新科目「歴史総合」を読む 2. 国際秩序の変化や大衆化と私たち
2-1.国際秩序の変化や大衆化への問い
「近代化」に引き続き、次は「国際秩序の変化」と「大衆化」という視点から、20世紀初頭以降の世界が、どのように変容していったのか、それが現代世界にどのような影響を与えることとなったのか、見ていくことにする。
その前に、まずは「国際秩序の変化」と「大衆化」について、いくつかの資料を見ながら「問い」を立ててみよう。
***
■「大衆」とは何か
これは、18世紀のフランスで人気を博したサロンを描いた図だ。
ジョフラン夫人のサロンに集まる啓蒙思想家たち(シャルル・ガブリエル・ルモニエ作、1812年)
「啓蒙の世紀」と呼ばれた18世紀には、知識人たちがこのようなサロンに集まり、公共に関することが議論された。その中から公論(輿論)が生まれ、やがて専制的な君主政を倒す動きへとつながっていった。新聞や雑誌は下図のようなコーヒーハウスで発行・閲覧され、やはり公共に関する議論が展開された。
1664年のロンドンのコーヒー・ハウス(パブリックドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/コーヒー・ハウス#/media/ファイル:17th_century_coffee_house.jpg)
しかし、19世紀を経て20世紀に入ると、より多くの国民が、マス・メディアを通して公共に関する議論を受け取ったり、街頭に立って集会に参加したりして、みずから情報を発信するようになった。
資料 デモ行進に参加した女性たちの逮捕を報じる新聞(「ザ・デイリー・ミラー」紙、1910年12月19日)
こうした「大衆」は、20世紀初頭の世界各地の社会で、しだいに政治・経済・文化・社会の主人公となっていく。
「大衆」といえるものは、それまでの時代にはなかったものだ。現在においても、ある意味「大衆」の時代が続いているといえる。
しかし、「大衆」とは何かということを定義するのは、じつは難しい。
ましてや「大衆」とよぶべき人々が、社会の中に出現し始めていた頃において、新たに登場した「大衆」が一体何であり、社会にとってプラスであるのかマイナスであるのかということは、多くの人の議論の的になった。
たとえば、スペインの知識人オルテガの議論を読んでみよう。
「大衆」は、第一章で学んだ「近代化」された社会のなかから現れた。
「大衆」は、英語ではmassと訳される。これは「塊」という意味だ。
これはフランス語のmasseから入った言葉である。
オルテガの『大衆の叛逆』の「大衆雨」も、masasというスペイン語だ。フランス語のmasseも、スペイン語のmasasもその語源はラテン語のmassaで、これはギリシア語のmazaに遡る。
これら一連のmass/masse/masasといった言葉は、自然科学の世界では「質量」と訳される。「質量」とは、物質の違いにかかわらず、量のみを指し示す概念だ。「大衆」にも、「質量」と同じようなニュアンスがある。すなわち、個別的な違い、つまり個人の違いにかかわらず、大勢の中に密集する平均的な人の集合をあらわすという点だ。
もともと、ギリシア語のmazaとは大麦ケーキをつくるために、混ぜこねた生地のことをさす。
20世紀初めに出現した「大衆」が社会の主人公となっていく現象について考えるにあたっては、まず「大衆」という西洋の言語に隠された原義を吟味することが必要だ。
ともすれば「大衆酒場」といったような日本語的な意味に引きずられかねない(そもそも「大衆」という言葉自体は仏教用語で「僧侶の集団」を指す言葉だった)。
オルテガの議論に戻ろう。
オルテガは、当時のヨーロッパ社会において、「大衆」が「完全に社会権力の座に登った」と指摘していた。彼にはエリートとしての自己認識があり、社会は一部のエリートによって正しく導かれるべきだという信念があり、それが、「個人の違いにかかわらず、大勢の中に密集する平均的な人の集合」によって、右へ左へ流されてしまうことに対して大きな懸念を抱いているのだ。
では、オルテガがそのような懸念を持つような社会的状況が生まれてしまったのは、なぜだろうか?
「大衆」は、19世紀後半の社会のどのような状況の中から生まれたのだろうか?
