とえんじで装飾されたメールコーチ。1827年の英国サフォーク州ニューマーケット近郊。監視役が後方に立っていることがわかる。」、パブリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%A6%AC%E8%BB%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mailcoach.jpg


 郵便物の量が増加し、国際郵便がさかんになると、ドイツのシュテファンらの尽力によって、1874年にスイスのベルンで万国郵便連合(UPU)が結成されることになる。

腕木通信・電信の登場

 遠隔地を結ぶ情報伝達技術も18世紀末以来急速に発達していった。
 革命期のフランスでは、1793年に腕木(うでぎ)通信という通信手段が導入され、国内に張り巡らされた。これにより1794年のコンデ包囲戦の勝利は、200km離れたパリまで30分で伝わっている。



 電車鳩も依然として有効だ。1848年にはフランスのアヴァス社が伝書鳩によって二月革命のニュースをヨーロッパ諸国に伝え、近代的な通信社のさきがけとなった。
 現在でも世界随一の通信社であるロイター通信の創業者ロイター(1816〜99)も、もともとはアヴァス社の翻訳者だった。ロイターはアメリカの大統領リンカン暗殺のニュースをいちはやくロンドンに伝え、名を挙げた。

 19世紀後半には、モールス信号による電信が普及し、フランスのナポレオン3世万国通信連合(現在の国際電信連合の前身)が立ち上がる。その後の2度の総力戦と冷戦の時代には、暗号電信の解読合戦がくりひろげられることになる。

 このように19世紀以降、情報通信技術は急速に発達していったが、20世紀後半になると、デジタル革命とも呼ばれる情報技術革命がいっそう進展した。


資料 電信ケーブルの世界一周ネットワーク(1902または1903年)

(パブリック・ドメイン、George Johnson (1836-1911) - The All Red Line - The Annals and Aims of the Pacific Cable Project Image of the All Red Line as drawn in 1902 or 1903)


資料 現在の海底ケーブル


資料 インターネットの普及率


https://ourworldindata.org/internet

資料 インターネット普及率の変遷(2000→2010→2019年)


資料 マクルーハンのメディア論
○ホットなメディア
・ユーザが「高精細(high-definition)」な情報により圧倒され、参加・関与・コントロールできないメディア・ 本(おそらく小説のようなものを想定している)や映画のようにユーザに物語や解釈が押しつけられるメディア。ユーザはメディアの押しつける物語や世界に没入させられる。
・ユーザはメディアの押しつける世界を、一方的に受け身で受け取るだけなので、ユーザ間が主体的に世界を再構成することが出来ず、個人主義的な態度を押しつけられ、断片化(専門分化)する。

○クールなメディア
・情報が「低精細(low-definition)」であるため、ユーザが参加・関与が可能なメディア
・ TV のバラエティショウや、新聞、雑誌の見出しの様に、ユーザが情報を切り取って自由に解釈し、頭の中で再構成する余地のあるメディア。ユーザはメディアが物語や世界観を押しつけないために、その世界に溺れることはなく、主体的に再構成可能。
・複数のユーザがメディアを通して相互に主体的に関与することで集合的、共同体的体験が可能。
そして、「ホット」なメディアの例として印刷や映画が「クール」なメディアの例として、非文字文化、口承文化における諸メディアや、電気メディア(テレビ等)が例示として挙げられている。

 

 情報通信技術は、モノの生産を中心とする経済を、サービス中心の経済に変えた。ソフトウェアやアプリケーションなど、形のみえない情報も、商品として生み出され流通するようになった。その影響は、文化のあり方にも及んでいる。

