15.1.1 戦後世界秩序の形成と米ソ冷戦の始まり② 世界史の教科書を最初から最後まで
1945年8月30日に,連合国軍最高司令官〈マッカーサー〉(1880~1964) が来日し,9月2日に東京湾上のミズーリ号上で降伏文書が調印された。
署名したのは日本政府・天皇の代表である外相〈重光葵〉(しげみつまもる,1887~1957)と,大本営の代表である参謀総長〈梅津美治郎〉(うめづよしじろう,1882~1949)だ。
連合国の代表として〈マッカーサー〉が,さらにアメリカ,イギリス,中国,ソ連,フランス,オランダ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドも署名。
降伏した相手は,ポツダム宣言を発したアメリカ,イギリス,中華民国,ソ連だった。
この中で日本は,天皇と日本政府の主権を,連合国軍最高司令部のもとに置くことを約束。こうして,日本本土はアメリカ軍の間接占領下に置かれ,沖縄などの南西諸島は直接軍政下に置かれることになるよ。
こうして始まった戦後改革では,1946年農地改革法,1947年には主権在民(国民主権)を定めた日本国憲法の施行など,日本が戦前の軍国主義的な国家ではなくなるよう,様々な制度が作られた。
これはちょうど、約80年前の南北戦争(1861〜1865年)で負けた南部を、北部が作り替えたのとよく似ている。
また,戦争犯罪者に対して一審制の極東軍事裁判所(いわゆる“東京裁判”)が実施され,連合国に「戦争犯罪人」として指定された日本指導者28人が,平和に対する罪(A級犯罪),人道に対する罪(C級犯罪),通常の戦争犯罪(B級犯罪)について判決を出された。
平和に対する罪と人道に関する罪は大戦中に規定されていなかった犯罪であり,「ある行為を後から制定された罪で裁いてはならない」という法の不遡及(ふそきゅう)原則に反している点は、当時から議論になった。
なお,ナチス=ドイツの指導者に対するニュルンベルク国際軍事裁判所で適用されたC級犯罪は、極東軍事裁判での適用はなかった。
冷戦がはじまった
そんな中,アメリカ合衆国とソ連の対立が,にわかに激しくなっていく。
1947年3月には,トルーマン大統領が,ドイツが去った後に左右の間で内戦状態にあったギリシアと,海峡問題でソ連ともめていたトルコを軍事援助。
「ソ連の勢力が広がらないように封じ込めよう!」という政策(トルーマン=ドクトリン。またの名を封じ込め政策)を提唱した。
1947年6月には、マーシャル国務長官(1880〜1959年)が,ヨーロッパを大々的に援助する復興プランを発表(マーシャル=プラン)。ソ連の誘いに乗らせないようにするための戦略だ。
地図中の色付きの国が,援助を受け入れ
しかし、ソ連と東ヨーロッパはマーシャル=プランを拒否(そもそも拒否できないような条件だった)。
1947年9月には,ソ連と東ヨーロッパの共産党の「情報交換機関」(ようするに、国家機密情報を共有するための機関)を設置した。これを共産党情報局(コミンフォルン)という。
1943年に解散したコミンテルンとは別物だよ。
こうしてアメリカ合衆国とソ連の対立は深まるばかり。
しかし,当時の世界で核爆弾の保有国はアメリカ合衆国のみ。
第二次世界大戦で大量の戦死者を出したソ連は,アメリカ合衆国と正面切って戦う余裕も実力もなかったので,実際の戦闘にはいたらない。
仲が悪いってみんなが知ってるのに,面と向かっては争わない。
この状況は「冷戦」(れいせん)と呼ばれるようになるよ。
イギリスとフランス
大戦で多大なる被害を受けたイギリスとフランス。
イギリスでは、1945年7月の選挙で労働党が圧勝しており、戦争を指導してきたチャーチルにかわり労働党のアトリー(在任1945〜51年)が首相になっている。
アトリーの下で、イギリスは重要な産業を国有化し、「ゆりかごから墓場まで」(生まれてから亡くなるまで)とよばれる手厚い社会福祉制度を充実させた。
さらに、1947年にインドを独立させ、
1949年にアイルランドをイギリス連邦から離脱を認めるなど、重荷となっていた植民地や連邦のメンバーを手放しはじめていった。
今後「脱植民地化」が、じわじわとはじまっていくことになる。
また,フランスは,1946年10月に新たな憲法ができ,第四共和政(1946〜58)が発足している。議会のほうが大統領よりも権限が強く,短命な政権が続いた。
そんな政治状況に批判的なド=ゴールは,ドイツへの抵抗(レジスタンス)を指揮した功績と人気があるにも関わらず,政治の表舞台に乗ろうとはせず,独自の政治団体を結成している。
大統領には社会党の政治家が就任。
さらに第二次世界大戦のときにドイツに対する抵抗運動で重要な役割を果たした共産党が,フランスとイタリアで勢力を伸ばしていた。
一方,フランスの植民地は,この時期にはまだ独立には至っていない。
日本が再軍備される
1950年に朝鮮戦争が起きると,日本を後方支援のための国家にするため,再軍備に向けた占領政策が転換された。
同時に日本は,第一次世界大戦中の大戦景気と同じく「朝鮮特需」となり,経済復興の足がかりを得ました。
1951年に,アメリカ合衆国のサンフランシスコで対日講和会議が開かれサンフランシスコ平和条約が締結され,翌年の発効により日本は主権を回復した。
しかし,ソ連はこれに調印せず,中華人民共和国と台湾政府は会議に参加しなかった。
1952年に日本は台湾政府と日華平和条約を結んだため,中華人民共和国と敵対する関係に入った。
また,ソ連との国交樹立も,先延ばしとなる。
一方,沖縄は依然としてアメリカの統治下にあり,アメリカ合衆国政府の任命する行政主席・副主席による琉球政府が発足している。
なお,サンフランシスコ講和条約調印と同じ日,日米安全保障条約(1951発足,1960改定)が結ばれた。
日本は,自主防衛の道は捨て(憲法9条を変えないまま),かつての敵国であるアメリカ合衆国の,核兵器の傘(核の傘)に入る道を選択したわけだ。
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