見出し画像

9.1.4 ルイ14世の時代 世界史の教科書を最初から最後まで

フランス王国では1661年の宰相マザランの死後、国王ルイ14世(在位1643〜1715年)がいよいよ直接支配をスタート。

画像2



ブレーンには、国王の権力はキリスト教の神から授かったとするボシュエ(1627〜1704年)が起用された。

画像1

史料 ボシュエ『聖書の言葉にもとづく政治論』(1709年)
神は国王を自らの代理人とし、国王を介して民を統治する。すでに見たように、すべての力は神に由来する。…こうして、君主は神の代理人として、地上における神の副官として行動する。

歴史学研究会編『世界史史料5』


強大な権力をにぎったとはいえ、ローマ=カトリックの聖職者や貴族たちを完全におさえ込んだとは言いがたい。

だからこそ、「王権神授説」を理論化し、さまざまなモニュメントや儀式を発達させていく必要があった。


ルイ14世の日課 つねにさまざまな人に「見られている」ことが重要だ。
出典:二宮素子『宮廷文化と民衆文化』山川出版社、1999年、53頁




彼にとって国は国王と一心同体。「(私)は国家なり」と言ったとされる。

画像3

まるで神様一族のような ルイ14世の家族の肖像画



また、国主導の経済政策も重視。
財務総監のコルベールを中心に、商工業を振興させていく。

画像4




画像5

そして、王国の“支配のシンボル” として首都パリ郊外にヴェルサイユ宮殿が造営されていく。
貴族やアーティストの集る宮殿における生活は、朝起きて服を着る儀式から外出する儀式など、細部に至るまで「儀式」化され、国王の権威は最高レベルにまで高められた。

そのスケールの大きさは、今なお圧巻だ。


さらに王は、治安・交通・衛生などに関わる諸問題に積極的に取り組んだ。

しかしそんな国王といえども、教会、貴族や都市を完全にコントロールするのはまだまだ難しく、フランス王国のすみずみまでがっちりコントロールしていたというわけではない。



ただ、その国力を高めるため、周辺諸国との外交と戦争には積極的。

たとえば、1659年にハプスブルク家が治めていたスペイン王国ピレネー条約を結び、王女マリ=テレーズを后(きさき)に迎え、スペインの後継ぎがいなくなったらスペイン王国の王位をねらう戦略を実行している。

画像6

結婚式



一方、当時のヨーロッパ最強の陸軍を整備。

ルイ14世がとくにこだわったのは、商工業の発達したネーデルラント(現在のベルギー、ルクセンブルクとオランダ周辺)への進出だ。




スペインの支配していた南ネーデルラントの後継ぎをめぐる戦争(南ネーデルラント継承戦争、1667〜68年)や、ネーデルラント北部でスペインから独立していたネーデルラント連邦共和国への侵略戦争(オランダ戦争、1672〜78年)など、次々に戦争を起こす。

画像7

ルイ14世は結果として、カンブレーなど南ネーデルラントの一部を獲得するにとどまった。

たび重なるフランスからの攻撃に対し立ち上がったのは、ネーデルラント連邦共和国の総督ウィレム3世だ。
彼は「後ろ盾としてイギリス王国との提携が必要だ」と判断し、3度にわたって英蘭戦争(イングランド=ネーデルラント戦争)を起こしてきたプランを180度転換。イングランド王国に接近する。


1688〜97年にルイ14世がドイツのファルツ選帝侯の後継をめぐる戦争(ファルツ戦争)を起こすと、イングランド王国が周辺諸国に包囲網(アウクスブルク同盟)を築き上げてブロックする。

ネーデルラント連邦共和国の総督であるウィレム3世が、妻のメアリとともにイングランド国王ウィリアム3世として即位したのには、こうした“舞台裏”があったんだよ。


そういうわけで、ルイ14世は結局、大々的な領土拡張をすることができなかったわけだ。

画像9

ルイ14世が獲得した領土はこんなもん



そんな中、さきほどのスペイン王女との結婚が生きてくる。

1700年にスペイン王国を継ぐことのできるハプスブルク家の一族がいなくなってしまったのだ(スペイン=ハプスブルク家の断絶)。



ルイ14世は「」マリ=テレーズ(スペイン王フェリペ4世の娘)の孫フィリップを、スペイン王フェリペ5世(在位1700〜24、24〜46)として即位させることに。

画像10


これに対し、オーストリアを本拠地とするハプスブルク家は猛反発。

イングランド、ネーデルラント連邦共和国はオーストリアのハプスブルク家をサポートして、フランス王国・スペイン王国と戦うこととなった。
これをスペイン継承戦争(1701〜1713年)という。

画像11



結局ユトレヒト条約(1713年)により、スペイン王国とフランス王国はこの先絶対に合併してはいけないという条件付きで、ブルボン家がスペイン王位を継ぐことが認められた。

しかし、その代償にイギリスはスペイン王国から地中海西部の物流ルートの拠点であるジブラルタルと、

画像19


ミノルカ島を獲得(地中海の重要ポイントであるミノルカ島はその後、フランス→イギリス→スペインと争奪が繰り返えされ、現在はスペイン🇪🇸の領土)。

画像18
画像17



さらにイギリスはフランス王国からも、


北アメリカのニューファンドランド

画像15
画像16



アカディア(現在のカナダ🇨🇦とアメリカ合衆国🇺🇸)、

画像14


ハドソン湾地方(現在のカナダ🇨🇦)を獲得。



「こんなところ取ってどうするんだ?」と思うかもしれないけど、当時のヨーロッパ諸国では、北アメリカの寒い地域で暮らすビーバーの毛皮製品が「高級品」として高値で取引されていたんだ。



また、北大西洋はタラなどの漁場としても魅力的。

先に進出していたフランス人たちや、先住民である「インディアン」の諸民族との争いは、その後も続いていくよ。


海外植民地をめぐるイギリスとの戦いという面で見れば、フランス王国は”大負け“ということになる。


また、一般の国民も贅沢な王宮の暮らしや多額の戦費調達に苦しみ、商工業もなかなか発展しない。

撃ち続く戦争の中で1685年にルイ14世は、商工業者に支持されていたカルヴァン派の信仰を認めるナントの王令を廃止したものだから、フランスのカルヴァン派はネーデルラント連邦共和国やイングランド王国などに大量に亡命することとなった。
これがまたフランスの商工業の発展を阻むことになった。


《カルヴァンとマホメットにたいする教会の勝利》
最上段の中央には「ローマ教会」が描かれ、周囲に「信仰」「助言」「知恵(ソロモンの智書)」「愛」などがみえる。下方左は「イスラム教」、下方右は「カルヴァン派」への攻撃。
(出典:佐々木真『図説 ルイ14世』河出書房新社、2018年、121頁)



その後、1715年にはルイ14世のひ孫ルイ15世(在位1715〜1774年)が国王に即位する。

画像12


ルイ15世の下では、フランスの海外貿易は急増。
しかし、国内の商工業者たちとの一体感は、イギリスに比べて弱いままだ。

政治的なリーダーシップに欠けるルイ15世の統治の下、フランスは海外植民地をめぐる戦いで決定的な失点を重ねていくこととなるよ。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