資料 リチャード・ボールドウィン著『世界経済 大いなる収斂 ~ITがもたらす新次元のグローバリゼーション~』(日本経済新聞出版社、2018)
(1)第1次グローバリゼーション  国際的な交易が可能に
 18世紀、「モノの移動」が可能になったことで経済圏が広がりました。例えば、日本では江戸時代、それぞれの村に味噌・醤油・酒を作る小規模な店がありましたが、物流の発達により、競争力のある店が近隣の村に味噌・醤油・酒を供給するようになりました。その延長線上に国境を越えた物流の発達があり、国際貿易が可能になったのが第1次グローバリゼーションです。
(2)第2次グローバリゼーション  設計と生産の地理的な分離
 Appleの製品には「Designed by Apple in California, Assembled in China」と書かれています。それは、開発・設計は米国のシリコンバレーで行い、生産は中国で行っていることを意味します。ICTにより情報の移動が簡単になったことで、「設計と生産の地理的な分離」が実現しました。それにより製造コストの削減を図っているのがAppleなどの企業です。 
 ここで重要なポイントは、多くの日本企業が既に行っている、工場の単なる海外移転ではないことです。第2次グローバリゼーションでは、イノベーションを伴う新製品の開発・設計に国内のリソースが集中的に投入され、付加価値の低い製造は海外に外注するという「国際分業」が行われています。収穫逓増が作用するイノベーションを担うのは国内です。企業の経営者や管理者は、この「利益構造の大きな変化」を理解する必要があります。
 日本企業は、この第2次グローバリゼーションの体制を整えることが急務です。人件費の高い日本でモノ作りをするのは限界があります。イノベーションを起こして、人が欲するような製品を「国内」で設計し、安く「海外」で生産する必要があります。

(出典:吉川智教「「新しいグローバル化」の時代、競争ルールが変わる」『事業構想』2019年1月号、https://www.projectdesign.jp/201901/future-of-grobalization/005875.php
(出典:Richard Baldwin, The Great Convergence: Information Technology and the New Globalization, Harvard UP, 2016. )
リチャード・ボールドウィンによれば、グローバル化以前の世界においては、物流コスト、コミュニケーションコスト、対面コストはいずれも高く、生産と消費の場は切り離せなかった。しかし、第1次グローバリゼーション(19世紀〜)において、物流コストが低下したことで、遠く離れた場所で生産した商品を消費することが可能となった。さらに第2次グローバリゼーション(20世紀後半〜)において、情報技術によりコミュニケーションコストが下がったことにより、開発研究部門(先進国)と低賃金生産部門(途上国)を地理的に分散させることが可能となった。


 このように、ひとつの商品を製造するために、世界各地に研究開発・生産・流通・消費の拠点が分散されていくことで、世界各地の人々がいわば共通の土俵に立って競争する状況となり、「グローバルな貧困」が生み出されているとの指摘もある。
 自由な経済のグローバル化に対しては、反グローバル化(反グローバリゼーション)の立場をとる反対運動や、それと結びついたポピュリズムも、世界各地で目立つようになっている。

資料 スマイルカーブ どの部門がもっとも収益が高い?

(出典:猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン 新・南北問題へのまなざし』日本経済新聞出版社、2019年)

資料 エレファント・カーブ
1988年から2008年までの20年間で、先進国の高所得者層と、新興国・途上国の中間層の所得が大幅に上昇している一方で、先進国の中所得者層は、所得を減少させているというもの。

(出典:『令和元年版 情報通信白書』総務省、https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r01/html/nd122130.html。ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等――エレファントカーブが予測する未来』みすず書房、2019年)
(出典:ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等――エレファントカーブが予測する未来』みすず書房、2019年、34頁。35頁の図1-4では、「グローバル中間層が出現して、所得分布のふたこぶラクダ型が縮小(平坦化)していること」がよく示されている)

 世界の不平等統計については、World Inequality Databaseも参照できる。





サブ・サブ・クエスチョン
情報通信技術は、先進国と途上国との格差を縮めるだろうか、それとも拡大させるのだろうか?

