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新科目「歴史総合」をよむ 3-1-1. 冷戦下の地域紛争と第三勢力

■冷戦下の対立と共存


 米ソの間の冷戦は、1950年半ばにかけて激化した。
 ソ連とアメリカ合衆国は、たがいに競って世界中に軍事同盟網を築き、ソ連の拡大を防ごうとしていった。




 ・1949年 北大西洋条約機構(NATO)
 ・1951年 日米安全保障条約
 ・1951〜85年 太平洋安全保障条約(ANZUS)
 ・1951年 米比相互防衛条約
 ・1953年 米韓相互防衛条約
 ・1954〜79年 米華相互援助条約
 ・1955年 東南アジア条約機構(SEATO)
 ・1955年 バグダード条約機構(METO)
 
 ・1950〜80年 中ソ友好同盟相互援助条約
 ・1955年 ワルシャワ条約機構(WTO)
 ・1961年 ソ連・北朝鮮友好協力相互援助条約
 ・1961年 中国・北朝鮮友好協力相互援助条約


朝鮮半島の分断

 1948年に朝鮮半島の北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、南部では大韓民国(韓国)がそれぞれ建国宣言され、朝鮮半島では2つの国家によって分断される状況がうまれた。ソ連とアメリカが双方をそれぞれ支援する中、1950年には北朝鮮が韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発し、東アジアに緊張が走った。

資料 朝鮮民主主義人民共和国政綱(1948年9月10日)
第一項「南北朝鮮人民の総意による樹立された中央政府は全朝鮮人民を政府の周囲にしっかりと団結させ、もって統一された民主主義自主独立国家を急速に建設するために全力をつくすのであり、国土完整と祖国統一を保障する最も切迫した条件として両軍同時撤退に関するソ連政府の提案を実践させるために全力をつくすつもりである。」(和田春樹『北朝鮮現代史』岩波新書、2012年、48頁)

 

資料 「マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の原則をいっそう忠実に守ろう」(1949年12月15日)『金日成著作集 第1巻』未來社
「第三に、米英帝国主義者の侵略政策は、西ヨーロッパ諸国を政治的、経済的に従属させ、これら諸国を自己の侵略目的に利用しようとするいわゆる「マーシャル・プラン」にもはっきりとあらわれています。アメリカの独占資本家たちは、「マーシャル・プラン」にふくまれている国ぐにの経済を自己に従属させ、これらの国の市場に自己の余剰商品を氾濫させることによって、その国の民族経済を破綻させています。「マーシャル・プラン」は、他国を政治的、経済的に従属させ、これらの国の民族的独立と自由をふみにじるためのアメリカ帝国主義者の侵略の道具であります。

資料 金日成より、シトゥイコフ大使と大使館参事官らに対して(1950年1月17日)
「パルチザンはことを決しえない。南部の人民はわれわれがよい軍隊をもっていることを知っている。最近南部の人民の解放と統一の問題をどのように解決するかを考えて、夜も眠れない。もしも朝鮮南部の人民の解放と国土統一の事業が引き延ばされるならば、私は朝鮮人民の信頼を失ってしまう……モスクワを訪問したさい、スターリン同志は、南を攻撃してはならないが、李承晩の軍隊が国の北部を攻撃した場合には、朝鮮南部への反攻に移行してよいと言われた。しかし、李承晩は今日まで攻撃して来ず、国の南部の人民の解放と国土統一は引き延ばされている。だから、自分はあらためてスターリン同志のもとを訪問し、南朝鮮人民解放を目的とする人民軍の攻撃行動の支持と許可をえることが必要だと考えている。」
(和田春樹『北朝鮮現代史』岩波新書、2012年、53頁。強調は筆者)

 

資料 李承晩より、アメリカ人の元秘書ロバート・オリヴァー(1949年9月30日)
「私は、われわれが攻撃的方策をとり、われわれに忠実な北の共産軍と合流し、平壌にいるそれ以外の共産軍を一掃するのに、今が心理的な絶好機だということを痛切に感じます。」

(出典:和田春樹『北朝鮮現代史』岩波新書、2012年、53頁)

 

資料 オリヴァーから李承晩への回答(1949年9月30日)
「そのような攻撃、あるいは攻撃を語ることですら、米国の官と公の支持を失うことになる。……起こることへの非難がロシア人にふりかかる」ようにすべきだ。

(出典:和田春樹『北朝鮮現代史』岩波新書、2012年、53頁)

 

 資料 スターリンよりシトゥイコフへの電報(1950年1月30日)
「私は同志金日成の不満を理解する。しかし、彼が企てたがっている南朝鮮に対するこういう大きな事業は大きな準備を必要とする。あまりに大きなリスクがないように、ことを組織しなければならない。彼がこの件で私と話したいのなら、私はいつでも彼と会い、話し合う用意がある。以上をすべて金日成に伝え、私はこの件で彼を援助する用意があるといってほしい。

(出典:和田春樹『北朝鮮現代史』岩波新書、2012年、54頁)

 

資料 李承晩よりアメリカ大使ムチオ(1950年6月25日)
「自分は朝鮮を第二のサラエヴォにすることを回避しようと努力してきた。しかし、あるいは、現在の危機は朝鮮問題の一挙、全面解決のための最善の機会を与えているのかもしれない。……米国の世論が共産主義の侵略に対して日増しに強くなっている。」

…開戦は、朝鮮を「第二のサラエヴォ」にし、局地戦争を米国をまきこむ世界戦争とする。そうすることによって、韓国軍は米軍とともに北進統一をなしとげることができる。だからこそ、これは「朝鮮問題の一挙解決のための最善の機会」となるのだというのである。

