15.3.6 中ソ対立と中国の動揺 世界史の教科書を最初から最後まで
スターリンの死去(1953年)をきっかけに、国際社会は1950年代から60年初めにかけて「雪どけ」ムードに突入。
1946年から続いていたインドシナ戦争が、54年のディエン=ビエン=フーの戦いでフランス軍の大敗をみたことをきっかけに、ジュネーヴ国際会議で休戦協定(ジュネーヴ休戦協定が結ばれたことはすでに見た。
ヴェトナムは北緯17度線が南北の境界となり、南部にはヴェトナム共和国が成立し、アメリカ合衆国に支援された親米派の〈ゴー=ディン=ジエム〉(1901~63、在任1955~63)が大統領に即位した。
それに対し、〈ホー=チ=ミン〉率いる北部(ヴェトナム民主共和国)は、ソ連と中国が支援したため、ヴェトナムは南北に引き裂かれることになった。
〈スターリン〉亡き後に権力をにぎったのは〈フルシチョフ〉(1894~1971、在任1953~64)。
1956年にソ連共産党大会で〈スターリン〉時代の「個人崇拝」をひかえめに批判。大会最終日の秘密報告で、名指しでスターリン批判をし、独裁や個人崇拝の実態を暴露した。彼自身も〈スターリン〉時代の過酷な粛清(ライバルを処刑・追放すること)に関わっていたわけなのだが、暴露することによってのライバルたちを蹴落とそうとしたのだ。
この秘密報告は、アメリカ国務省の知るところとなり、翻訳されて世界中に配信され、中華人民共和国にも影響を与えることとなった。
スターリン批判が中華人民共和国に与えた影響
中国共産党は、個人崇拝を批判した内容が、中国で“〈毛沢東〉批判”につながることを恐れた。
また、ソ連がアメリカ合衆国と「平和共存路線」を打ち出したことも、中華人民共和国にとって寝耳に水の話であった。
〈毛沢東〉は、1956年に「漢字簡化方案」を制定し、漢字を簡略化することで、農民識字率をあげようとするなど、社会主義国家の実現に向け改革を進めていたところ(〈蒋介石〉のうつった台湾では実施されなかったため、台湾の漢字(繁體字(はんたいじ))と中華人民共和国の漢字(簡体字) は、現在にいたるまで別々になっている)。
〈毛沢東〉は1956年に百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほうひゃっかそうめい)を打ち出し「共産党に対する批判をなんでもしていいよ!」と意見を求めておきながら、1957年に反右派闘争により批判をした“反体制派”を一斉追放。反対派をあぶり出した。
その上で彼は1958年に第二次五カ年計画の一環として「大躍進」政策を打ち出して、「数年でアメリカ合衆国の国力においつこう!」と社会主義国家の建設を急ぐ。
農業・工業を生産する職場を基礎に、役所・学校・兵隊をワンセットにした人民公社を、中国全土に設立させて農業を集団化させると同時に、工業生産も確保しようしようとしたのだが、畑で鋼鉄をつくろうとする非現実的な工業化のせいで肝心の農業にまわす人手が取られてしまい、この政策は大失敗。自然災害もかさなって飢饉によっておびただしい数の人命が失われた。
これによりすっかり毛沢東の威信は低下する。
一方、ソ連との対立も深まり(中ソ対立)、社会主義建設の手法や理念をめぐり、公然と名指しで相手国を非難する論争(中ソ論争)にまで発展。
60年にはソ連の技術者が中国から引き上げられてしまった。
1961年に発覚したキューバに建設されたソ連のミサイル基地問題(キューバ危機)をめぐる動向も、中ソ関係に暗い影を落としている。
キューバ危機ではソ連が譲歩し、ソ連“水爆の父”〈サハロフ〉の働きかけもあり、63年にはアメリカ・イギリス・ソ連の間で部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結されると、これをみた中国は「ソ連はアメリカ合衆国のいいなりだ」とますますソ連への批判を強めたのだ。
ソ連は、中国を“極左冒険主義”(さすがに過激で非現実的)だと名指しで批判し、もはや収集がつかなくなっていく。
そうこうしているうちに1964年に中華人民共和国は核実験を断行、核保有国になった。
1969年には、アムール川の支流で、1860年の北京条約以降中ソの国境となっているウスリー川に浮かぶ珍宝島(ダマンスキー島) での武力衝突(中ソ国境紛争)にまでエスカレートしてしまう。
「プロレタリア文化大革命」は毛沢東の権力闘争だった
1966年からは「大躍進」の失敗後に政治の最前線から退いていた〈毛沢東〉が自分の権力を取り戻そうと、紅衛兵を用いて反対派を失脚させる運動を起こした。
これを「プロレタリア文化大革命」という(1966~76)。
プロレタリアというのは、資本をもたない無産階級(労働者階級や小作の農民階級)などを指す。
さしずめ、プロレタリアの「文化」への「大革命」という意味であり、なんとなく当たり障りのない運動のようにも聞こえる。
しかしその実態は、激烈。
「社会主義化がうまくいかないのは、この国にまだ“資本主義的”な考え方をするやつらがいるからだ」ということで、資本主義的人物を中国から追放しようという運動だった。
しかし、頭の中で何を考えているかなどわからないわけなので、「あいつは資本主義的なやつだ!」と証拠をでっち上げて集団で攻撃すれば、すぐに追い落とせる。
“走資派(実権派)”(資本主義へと走る奴)と名指しされた〈劉少奇(りゅうしょうき)〉は失脚し、〈毛沢東〉夫人を中心とする「四人組」という女性たちが実権を握った。
自由に何かを発言したりものを書いたりすると、揚げ足をとられて攻撃されるおそれもあり、文化は全く停滞。「文化」大革命とは裏腹だ。
特に、儒教的な価値観や、チベット人やウイグル人といった少数民族の文化が攻撃の対象となり、『駱駝祥子(らくだのシャンツ)』を著した〈老舎〉(1889~1966)も迫害された。
近年になって実態がようやくつかめてきた例も多い。
中国全土は未曾有の大混乱に陥ったのだが、この間に「アルバニア決議」により中華人民共和国は国連代表権を獲得し、1972年にアメリカ合衆国大統領と会談し国交が正常化されるという一大変化があった。
アメリカ合衆国はヴェトナム戦争がいきづまりを見せるなか、ヴェトナムを支援するソ連が中国との関係を悪化させている現状を分析し、「ソ連の敵である中国と組んだほうがよい」「アメリカと中国にとって、ソ連が共通の敵だ」「これまで台湾の中華民国政府が、中国の代表として国連に参加していたけれど、この権力を中華人民共和国に与えた方が現実的だ」と判断したのだ。
アメリカ合衆国の方針転換を追って、同年には日本の〈田中角栄〉首相との日中共同声明が発表されている。
国際政治が激しく変動する中、〈毛沢東〉の後継者と目されていた〈林彪(りんぴょう)〉はクーデタを計画するも未然に発覚(そもそもそんな計画はしていないという説もあり)、ソ連行きの飛行機がモンゴルに墜落して、謎の死を遂げている。
その後1976年1月に〈周恩来〉、9月に〈毛沢東〉が相次いで死去。
同年、国家権力を握っていた「四人組」が逮捕され、プロレタリア文化大革命は大きな爪痕(つめあと)を中国に残しつつ幕を閉じることとなった。
その後の中華人民共和国は、社会主義国家の建前は残しつつ、経済を「自由化」させることで経済再建を模索していくこととなるよ。
現在の中華人民共和国の経済的繁栄のスタート地点は、文化大革命後の1970年代末にあったのだ。
関連史料
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