 携帯電話などのモバイル情報端末の普及は、2000年代以降、先進国に限らず途上国においても爆発的に進んだ。銀行で口座を開設することのできない貧困層が、国外の出稼ぎ先との決済手段としてモバイル送金口座を活用する事例も増えている。

資料 携帯電話の普及率の変化(総務省『2017年度版 通信白書』)

(出典:総務省、https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc123110.html
(出典:総務省、https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc123110.html)
(出典:総務省、https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc123120.html)「携帯電話の普及は、今やアフリカ等の低所得国へも及んでいる。2014年末時点でのアフリカ全体での携帯電話加入者数は8億9,100万加入である。2003年末時点では5,200万加入であったことから、11年の間に約17倍も増加したことになる。アフリカ全体での人口普及率は2014年末で84.7%となっており、こちらも2003年末の8.6%と比較すると約10倍に成長している。」

資料 アフリカにおけるモバイル送金口座の普及率

(出典:総務省、https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc123120.html)


 

サブ・サブ・クエスチョン
情報化社会によって、人々の自由は拡大するだろうか、それとも制限されることになるだろうか?

 1990年代にインターネットが家庭・個人にも普及し、2000年代になるとスマートフォンが普及し、メディアは多様化した。
 個人が情報の送り手になることも可能となり、国境を越えた人々の連帯や、自由・人権に対する意識の高まりが、民主主義を世界に普及させることになるとの展望もなされるようになった。

 その一方で、2000年代後半以降、利用者の急増したSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じて個人が発信した情報は、政府や大企業による管理・監視の対象にもなりうる。
 2010年代以降に問題化するようになったヘイトスピーチやフェイクニュースをはじめ、情報のデジタル化は、人々の価値観や行動にも大きな影響を与えるようになっている。


資料 香港デモと情報通信技術①(2019年)
今週行われたデモでは、マスクやゴーグル、ヘルメット、帽子などを着用した参加者の姿が目立った。催涙ガスや唐辛子スプレー、ゴム弾から身を守ると同時に、身元を特定されにくくするためだ。
 デモに参加する前には携帯電話の位置情報をオフにし、オンライン上のプライバシー設定を強化。デモの後には、ソーシャルメディアやメッセージアプリから会話や写真を削除したとの証言がたくさんある。
 地下鉄駅の券売機前には珍しく、長い行列ができている。香港市民が日常的に使う交通系ICカード「オクトパスカード(Octopus Card、八達通)」は利用者の足取りが容易に追跡できてしまうため、現金で切符を購入しているのだ。
 メッセージアプリも、市民に圧倒的な人気を誇る「ワッツアップ(WhatsApp)」ではなく、暗号化が可能な「テレグラム(Telegram)」が活用されている。テレグラムのほうがサイバーセキュリティー面で優れ、より大きなグループを組んで抗議行動を連携できるからだ。
 デモ参加者の不安を象徴しているのが、「逃亡犯条例」改正案に反対する多くの人々がソーシャルメディアのプロフィル写真に採用している画像だ。しおれかけた「香港の花」バウヒニアの白黒画像。──しかし、この画像をネット上で使えばかえって当局の注意を引いてしまうのではないかと神経質になり、使用をやめるデモ参加者も増えている。

出典:「香港デモ、参加者は「デジタル断ち」 当局の追跡警戒 「新疆化」恐れる声も」
2019年6月14日 19:23、AFPBBニュース

資料 香港デモと情報通信技術②(2019年)
一連のデモの中で目を引いたのは、参加者、特に若者たちのいでたちでした。揃いの黒いシャツにマスク、ゴーグル、ヘルメットなどを着用して顔を隠す参加者が目立ったのです。さらには、デモに参加する際にはスマートフォンの位置情報をオフにしたり、SNSのメッセージをこまめに削除したり、さらに地下鉄に乗る際にも記録が残るプリペイドカードではなく現金で切符を買ったりするなど、「記録が残る」テクノロジーをあえて使わない「デジタル断ち」と呼ばれる行動が目立ちました。  これは、催涙弾から身を守り、当局にデモへの参加を把握されることを警戒するとともに、中国大陸なみの、顔認証などのAI技術を駆使した監視システムがいつか香港に導入され、行動の自由を奪われるかもしれないことへの若者たちの抗議の気持ちを表現したものだ、という指摘もなされています。

(出典:梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』NHK出版新書、2019年、Kindle Location No.755)