(出典:和田春樹『北朝鮮現代史』岩波新書、2012年、64頁)


「雪どけ」


 一方、1950年なかばには、緊張緩和の動きもみられた。これを「雪どけ」という。
 そのきっかけを生み出したのは、1953年にソ連の指導者スターリンが死去したことにある。ソ連は外交政策をあらため、1955年7月に、米ソ英仏の首脳によるジュネーヴ四巨頭会談が実現した。
 ソ連内部では権力闘争の末、フルシチョフが第一書記となった。彼は1956年2月に「スターリン批判」演説をおこなうとともに、西側諸国との平和共存路線をかかげ、コミンフォルムを解散した。


 1956年には日本と日ソ共同宣言を調印し,日ソの国交も回復した。

 ソ連の外交政策見直しを受け、東欧などの社会主義圏ではソ連からの自由や自立をのぞむ動きが生まれた。

資料 「思想活動において教条主義と形式主義を一掃し主体チュチェを確立するために」(1955年12月28日)『金日成著作集 第1巻』未來社
「アメリカ帝国主義者に反対するわが人民の闘争が、国際緊張をやわらげるためのソ連人民の努力〔雪どけを踏まえて〕と矛盾すると考えるのは、このうえもなく愚かなことであります。わが人民が朝鮮にたいするアメリカ帝国主義者の侵略政策を糾弾し、それに反対してたたかうのは、国際緊張をやわらげ、平和を守るための世界各国人民のたたかいと矛盾しないばかりでなく、それに寄与するものです。……主体を確立しなければならないといえば、あるいは、単純に考えて外国から学ぶ必要がないと、誤った考え方をする同志がいるかもしれないが、けっしてそうではありません。われわれは、すべての社会主義諸国のりっぱな経験を学ばなければなりません。……ごはんを食べるのに、右手で食べようが、左手で食べようが、あるいは、さじでたべようが、はしでたべようがかまうことはありません。どういうふうにたべようが、口にはいるのは同じではないでしょうか? ……ある人たちはソ連式がよいとか中国式がよいとかいうけれども、いまやわれわれの式をつくる時がきたのではないでしょうか?」(上掲、194-195頁)


 ハンガリーでは1956年に反ソ暴動に発展して政権が倒れ、ナジ・イムレ(任1953〜55、56)が首相となった。ナジはワルシャワ条約機構からの脱退を表明すると、ソ連は軍事介入し、ナジ政権を転覆し暴動を鎮圧した。ハンガリーには親ソ派のカダルが首相につけられた(ハンガリー事件)。
 ハンガリー事件をめぐっては、日本国内の革新系政党の間でも評価が分かれ、ソ連を擁護した社会党や日本共産党から「新左翼」が分岐する契機ともなった。


 このような混乱があったものの、1957年のスプートニク1号の成功など軍事面での優位を背景にして、1959年にソ連のフルシチョフは訪米し、アイゼンハワー大統領(任1953〜61)と首脳会談した。
 しかし1960年にアメリカの偵察機U2機がソ連領空で撃墜された事件をきっかけに米ソ関係はふたたび冷却し、1961年には東ドイツでベルリンの壁が構築されるなど、東西冷戦は再び緊張した。




■第三勢力(第三世界)の動き


 「雪どけ」の時期には、植民地から早期に独立したアジア・アフリカ諸国を中心に、独立後も旧植民地に対する政治的・経済的支配を維持しようとする東西両陣営を牽制する、第三極の動きが生まれた。
 まず1954年、中国の周恩来首相とインドのネルー首相は平和五原則を発表。


 1955年には、日本をふくむ29か国が参加して、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、平和十原則が採択された。


資料 インドネシア スカルノ大統領の演説
「多くの世代にわたって、私たちの人民は世界のなかで発言力を奪われてきました。私たちは無 視されました。他所の人々が自分の利益を最優先させて、私たちの人民にかかわる決定を下して きたのです。人民は貧困と屈辱のなかで生きてきました。そこで私たちの諸民族は独立を要求し、 それどころか独立のために戦い、そして独立を達成しました。独立とともに責任が生まれました。私 たちは私たち自身に対して、そして世界に対して、そしてまだ生まれていない世代に対して、重い 責任を負っています。しかし、私たちはそのことを後悔してはいません。(スカルノ大統領によるバ ンドン会議開会演説の一節)。

(出典:峯陽一『2100 年の世界地図 アフラシアの時代』岩波新書、2019 年、136 頁より重引(Kweku Ampiah, The Political and Moral Imperatives of the Bandung Conference of 1955: The Reactions of the US, UK and Japan, Global Oriental, 2007, p.234))

 


 1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)、1960年の「アフリカの年」をはさんで、1961年にはネルー、ユーゴスラヴィアのティトー、エジプトのナセル大統領が主導する形で、第1回非同盟諸国首脳会議がユーゴスラヴィアで開催された(ユーゴスラヴィアは、当初は東側陣営であったが、独自の社会主義路線を歩んでいた)。



資料 第1回非同盟諸国首脳会議宣言(1961年)

資料 ベオグラード宣言(1961年)




 このように、新興独立諸国は第三勢力(第三世界)という独自の勢力を築き、国際社会での発言権を高めていった。

 米ソ両国は、軍事援助や経済援助を積極的におこなうことで、第三勢力の資源や市場を勢力圏に組み込もうとしていったため、1960年代半ば頃には、第三勢力(第三世界)としての結束は失われていくこととなった。

 ただし、これらの諸国が、米ソに対して受け身の立場にとどまり一方的に翻弄されたわけではない。たとえばインドは、旧宗主国のイギリス、ソ連、アメリカなどの開発援助を主体的に選択することで、経済開発を進めていった。



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