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新科目「歴史総合」を読む 2. 国際秩序の変化や大衆化と私たち

2-1.国際秩序の変化や大衆化への問い

(学習指導要領「歴史総合」より) 
国際関係の緊密化,アメリカ合衆国とソヴィエト連邦の台頭,植民地の独立,大衆の政治的・経済的・社会的地位の変化,生活様式の変化などに関する資料を活用し,課題を追究したり解決したりする活動を通して,次の事項を身に付けることができるよう指導する。
ア 次のような技能を身に付けること。
(ア)資料から情報を読み取ったりまとめたりする技能を身に付けること。
イ 次のような思考力,判断力,表現力等を身に付けること。
(ア)国際秩序の変化や大衆化に伴う生活や社会の変容について考察し,問いを表現すること。

 「近代化」に引き続き、次は「国際秩序の変化」と「大衆化」という視点から、20世紀初頭以降の世界が、どのように変容していったのか、それが現代世界にどのような影響を与えることとなったのか、見ていくことにする。

 その前に、まずは「国際秩序の変化」と「大衆化」について、いくつかの資料を見ながら「問い」を立ててみよう。

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■「大衆」とは何か


 これは、18世紀のフランスで人気を博したサロンを描いた図だ。

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ジョフラン夫人のサロンに集まる啓蒙思想家たち(シャルル・ガブリエル・ルモニエ作、1812年)

 「啓蒙の世紀」と呼ばれた18世紀には、知識人たちがこのようなサロンに集まり、公共に関することが議論された。その中から公論(輿論)が生まれ、やがて専制的な君主政を倒す動きへとつながっていった。新聞や雑誌は下図のようなコーヒーハウスで発行・閲覧され、やはり公共に関する議論が展開された。

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1664年のロンドンのコーヒー・ハウス(パブリックドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/コーヒー・ハウス#/media/ファイル:17th_century_coffee_house.jpg) 

 しかし、19世紀を経て20世紀に入ると、より多くの国民が、マス・メディアを通して公共に関する議論を受け取ったり、街頭に立って集会に参加したりして、みずから情報を発信するようになった。

資料 デモ行進に参加した女性たちの逮捕を報じる新聞(「ザ・デイリー・ミラー」紙、1910年12月19日)

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(パブリックドメイン、https://en.wikipedia.org/wiki/File:Daily_Mirror_front_page-Black_Friday,_attacked_suffragette_on_the_ground.png





 こうした「大衆」は、20世紀初頭の世界各地の社会で、しだいに政治・経済・文化・社会の主人公となっていく。

 「大衆」といえるものは、それまでの時代にはなかったものだ。現在においても、ある意味「大衆」の時代が続いているといえる。
 しかし、「大衆」とは何かということを定義するのは、じつは難しい。
 ましてや「大衆」とよぶべき人々が、社会の中に出現し始めていた頃において、新たに登場した「大衆」が一体何であり、社会にとってプラスであるのかマイナスであるのかということは、多くの人の議論の的になった。

 たとえば、スペインの知識人オルテガの議論を読んでみよう。

資料 オルテガ『大衆の叛逆』(1930年)
大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。
そのことの善し悪しは別として、今日のヨーロッパ社会においても最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会権力の座に登ったという事実である。大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなどおよびもつかないことである。

Q. オルテガは「大衆」に対して肯定的な評価をしているだろうか。それとも、否定的な評価をくだしているだろうか?


 「大衆」は、第一章で学んだ「近代化」された社会のなかから現れた。


 「大衆」は、英語ではmassと訳される。これは「塊」という意味だ。 
 これはフランス語のmasseから入った言葉である。
 オルテガの『大衆の叛逆』の「大衆雨」も、masasというスペイン語だ。フランス語のmasseも、スペイン語のmasasもその語源はラテン語のmassaで、これはギリシア語のmazaに遡る。
 
 これら一連のmass/masse/masasといった言葉は、自然科学の世界では「質量」と訳される。「質量」とは、物質の違いにかかわらず、量のみを指し示す概念だ。「大衆」にも、「質量」と同じようなニュアンスがある。すなわち、個別的な違い、つまり個人の違いにかかわらず、大勢の中に密集する平均的な人の集合をあらわすという点だ。
 もともと、ギリシア語のmazaとは大麦ケーキをつくるために、混ぜこねた生地のことをさす。
 20世紀初めに出現した「大衆」が社会の主人公となっていく現象について考えるにあたっては、まず「大衆」という西洋の言語に隠された原義を吟味することが必要だ。
 ともすれば「大衆酒場」といったような日本語的な意味に引きずられかねない(そもそも「大衆」という言葉自体は仏教用語で「僧侶の集団」を指す言葉だった)。