資料 ジョージ・オーウェル『1984年』
「……階段の踊り場では、エレベーターの向かいの壁から巨大な顔のポスターが見つめている。こちらがどう動いてもずっと目が追いかけてくるように描かれた絵の一つだった。絵の下には“ビッグ・ブラザーがあなたを見ている”というキャプションがついていた。」(オーウェル『1984年[新訳版]』ハヤカワepi文庫、2009年)

 

資料 保坂修司「ラクダ対フェイスブック」(『現代思想 4月臨時増刊号―総特集 アラブ革命 チュニジア エジプトから世界へ 2011 Vol.39-4』 青土社、2011年)
「エジプトではかなり早い時点からフェイスブックが政治的に用いられ、政治運動の一環として機能していたことを忘れてはならない。今回の抗議運動の中核となった「四月六日青年運動」というグループは、そもそも2008年4月6日の大規模労働争議を支援するために、フェイスブック上につくられたグループであった。……フェイスブックを禁じる、こうしたロジックは1980年代後半には衛星放送についても用いられ、1990年代にはインターネットそのものにも同様のレッテルが貼られた。衛星放送もインターネットも西側の腐敗堕落した文化や習慣を伝えるものであり、イスラームとは敵対する存在である、だからムスリムは使ってはならない、見てはならない、という論理。……フェイスブックがなくとも、中東の独裁者たちはいずれ倒れたであろう。だが、そのきっかけがつかめない国ぐににおいては、SNSの役割はますます重要になっていくにちがいない。」

 

資料 梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書、2019年)
「一連のデモの中で目を引いたのは、参加者、特に若者たちのいでたちでした。揃いの黒いシャツにマスク、ゴーグル、ヘルメットなどを着用して顔を隠す参加者が目立ったのです。さらには、デモに参加する際にはスマートフォンの位置情報をオフにしたり、SNSのメッセージをこまめに削除したり、さらに地下鉄に乗る際にも記録が残るプリペイドカードではなく現金で切符を買ったりするなど、「記録が残る」テクノロジーをあえて使わない「デジタル断ち」と呼ばれる行動が目立ちました。
これは、催涙弾から身を守り、当局にデモへの参加を把握されることを警戒するとともに、中国大陸なみの、顔認証などのAI技術を駆使した監視システムがいつか香港に導入され、行動の自由を奪われるかもしれないことへの若者たちの抗議の気持ちを表現したものだ、という指摘もなされています。」


 

資料  猛威に監視の目(日本経済新聞、2018年12月21日)
「膨大なデータを経済に生かす「データエコノミー」の覇者として君臨するGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン・ドット・コム)は2018年に転機を迎えた。相次ぐ個人情報流出や競争をゆがめるデータ寡占に批判が集中。規制を強める国家とのせめぎ合いが、激しくなっている。」

 




5. 多様な人々の共存

サブ・クエスチョン
グローバル化の進展は、多様な人々の共存に、どのような影響を与えるのだろうか?

サブ・サブ・クエスチョン
フランスには、アフリカにルーツを持つ国民や移民が、多く生活しているのはなぜだろうか? また、彼らをめぐる問題には、どのようなルーツや原因があるのだろうか?

フランスにおける移民問題

資料 フランスへの移民の人口(出身グループ別、1982, 1990, 2005年)



The Immigrant Population by Size and Origin, France, 1982, 1990 and 1999 (Kirszbaum, Thomas & Brinbaum, Yaël & Simon, Patrick. (2009). THE CHILDREN OF IMMIGRANTS IN FRANCE: THE EMERGENCE OF A SECOND GENERATION with the collaboration of Esin Gezer Special Series on Children in Immigrant Families in Affluent Societies., https://www.researchgate.net/publication/281158405_THE_CHILDREN_OF_IMMIGRANTS_IN_FRANCE_THE_EMERGENCE_OF_A_SECOND_GENERATION_with_the_collaboration_of_Esin_Gezer_Special_Series_on_Children_in_Immigrant_Families_in_Affluent_Societies/citation/download)

