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12.1.4 イラン・アフガニスタンの動向 世界史の教科書を最初から最後まで

18世紀のイラン高原からアフガニスタン地方にかけてのエリアでは、トルコ系を中心とする遊牧民グループが、激しく勢力を争っていた。


イラン高原

トルコ系のアフシャール朝(1736〜1802年)のように、イラン高原からアフガニスタン地方、さらに一時は北インド(ムガル帝国の都デリーを占領している)にかけての広範囲を占領する国家も現れている。


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ヨーロッパ人によって“イランのナポレオン”ともいわれるナーディル=シャー




そんな中、サファヴィー朝滅亡後のイラン高原の実権を握ったのは、18世紀末にテヘランを首都とするカージャール朝(1796〜1925年)だ。





しかしカージャール朝はカフカス地方をめぐるロシア帝国との戦いに敗れた上、1828年トルコマンチャーイ条約という不平等な内容の条約に調印する羽目になった。



これによってカージャール朝は、ロシア帝国に治外法権(ちがいほうけん)を認め、関税自主権を失ったうえに、

アゼルバイジャンの北部と

アルメニアを割譲することになった。


こうした混乱を背景に、イラン高原の人々の生活は困窮。
対応できないカージャール朝政府への不満が高まった。
そんな中、シーア派の一派を信仰していたサイイド=アリー=ムハンマドという人物が、「そろそろイマーム(シーア派で信じられている、第4代アリーの子孫で、救世主として人々を助けに姿を見せると考えられていた)が現れる時がやってきた。私には、それがわかる(自分は隠れているイマーム(隠れイマーム)と交信できる「門」(バーブ)だと主張)」という教えを広め、農民や商人、職人の信仰を集めるようになっていた。

1848年、彼は「『コーラン』ではなく、自分の預言を教義にする」と発表。本格的にカージャール朝を倒すための戦いを開始した。
しかし大規模な反乱の結果、まもなく政府軍によって鎮圧されてしまった。これをバーブ教徒の乱という(イスラーム教とは独立した宗教として扱うので「バーブ教」というのだ)。



アフガニスタン地方


一方、イランの東部にあるアフガニスタン地方は、山がちで乾燥した土地に、いくつもの遊牧民グループがひしめくエリア。

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ここでは18世紀半ば以降、パシュトゥーン人


の有力グループによって建てられたアフガン王国が独立を保っていた。



しかし、19世紀にはいると北部の領有権を主張して、カージャール朝が侵攻。

混乱に乗じてロシア帝国が、すでに進出していた中央アジアを経由してアフガニスタン地方に進出してくることをおそれるイギリスはこれに介入。
アフガニスタンのイランのカージャール朝からの独立を認めさせた。




別にアフガン王国のためを思ってのことではない。
ヴィクトリア女王時代(1837〜1901年)のイギリスは、インド周辺部を盤石(ばんじゃく)にすることで頭がいっぱいだったのだ。


その後もロシアに対抗しながらインドでの権益をまもろうとするイギリスは、2度にわたってアフガニスタンに侵攻。
これをアフガン戦争(第一次1838〜42、第二次1878〜80年)という。

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第一次アフガン戦争でイギリス軍は全滅

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第二次アフガン戦争ではイギリス軍が勝利


イギリスはアフガン王国内部の部族間の争いをたくみに利用し、イギリスの保護国となることを条件に、自分に都合のよい人物をアフガン王国の国王(アミール)に据えた。

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こうしてイギリスはアフガン王国の外交権を確保することに成功。

さらに後に、イギリス領インドとの境界を確定させた。

このときの境界が、現在のアフガニスタンとパキスタンの国境線のルーツだ。
これによりパシュトゥーン人の居住エリアは、アフガニスタンとパキスタンとの間に二分。


現・パキスタン側のパシュトゥーン人


実際の地元民の分布エリアを無視したものだったことから、今なおアフガニスタンとパキスタン周辺は、不安定な地域が多いのだ。


ジョン・テニエル(ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の挿絵で有名)の風刺画《友人たちから俺を救ってくれ!》(1878年)

「鋭い睨みを利かせるライオンの英国と、媚びてすり寄るような熊のロシアとのあいだで身動きが取れなくなっているのはアフガン兵である。実際、第二次アフガン戦争(1878〜81年)において、ロシアを警戒するイギリスは先手を打って、アフガニスタンを強引に保護国にしたのだった。」(岡田温司『反戦と西洋美術』ちくま新書、2023年、42-43ページ」





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