資料 日本語の「大衆」の由来
「マッス(Mass) という言葉には、ひとつの大集団として見た国民の大多数、少数特権者に対する大多数民という意味がある。それには勿論、工場労働者、農民も、小商人も、安月給取りも一時的に含まれる。西洋人の社会主義の書物にはよくこの意味でマッスという言葉が使用される。然るに日本では、これにあたる適当な言葉が従来使用されていない。平民、民衆、労働者、下層階級、労働階級、等々の語はあっても、いずれも適切にまっすの意味に当てはまらない。そこで高畠さんは、かなり長い間色々考えた末、遂に古書などに見える「大衆」という言葉を採用するに至ったのである。」
(「『大衆』主義」『急進』1929年6月号。高畠さんとは高畠素之たかばたけもとゆき氏のこと)


 オルテガの議論に戻ろう。
 オルテガは、当時のヨーロッパ社会において、「大衆」が「完全に社会権力の座に登った」と指摘していた。彼にはエリートとしての自己認識があり、社会は一部のエリートによって正しく導かれるべきだという信念があり、それが、「個人の違いにかかわらず、大勢の中に密集する平均的な人の集合」によって、右へ左へ流されてしまうことに対して大きな懸念を抱いているのだ。

 では、オルテガがそのような懸念を持つような社会的状況が生まれてしまったのは、なぜだろうか?
 「大衆」は、19世紀後半の社会のどのような状況の中から生まれたのだろうか?

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■マスメディアの革新


 大衆社会が成立するためには、大量の情報を一度に伝達する技術が必要だ。
 19世紀を通して、それを可能とする技術革新が進んだ。すなわち、大衆媒体(マスメディア)、大衆通信(マスコミュニケーション)の登場である。
 このことは、政治的なメッセージの大衆化を進めた。つまり、多数の人々の支持を得ることが、政治家にとって重要な関心事となったのだ。

 日本の政治において、大衆の存在感が増したのは、1913年2月の桂太郎内閣の退陣をめぐる大衆行動であろう。
 1920年には、第1回メーデーがひらかれ労働者たちが政治的な主張を展開している。


 大勢の人が集まり、政治に意見を反映させるために直接行動をとる手法は、同時代の世界に共通してみられた。

 20世紀初めにおけるインドでの英貨ボイコット、1910〜1920年代の中国における日貨ボイコットなどが典型例だ。
 
 こうした動きのもつ力に気づいた権力者の側も、積極的に大衆を集めるイベントを催すようになっていく。
 大衆に訴えかける政治的な宣伝(プロパガンダ)の手法も、しだいに理論化・精緻化していった。
 戦争に巻き込まれるのは嫌だという世論を超えるため、政府は大々的に戦争の正当性を訴える広報が必要となったのだ。こうした行為は、人々の無意識に着目するマーケティングの手法とも結びつき、「プロパガンダ」(元来はキリスト教の宣教を指す言葉だった)と呼ばれるようになった(精神分析学医フロイトが『夢判断』を刊行したのは1900年。広告とマーケティングの関係についてはhttps://www.advertimes.com/20190809/article296905/2/を参照)。

資料 第一次世界大戦中のアメリカにおける「戦時広報」
 
早くも参戦の1週間後の4月14日、戦時の「健全な世論」形成を担う戦時広報委員会(CPI)が大統領行政命令のかたちで設置された。事業全体を統括する委員長には民間のジャーナリスト、ジョージ・クリールが就いた。[…]
 CPIに課せられた最大の任務は、人々に戦争目的を周知、解説することだった。たとえば第一号パンフレット、『いかに戦争がアメリカに到来したか』は次のように参戦の経緯を語っている。
 […(下記写真参照)]
 ここに示された戦争目的は、参戦直後のアメリカ政府の公式見解と見て間違いない。モンロー・ドクトリンの伝統と将来の平和構築を結びつけるレトリックや、ドイツの専制とアメリカが依って立つ「被治者の合意」を二項対置する論法は、CPIが製造する様々な媒体に登場する定番のモチーフとなった。[…]すでに見たように、二年以上前に起ったルシタニア号事件は、アメリカ参戦の直接的な原因とはいいがたかった。しかし、戦時下の国内宣伝によって、この二つの出来事はアメリカ人の集合的な記憶の中で分かちがたく結びつけられた。『いかに戦争がアメリカに到来したか』は、総部数543万という凄まじい数が印刷され、全米の津々浦々に配布されたのであった。その後、休戦までの一年半、CPIは膨大な情報を国民社会に向けて発信し続ける。新聞各紙へのプレスリリースは6000回を超え、総計7500万部のパンフレットと無数のポスターを発行した。