資料 郊外問題
フランスにおける地域格差問題を考える際に、ひとつのキーワードとなるのが「郊外問題」(注1)である。これは、人種差別や失業、貧困、教育、宗教、若年者などあらゆる問題が複雑に絡み合ったものといえる。2005年秋の移民の若者を中心とした暴動の拡大は、この郊外問題が現在のフランス社会の抱える大きな課題であるという認識を国内外に示すこととなった。
フランスには現在、「問題の生じやすい都市地域」(ZUS)に指定された地区が全国に751箇所ある。その多くがパリやマルセイユなど大都市の郊外に集中しており、およそ470万人が居住している。ZUSの失業状況は深刻で、暴動発生の直前に公表されたZUSに関する報告によれば、同区域の15歳から59歳人口の失業率は20.7%に達している。これはフランス全体における平均の2倍以上の水準である。出身国別ではさらに深刻で、北アフリカなどEU(欧州連合)域外の出身移民の男性26%、女性38%が失業者である。
平等主義を謳うフランスでは、合法的な移民であればフランス人と全く同等な権利を有するとされる。しかし実際は、就職の際に提出する履歴書で、その名前や写真から移民と推定される場合が多く、書類選考すら通過しないことも少なくない。また、郊外の低所得者層居住地域出身というだけで就職は困難という現状もある。こうした移民系家庭出身者に対する差別は高学歴者ですら例外ではない。

(出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構「地域格差と地域雇用:フランス
フランスの地域格差:暴動と郊外問題をキーワードに」、https://www.jil.go.jp/foreign/labor_system/2007_1/france_01.html、2007年1月)



資料 植民地に対する謝罪と補償

フランスは植民地支配に関し、公式な謝罪は行っていない。確かに、シラク大統領は、二〇〇五年にコンゴ (共)国会での演説において、「三世紀半近くにわたり数百万人のアフリカ人が強制収容されたという、西欧がもはや無視も沈黙もできない歴史を認めることによって、各人の尊厳が確保されるのである」と強調した。また、シラク大統領は、一九四七年にマダガスカルで起こった騒乱に対する大弾圧を認めた。そして、二〇〇五年七月二一日シラク大統領は、「植民地制度が逸脱したことにより発生した、弾圧の受け入れることの出来ない性質を、認識しなければならない」と述べた。また、ドゥラノエ・パリ市長が「植民地支配は極めて遺憾な行為であった」と述べ、二〇〇五年に駐アルジェリア・フランス大使が、セティフの虐殺を「ゆるされざる悲劇」と述べるなどの、個別の事例はあるものの、フランスとしての公式の謝罪はなされていない。サルコジ大統領は植民地支配の歴史に関し「機械的な悔恨repentanceへの抑えがたい傾向」を非難し、絶えず悔恨することを批判している。そして、植民地支配が誤りであったことはダカールの演説やケープタウンでの演説で認めているが、謝罪には至っていない。
フランスでもイギリスなどと同様、植民地支配及び奴隷支配に対する直接的な補償は行われていない。植民地支配の事実は古くその現代への影響を計量することは非常に困難である。また、解放されてから三代、四代経過した奴隷の子孫が祖父、祖母の被った損害を要求できるか、という問題もある。

(出典:中村宏毅「フランスの植民地支配と歴史認識」『武蔵野大学政治経済研究所年報』(4), 183-203, 2011年)

【現代の資料】「マクロン大統領、和解は進めるが公式謝罪はなし」フランスとアルジェリアの関係
フランスがアルジェリア独立戦争を「戦争」だと公式に認めたのは実に1999年になってからであり、フランスの教科書に紛争に関する言及が記載されるようになったのはそれ以降のことである。
フランス24によると、エマニュエル・マクロン大統領は、アルジェリアにおけるフランスによる侵害行為の規模について、前任者らよりは一歩踏み込んで認める発言をしている。例えば、2017年の大統領選期間中には、フランスによるアルジェリア植民地化の歴史を「人道に対する罪」と呼んだことがある。
またマクロン大統領は、その一年後には、132年に及んだフランス支配に終止符を打った8年に亘った解放戦争の期間中に、フランスが拷問を容易にする制度を推進した事実を公式に認めた。
アルジェリアの植民地支配は善意によるものだったとして当時を反省することを拒否する国民が多いフランスにおいて、このマクロン発言は当時驚きをもって迎えられた。
マクロン大統領は両国間の和解を進めるための象徴的なイベント開催を申し出たが、アルジェリア政府が求めている公式謝罪については「悔い改めも謝罪もしない」と述べ、アルジェリア人の失望と怒りを買った。