***
■マスメディアの革新
大衆社会が成立するためには、大量の情報を一度に伝達する技術が必要だ。
19世紀を通して、それを可能とする技術革新が進んだ。すなわち、大衆媒体(マスメディア)、大衆通信(マスコミュニケーション)の登場である。
このことは、政治的なメッセージの大衆化を進めた。つまり、多数の人々の支持を得ることが、政治家にとって重要な関心事となったのだ。
日本の政治において、大衆の存在感が増したのは、1913年2月の桂太郎内閣の退陣をめぐる大衆行動であろう。
1920年には、第1回メーデーがひらかれ労働者たちが政治的な主張を展開している。
大勢の人が集まり、政治に意見を反映させるために直接行動をとる手法は、同時代の世界に共通してみられた。
20世紀初めにおけるインドでの英貨ボイコット、1910〜1920年代の中国における日貨ボイコットなどが典型例だ。
こうした動きのもつ力に気づいた権力者の側も、積極的に大衆を集めるイベントを催すようになっていく。
大衆に訴えかける政治的な宣伝(プロパガンダ)の手法も、しだいに理論化・精緻化していった。
戦争に巻き込まれるのは嫌だという世論を超えるため、政府は大々的に戦争の正当性を訴える広報が必要となったのだ。こうした行為は、人々の無意識に着目するマーケティングの手法とも結びつき、「プロパガンダ」(元来はキリスト教の宣教を指す言葉だった)と呼ばれるようになった(精神分析学医フロイトが『夢判断』を刊行したのは1900年。広告とマーケティングの関係についてはhttps://www.advertimes.com/20190809/article296905/2/を参照)。
※Google Booksで閲覧可能(上記リンクは第1号)
資料 第一次世界大戦中のカナダのポスター「栄養十分な兵士が戦争に勝利するだろう」
資料 第一次世界大戦中のイギリスのポスター「イギリスの女性は「行け!」と言う」
***
■国際秩序の変化
「大衆」は20世紀において、一国の政治のみならず、外交においても大きな影響力を持つにいたる。
たとえば19世紀までの外交は、一部の支配層どうしの密約によって動かされることが普通であり、「外交がつなに公然と、公衆の目の前で行われなければならない」(ウィルソンの平和原則 第1条)といった原則など、存在しなかった。
このような変化をもたらす契機となったのは、「総力戦」の登場だ。
総力戦とは、植民地を含めた全国民生活が、長期にわたる戦争に駆り出されるような戦争形態を指す。
第一次世界大戦(1914〜1918)は、人類の経験した最初の大掛かりな「総力戦」であり、これを経験した人々に底知れぬ爪痕を残した。
第一次世界大戦後、二度とこのような被害を生み出すことがないように、国際社会の再編がおこなわれた。
資料 国際連盟規約前文
たとえば、軍縮や戦争違法化が取り決められた。
感染症や人身売買といった国際問題に対する協力や地域協力の試みが導入された。また、ヨーロッパ諸国の文明を問い直す動きや植民地支配・人種主義に反対する運動も盛り上がっていく。
しかし実際には、こうした取り組みにも限界はあった。
その20年後には、破局的な被害をもたらした第二次世界大戦が勃発してしまう。
***
■植民地の独立
しかし「大衆」が社会の主人公となっていく過程と並行して引き起こされたこの二つの世界大戦を通して、世界の秩序は様変わりしていくこととなる。
第一次世界大戦終結直後の世界は、植民地だらけの世界だった。
しかし、第二次世界大戦後、1960年には、多くの植民地が独立を達成することとなる。
第一次世界大戦遂行のため、ヨーロッパでは「総力戦」がとられたが、植民地の人々や、各国内で「二級市民」の扱いを受けていた人々も、動員対象の例外ではなかった。
たとえばフランスの植民地セネガルの人々や、イギリスの植民地であったインドの人々は、ヨーロッパの戦線に動員された。
また、アメリカ合衆国においても、アフリカ系の人々が、戦線で活躍をした。
戦後になると、反植民地主義の波が広まり、帝国主義諸国のなかにも、植民地を放棄すべきとの主張もみられるようになった。
たとえば、ジャーナリスト石橋湛山は1921年に次のように論じている。
石橋のような主張は、当時は少数派であった。
当時の日本は、植民地を維持することを前提に、男性普通選挙実施を求める大正デモクラシーに突入していた。
一方、日本の植民地であった台湾では、1923年に議会を設置してほしいという請願運動が起きている。普通選挙を求める人々の眼中に、植民地の人々の姿はあっただろうか。
資料 台湾議会設置請願理由書(1923年)
***
■生活様式の変化と大衆
政治家が大衆に訴えかける際に強調するようになったのは、「よりよいライフスタイルの実現」だ。
その模範となったのは、第一次世界大戦を通じて経済大国となった1920年代のアメリカで生まれた生活様式(アメリカ式生活様式)である。大量生産・大量消費を基本とするアメリカ式生活様式は、世界中の人々を虜にした。
大量生産を可能にしたのは、フォード・システムと呼ばれる生産様式だ。労働者の勤務は科学的な経営理論によって厳密に管理されたが、自動車や家電製品などを消費したいという労働者たちをつなぎとめていたのは、将来的な昇給への期待だった。
「大衆化」は、人々に「ほかの人々と同じモノを手に入れることが嬉しい」という新しい消費行動を生み出した。伝統的な小売店には、雑多な商品が堆く並べられていることが多いが、20世紀に入ると、小売店の陳列は画一化していくことになった。
経済が活況を呈した1920年代のアメリカは「黄金の20年代」と呼ばれる。
アメリカには世界各地から移民が集まり、工場労働者となった。一方、1920年代のアメリカでは、外国人労働者に対する排斥運動も高まった。
アメリカ的な豊かさのアンチテーゼとなったのは、ソ連における社会主義だ。ソ連の経済もまた資本主義社会と全く無縁ではなかったが、アメリカにおける経済的な繁栄とは別の価値観を掲げ、ライバルとしての意識を強めていった。
実際、第一次世界大戦後のソ連では、一時的に一人あたりGDPが落ち込むが、1928年の第一時五カ年計画以降、戦前以上の水準に向上する。
このことは、世界の人々にソ連における新しい経済・生活様式への関心を引き起こすことになった。
***
■大衆化のゆくえ
19世紀に始まる「近代化」は、19世紀に固有の現象ではない。その下地の上に、20世紀の「大衆化」が成立した。
そして、「近代化」と「大衆化」の下地の上に、21世紀の現代世界がある。
「近代化」と「大衆化」は一過性の現象ではなく、現在でも進行中の現象なのだ。
「大衆」化と「総力戦」の時代を経て、世界の秩序はどのように変わり、そこに生きる人々の地域社会や生活、それに心のありようはどのように変わっていったのだろうか。
そういったことを考えることで、現在のわれわれが生きる社会の「現在地」も、いくぶん鮮明に見えてくることになるだろう。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