(出典:中野耕太郎『20世紀アメリカの夢—世紀転換期から1970年代』(シリーズ アメリカ合衆国史③)岩波書店、2019年、68-70頁)

※Google Booksで閲覧可能(上記リンクは第1号)




資料 第一次世界大戦中のカナダのポスター「栄養十分な兵士が戦争に勝利するだろう」

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資料 第一次世界大戦中のイギリスのポスター「イギリスの女性は「行け!」と言う」

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■国際秩序の変化 

 「大衆」は20世紀において、一国の政治のみならず、外交においても大きな影響力を持つにいたる。
 たとえば19世紀までの外交は、一部の支配層どうしの密約によって動かされることが普通であり、「外交がつなに公然と、公衆の目の前で行われなければならない」(ウィルソンの平和原則 第1条)といった原則など、存在しなかった。

 このような変化をもたらす契機となったのは、「総力戦」の登場だ。
 総力戦とは、植民地を含めた全国民生活が、長期にわたる戦争に駆り出されるような戦争形態を指す。
 第一次世界大戦(1914〜1918)は、人類の経験した最初の大掛かりな「総力戦」であり、これを経験した人々に底知れぬ爪痕を残した。

 第一次世界大戦後、二度とこのような被害を生み出すことがないように、国際社会の再編がおこなわれた。

資料 国際連盟規約前文



 たとえば、軍縮や戦争違法化が取り決められた。

資料 パリ不戦条約(1928年8月)より抜粋
締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。



 感染症や人身売買といった国際問題に対する協力や地域協力の試みが導入された。また、ヨーロッパ諸国の文明を問い直す動きや植民地支配・人種主義に反対する運動も盛り上がっていく。

 しかし実際には、こうした取り組みにも限界はあった。

資料 日本がパリ不戦条約に署名するに際しての宣言
帝国政府ハ千九百二十八年八月二十七日巴里パリニ於テ署名セラレタル戦争放棄ニ関スル条約第一条中ノ[其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ]ナル字句ハ帝国憲法ノ条章ヨリテ日本国ニ限リ適用ナキモノト了解スルコトヲ宣言ス
昭和四年六月二十七日
Q. 日本政府はなぜ留保をつけたのだろうか? 

 その20年後には、破局的な被害をもたらした第二次世界大戦が勃発してしまう。


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■植民地の独立

 しかし「大衆」が社会の主人公となっていく過程と並行して引き起こされたこの二つの世界大戦を通して、世界の秩序は様変わりしていくこととなる。
 第一次世界大戦終結直後の世界は、植民地だらけの世界だった。
 しかし、第二次世界大戦後、1960年には、多くの植民地が独立を達成することとなる。


 第一次世界大戦遂行のため、ヨーロッパでは「総力戦」がとられたが、植民地の人々や、各国内で「二級市民」の扱いを受けていた人々も、動員対象の例外ではなかった。
 たとえばフランスの植民地セネガルの人々や、イギリスの植民地であったインドの人々は、ヨーロッパの戦線に動員された。
 また、アメリカ合衆国においても、アフリカ系の人々が、戦線で活躍をした。