(出典:「マクロン大統領、和解は進めるが公式謝罪はなし」、INPS Japan, https://www.indepthnews-japan.net/index.php/news/politics-confict-peace/949-macron-willing-to-reconcile-with-algeria-but-no-official-apology


ドイツにおける移民問題

資料 メスト・エジル選手の声明
「私はドイツで育ったが、家族はトルコにルーツを持っている。私にはドイツとトルコの2つのハートがある。子供の頃から母親に、自分のルーツを大切にし、絶対に忘れてはいけないと言われて育った」
「私は5月、ロンドンでの慈善イベントでエルドアン大統領に会った。最初に会ったのは10年、大統領とアンゲラ・メルケル独首相がベルリンでドイツ対トルコの試合を観戦したあと。それから世界中でエルドアン大統領と会うようになった」
「私はウソをついていると糾弾されたが、大統領と一緒に写真を撮ったことに政治的な意図は全くなかった。私にとってエルドアン大統領と写真を撮ることは政治や選挙に関するものではなく、家族の出身国の最高位の職に敬意を示すものだ」
「実際のところ、エルドアン大統領とはいつものように彼が若き日、プレーしていたサッカーについて話しただけ」「エリザベス英女王もテリーザ・メイ英首相もロンドンで大統領を歓待した。トルコの大統領であろうとドイツの大統領であろうと、私の対応に違いは何一つない」
「あるドイツの新聞は私のルーツやエルドアン大統領と撮った写真を、さらなる政治的な論争を巻き起こすため右翼のプロパガンダとして利用している」
「彼らは私やドイツ代表のパフォーマンスを批判せずに、私がトルコに持つルーツや誇りを批判した。これは越えてはならない一線を越えている。新聞はドイツと私を敵対させようとしている」
「元ドイツ代表のマテウスが世界の政治指導者と会っても何の批判もされない。DFBでの立場にかかわらず、何の説明も求められない。メディアのダブルスタンダードには失望している」


「スケープゴートになるのはまっぴらだ」

「この2~3カ月の間、DFB、中でもグリンデル会長にはフラストレーションを感じている。エルドアン大統領との写真が出たあと、レーヴ監督からホリデーを切り上げて、ベルリンに行って騒ぎを収めるため共同声明を出すよう言われた」
「グリンデル会長に自分の受け継いだ遺産、祖先、写真を撮影した理由を説明しようとしたが、彼は自分の政治的な見解を話し、私の考え方を矮小化することにご執心だった」
「フランク・ワルター・シュタインマイアー独大統領とも会ったが、グリンデル会長とは大違いで私の話に耳を傾けてくれた。シュタインマイアー大統領と共同声明を出すことで合意したが、グリンデル会長は主導権を取れなかったことに苛立っていた」
「W杯のあと責任を追及されたグリンデル会長は、もう一度私に(エルドアン大統領と写真を撮影した)行動を説明するよう求め、敗因を私に押し付けようとした。一度はベルリンですべては決着したと話していたにもかかわらずだ」
「私はこれ以上、グリンデル会長の無能と能力不足のスケープゴートにされるのはまっぴらだ。彼は写真騒動のあと、私を代表チームから追い出したかった」「彼と彼の支持者にとって、私は勝っている時はドイツ人、負ければ移民に過ぎないのだ」



アパルトヘイトの廃止



資料 スティーヴ・ビコの発言
「われわれは、権力を基礎に据えた西洋人の社会を拒否する。それは、技術上のノウハウを完全なものにすることにかかりっきりで、精神的次元で失敗しているように思われる。長い目でみれば、アフリカはこの人間関係の分野で世界に対し特別な貢献をするだろうとわれわれは思う。世界の強大な国々は、世界に工業と軍事の外観を与えることに奇跡的な成功を収めてきたかもしれない。だが偉大な贈り物がまだアフリカから届いていない――世界にもっと人間的な顔を与えるという贈り物が。」
(スティーヴ・ビコ【俺は書きたいことを書く―黒人意識運動の思想】現代企画室、1988年、95頁)

