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15.1.5 南アジア・西アジアの独立①南アジア 世界史の教科書を最初から最後まで

まずは南アジアの独立の動きから見ていこう。

イギリスは,第二次世界大戦前はインドに対して債権国だったのだが,戦後は一点して債務国に転落。


1946年頃から領域内のさまざまな支配者同士の内戦に発展し,混乱をきわめる中,一刻も早い幕引きを狙うようになった。


最後の総督〈マウントバッテン〉(1900~79)は,「イスラーム教徒とヒンドゥー教の住民の分布によって,インドを分割すればいいじゃないか」と提案。パンジャーブ地方とベンガル地方はそれに基づき分割された。


イスラーム教徒の多いエリアは「パキスタン」に


結局,イスラーム教徒が多数派の地域は,1947年8月15日に,パキスタンとして独立した。パキスタンからインド方面には,ヒンドゥー教徒やシク教徒が難民として退去して移住。
その過程で,略奪や武力衝突が起き,インド最北部のカシミールの帰属を巡って10月には印パ戦争に発展していくことになる。

パキスタンの初代大統領には全インド=ムスリム連盟の指導者〈ジンナー〉(任1947~1948) が就任。


パキスタンの公用語は,英語とウルドゥー語となった。


独立時点ではまだイギリス連邦(ドミニオン。世界各地にイギリスの勢力圏に残すため,旧植民地を寄せ集めたグループのことです)内の自治領に過ぎなかった。

その後,独立の1年後に〈ジンナー〉は病死する。

ちなみにパキスタンという国名は,パンジャーブのP,北部に住むアフガーン人のA,カシミールのK,シンドのS,バローチスターンのTANといわれており,まさに人口的につくられたイスラーム教徒の国といってよいだろう。
パークは「(イスラーム教徒だけの)清浄な」という意味で,スタンはペルシア語で「~が多いところ」という接尾語だ。 



セイロン(現スリランカ)は独立するも、混乱へ


イギリスの植民地だったセイロンは,1948年にイギリス連邦内の自治領として独立しました。
多数派で上座仏教を信仰するシンハラ人を優遇する政策がとられ,1949年には主にヒンドゥー教徒であるタミル人が選挙権を失う。

イギリスの植民地時代に,おもに茶の大農園での働き手として,インド南部のタミル語を話すタミル人が移住していたことが,その後のセイロンにとって大きな“後遺症”を残すことになるんだ。


独立インドはインド国民会議派が主導した



インドは,1947年8月15日にインド帝国から,イスラーム教徒の多いパキスタンと分離する形で,独立した。

最後の総督は〈マウントバッテン〉で,イギリスの〈アトリー〉内閣のときの決定だった。


インド初代首相は〈ネルー〉だ。

インド帝国時代に存続を許されていた560余りの藩王国・保護国(下のインド帝国(植民地インド)の地図中の、黄色い部分)は,インドとパキスタンにそれぞれ併合。

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イスラーム教の藩王国だったハイダラーバードは,インドが1958年に武力併合されたが,カシミールの対応が問題となった。

ハイダラーバードをめぐる問題についてはこちらが詳しい


藩王はヒンドゥー教徒だったのでインドが併合しようとしましたが,住民の4分の3がムスリムだったので,1947年10月から第一次インド=パキスタン戦争に発展。

イスラーム教徒が多い地域がパキスタンとして新たに国境が設定されたため,パキスタンのヒンドゥー教徒はインドへ,インドのイスラーム教徒はパキスタンへ移住を開始。
この数百万の大移動の混乱のさなか,各地で衝突が起こり,難民を満載した列車(難民列車)も現れた。


こうした中,〈ガンディー〉は最期までイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和のシンボル的存在となっていく。
しかし、1948年に暴力的なヒンドゥー教徒によって暗殺され,生涯を閉じた。「マハトマ」(偉大なる魂)と称せられ,インドで国葬にされた。


ガンディーと違って世俗主義(宗教から距離をとる考え方)をとった〈ネルー〉首相は,大混乱に陥った独立直後のインドをまとめるには「反英」でも「非暴力」でもなく,宗教にとらわれない「政教分離主義(セキュラリズム)」が必要だと考えた。

そして,1951年からは第一次五カ年計画を開始し,社会主義型の計画経済を進め,鉄鋼を中心とする重工業の発展を目指した。

しかし,農業や綿工業の近代化には着手が遅れ,地主制(ザミンダーリー)の廃止も州の担当とされたため進展しなかった。


1951年~52年には第一回総選挙が行われ,インド国民会議派が圧倒的多数で勝利。

インドは中央政府の下に,言語を基礎にした14の州(当時)が置かれることになった。

例えば,南西部のケーララ州はマラヤーラム語,マドラス州(のちのタミル=ナードゥ州)はタミル語というようにだ。

)広大な領域を「中国語」「中国文化」という形で統一させていった中国とは違って、インドは各地(特に南と北)の差が強く残っているところが特徴。
中国が「統一の中の多様性」とすれば、インドは「多様性の統一」といったところだろうか。


インド憲法は1949年に成立(1950年発布)された。
起草委員会の議長が,不可触賤民出身の〈アンベードカル〉であることからもわかるように,独立後のインドでは不可触賤民が「指定カースト」と呼ばれ,地位の向上(留保措置(リザーベーション))が図られた。

インドは共和国であると宣言し,イギリス連邦に属しながらもイギリス国王への忠誠義務は負わないとされた。
また,下院の多数が首相を選出し,形式上の元首として大統領を置く議院内閣制がとられ,普通選挙制の導入にともないインドは巨大な有権者を抱える民主主義国家となったのだ。

ただし,立ちはだかるいちばんの問題は「貧困」。
1948年以降,インドのコルカタ(カルカッタ)で貧しい人々,ハンセン病患者,不治の病を抱えた人々(“死を待つ人々”),孤児への支援活動(1950年に「神の愛の宣教者会」を設立)をおこなったのが,あの有名な旧ユーゴスラヴィア生まれのカトリック修道女〈マザー=テレサ〉(1910~97)だ(1979年にノーベル平和賞を受賞)。


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