 戦後になると、反植民地主義の波が広まり、帝国主義諸国のなかにも、植民地を放棄すべきとの主張もみられるようになった。
 
 たとえば、ジャーナリスト石橋湛山は1921年に次のように論じている。

資料 石橋湛山「一切を棄つるの覚悟」(1921年)
我が国の総ての禍根は、しばしば述ぶるが如く、小欲に囚われていることだ、志の小さいことだ。吾輩は今の世界において独り日本に、欲なかれとは註文せぬ。人汝の右の頬打たば、また他の頬をも廻して、これに向けよとはいわぬ。否、古来の皮相なる観察者によって無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ、大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。さればこそ仏者の「空」は「無」にあらず、無量の性功徳を円満具足するの相を指すなりといわれるるのだ。しかるに我が国民には、その大欲がない。朝鮮や、台湾、支那、満州、またはシベリヤ、樺太等の少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。従って積極的に世界大に、策動するの余裕がない。卑近の例を以ていえば王より飛車を可愛がるへぼ将棋だ。結果は、せっかく逃げ廻った飛車も取らるれば、王も雪隠詰めに会う。いわゆる太平洋および極東会議は、まさにこの状況に我が国の落ちんとする形勢を現したものである。
・・・中略・・・
しかり、何もかも棄てて掛るのだ。これが一番の、而して唯一の道である。しかし今の我が政府や、国民の考え方では、この道は取れそうにもない。その結果はどうなるか、わかっておる。対支借款団交渉の際の満蒙除外運動の結末が、それだ。我が大使は、しきりに、その小欲の目標物を維持しようと努めるだろう。しかし結局は維持し得ない。而して日本は帝国主義だ、我利我利だという悪名だけが残る。満蒙除外運動の結末がそれだった。今度の会議の結末もそれなること明白だ。されば今の我が政府や国民の考え方で進んだのでは、どこまで行っても勝味はない、失敗に失敗を重ねるだけだ。
・・・中略・・・
もし政府と国民に、総てを棄てて掛るの覚悟があるならば、会議そのものは、必ず我に有利に導き得るに相違ない。例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか、また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つを得ぬに至るからである。その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に、日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ立つだろう。これ実に我が国の位地を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の位地に置くものではないか。我が国にして、一たびこの覚悟を以て会議に臨まば、思うに英米は、まあ少し待ってくれと、我が国に懇願するのであろう。ここに即ち「身を棄ててこそ」の面白味がある。遅しといえども、今にしてこの覚悟をすれば、我が国は救わるる。しかも、こがその唯一の道である。しかしながらこの唯一の道は同時に、わが国際的位地をば、従来守勢から一転して攻勢出でしむるの道である。(『東洋経済新報』1921年7月23日号)

 石橋のような主張は、当時は少数派であった。
 当時の日本は、植民地を維持することを前提に、男性普通選挙実施を求める大正デモクラシーに突入していた。
 一方、日本の植民地であった台湾では、1923年に議会を設置してほしいという請願運動が起きている。普通選挙を求める人々の眼中に、植民地の人々の姿はあっただろうか。

資料 台湾議会設置請願理由書(1923年)

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■生活様式の変化と大衆


 政治家が大衆に訴えかける際に強調するようになったのは、「よりよいライフスタイルの実現」だ。
 その模範となったのは、第一次世界大戦を通じて経済大国となった1920年代のアメリカで生まれた生活様式(アメリカ式生活様式)である。大量生産・大量消費を基本とするアメリカ式生活様式は、世界中の人々を虜にした。
 大量生産を可能にしたのは、フォード・システムと呼ばれる生産様式だ。労働者の勤務は科学的な経営理論によって厳密に管理されたが、自動車や家電製品などを消費したいという労働者たちをつなぎとめていたのは、将来的な昇給への期待だった。


 「大衆化」は、人々に「ほかの人々と同じモノを手に入れることが嬉しい」という新しい消費行動を生み出した。伝統的な小売店には、雑多な商品が堆く並べられていることが多いが、20世紀に入ると、小売店の陳列は画一化していくことになった。

 経済が活況を呈した1920年代のアメリカは「黄金の20年代」と呼ばれる。
 アメリカには世界各地から移民が集まり、工場労働者となった。一方、1920年代のアメリカでは、外国人労働者に対する排斥運動も高まった。

 

 アメリカ的な豊かさのアンチテーゼとなったのは、ソ連における社会主義だ。ソ連の経済もまた資本主義社会と全く無縁ではなかったが、アメリカにおける経済的な繁栄とは別の価値観を掲げ、ライバルとしての意識を強めていった。

 実際、第一次世界大戦後のソ連では、一時的に一人あたりGDPが落ち込むが、1928年の第一時五カ年計画以降、戦前以上の水準に向上する。
 このことは、世界の人々にソ連における新しい経済・生活様式への関心を引き起こすことになった。


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■大衆化のゆくえ

 19世紀に始まる「近代化」は、19世紀に固有の現象ではない。その下地の上に、20世紀の「大衆化」が成立した。
 そして、「近代化」と「大衆化」の下地の上に、21世紀の現代世界がある。
 「近代化」と「大衆化」は一過性の現象ではなく、現在でも進行中の現象なのだ。


 「大衆」化と「総力戦」の時代を経て、世界の秩序はどのように変わり、そこに生きる人々の地域社会や生活、それに心のありようはどのように変わっていったのだろうか。
 そういったことを考えることで、現在のわれわれが生きる社会の「現在地」も、いくぶん鮮明に見えてくることになるだろう。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