 

資料 マンデラの発言 (リヴォニア裁判において、1965年4月20日)During my lifetime I have dedicated my life to this struggle of the African people. I have fought against white domination, and I have fought against black domination. I have cherished the ideal of a democratic and free society in which all people will live together in harmony and with equal opportunities. It is an ideal for which I hope to live for and to see realized. But, My Lord, if it needs to be, it is an ideal for which I am prepared to die.


資料 デクラーク (議会冒頭演説、1990年2月2日)
THE GENERAL ELECTIONS on September the 6th, 1989, placed our country irrevocably on the road of drastic change. Underlying this is the growing realisation by an increasing number of South Africans that only a negotiated understanding among the representative leaders of the entire population is able to ensure lasting peace.
The alternative is growing violence, tension and conflict. That is unacceptable and in nobody's interest. The well-being of all in this country is linked inextricably to the ability of the leaders to come to terms with one another on a new dispensation. No-one can escape this simple truth.

 



その他の視点


資料 ダニ・ロドリック『グローバリゼーション・パラドクス―世界経済の未来を決める3つの道』白水社、2013年
「国民民主主義とグローバル市場の緊張に、どう折り合いをつけるのか。われわれは3つの選択肢を持っている。国際的な取引費用を最小化する代わりに“民主主義を制限”して、グローバル経済が時々生み出す経済的・社会的な損害には無視を決め込むことができる。あるいは、“グローバリゼーションを制限”して、民主主義的な正統性の確立を願ってもいい。あるいは、国家主権を犠牲にして“グローバル民主主義”に向かうこともできる。これらが、世界経済を再構築するための選択肢だ。
選択肢は、世界経済の政治的トリレンマの原理を示している。ハイパーグローバリゼーション、民主主義、そして国民的自己決定の3つを、同時に満たすことはできない。3つのうち2つしか実現できないのである。(上掲、233頁) 

資料 パナマ文書―タックス・ヘイヴン
(a) 「タックスヘイブン(租税回避地)の会社の設立などを手がける中米パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した内部文書。1977年から2015年にかけて作られた1150万点の電子メールや文書類。データ量は2・6テラバイトにのぼる。21万余の法人の情報の中には、10カ国の現旧指導者12人、現旧指導者の親族ら61人の関係する会社も含まれている。芸能人やスポーツ選手の関係する会社もある。」
(朝日新聞、2016年4月7日)
(b) 「為替管理の自由化、情報通信技術の発展による地理的な制約の低下、金融・サービス取引の手段の多様化により、多国籍企業にとって各国の税制の差を利用した租税回避が一層容易になった」(山口一之「タックス・ヘイブン規制の強化」『レファレンス』2009年11月号)
(c)トマ・ピケティ『21世紀の資本
「2007―2008年に始まった世界金融危機は、一般に1929年ウォール街大暴落以来で最も深刻な資本主義の危機だとされている。この対比はある意味では正当化されるが、本質的なちがいがある。最も目につくのは、最近の危機のほうは1930年代の大恐慌ほど壮絶な不景気につながっていないということだ。……2008年の危機が大恐慌ほど深刻な崩壊を引き起こさなかった主な理由は、今回は富裕層の政府や中央銀行が金融システム崩壊を許さず、1930年代に世界を奈落の縁まで押しやった銀行破綻の波を避けられるだけの流動性を作り出すことに合意したからだ。」(上掲、490-491頁)
「...民主主義が21世紀のグローバル化金融資本主義に対するコントロールを取り戻すためには、今日の課題に適応した新しい道具を発明しなくてはならない。理想的なツールは資本に対する世界的な累進課税で、それをきわめて高水準の国際金融の透明性と組み合わせなければならない。」(上掲、539頁)


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