同時に学べる!世界史と地理 Vol.16 1500年~1650年の世界
海を中心に交流が活発化し、世界が一体化していく時代①
前の時代の終わりごろ、ついにヨーロッパの人たちがアメリカ大陸にたどり着いていますね。
歴史:そうだね、すごいインパクトのある出来事だよね。
何千年もユーラシア大陸とは「別行動」していたアメリカ大陸の人たちにとっても「寝耳に水」の話だったわけだ。
アメリカ大陸に金銀財宝が無限にあるんじゃないかと期待したヨーロッパ諸国は、こぞってアメリカ大陸に進出した。
一番乗りはスペインとポルトガルだったけど、それをオランダ、フランス、イギリスが追いかけていくよ。
どうしてそんなに外に出ようとするんですかね?
地理:いちばんの理由は、気候の極端な冷え込みだ。
気候の変動は地域や時期にとってもズレがあるけど、この時期の地球はのきなみ「小さな氷期」っていわれるほどの寒冷化が起こっていた。
人間の活動って気候に大きく影響されるんですね。
地理:そうだね。平均気温が1度下がるだけで、農業できた場所でも畑がまったく壊滅してしまうということもあるんだよ。
西ヨーロッパの人たちが進出したのはアメリカだけですか?
歴史:アフリカやアジアにも進出を進めている。
「進出」っていっても、もともと地元の人たちの間で盛んだった貿易の「おこぼれ」をもらいに行った感じだ。船に大砲を積んで脅かし、重要な港に要塞(ようさい)をつくって貿易に無理やり参加しようとしたんだ。
なんだか、この時代ってもっと気候が温暖で、それだからヨーロッパの人たちは世界に拡大したんだとばかり思ってました。
地理:そういうイメージがあるよね。でも実際には「必死」だったわけだよね。
歴史:当時のアジアの支配者も、新兵器である銃や大砲を主体とするヨーロッパや西アジアの新戦法を軍隊に取り入れていった。
貿易の利益を競って守ろうとしていたから、ヨーロッパの国々が完全にアジアの貿易を支配できたわけではないんだ。
とにかくこのころ、アジアは空前の貿易ブームだったわけですね!
歴史:そうだよ。物の流れ(物流)が増えれば増えるほど、スムーズに交換するために「金属製のお金」が必要になった。
そこで利用されたのは銀(シルバー)だ。
当時アメリカに進出していたスペインが、アメリカの人たちをこき使って銀を掘り出し太平洋を西に超え、アジアのヒット商品を買い付けようとしたんだ。
でも、アメリカの人たちはヨーロッパの人たちの持ち込んだ病気の影響も受けているんですよね?
歴史:そうそう。だから「働き手」がなくなると、今度はアフリカの王様たちから黒人を買い付けて、アメリカに運んだんだ。
こうやって、自分の意志に反して、はるばる遠いところに移動させられる人たちが世界中で増えていくことになったのも、この時代からのことだ。
こうやって、珍しい物を買い付けて遠くまで運んで売ることで、ヨーロッパの国々はリッチになっていったわけだ。このビジネスのもうけたお金を元手に、しだいに物を作って売るビジネスも盛んになっていくよ。
会社みたいですね。
歴史:そうだね。失敗するかもわからない冒険的なビジネスだから、今でいうところの「ベンチャー企業」だね。同じような組織は今までも各地にあったけど、この時代のヨーロッパでできた会社の仕組みは、現代の会社のルーツとなっていくよ。
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●1500年~1650年のアメリカ
歴史:アメリカではスペインとポルトガルが支配エリアを拡大している。先住民の国々は滅ぼされ、住民は強制的に働かされたり攻撃されたりしたよ。
ヨーロッパから持ち込まれた病気(注:天然痘(てんねんとう)やインフルエンザなど)によってアメリカの人たちが亡くなると、アフリカから代わって黒人の奴隷が輸送された。
アメリカ大陸の人種の構成が大きく変わりそうですね。
歴史:そうだね。先住民の中には高い山や森に逃げ込めた人たちもいたけれど、ヨーロッパの人たちや黒人との間に生まれた子どもも増えていくんだ。
とっても複雑な社会ができていくけど、基本的にはヨーロッパの人たちをトップとするピラミッド型の社会ができあがっていくよ。
もともといた人たちはどんな目にあったんですか?
地理:領主の所有する広い土地の農園の働き手となっていった。
土地を一部持てる場合(注:小作人)や、土地は持てず働く場合(注:農業労働者)があった。ブラジルではファゼンダ、メキシコ・パラグアイでアシェンダ、アルゼンチンでエスタンシアと呼ばれるものだ(注:大土地所有制)。
これは非常に不平等な制度で、一部の大土地所有者に富が集中していた。
土地を持っている人はどんな人ですか?
地理:ほとんどがスペインやポルトガル系の人だ。
歴史:ただ、北アメリカの先住民たちと、移り住んできたヨーロッパの人たちとの間にはほとんど交流はなく、ヨーロッパの人たちによって一方的に攻撃を受けていくことになる。
この時期にはイギリスやフランスが北アメリカに植民地を建設しているよ。イギリスのものはのちに「アメリカ合衆国」の、フランスの一部は「カナダ」のルーツになっていく。
アメリカは世界的な気候の冷え込みの影響は受けますか?
地理:この時期の後半には、ペルーの火山が大噴火を起こし、巻き上がった噴煙が世界中に広がって平均気温を下げたと考えられている。
さらにこの時期の終わりに向け、太陽の活動も弱まっていったようだ(注:マウンダー極小期)。
太陽の活動と地球って関係あるんですか?
地理:関連性についてはまだわかっていないことも多いんだけど、さいわいこの時期にフランスの科学者が太陽の表面の観測をしていたために、太陽活動が弱まったことがわかっているんだ。
この時期には世界中で反乱、戦争、内乱など、不穏な動きがオンパレードの時代だ。
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●1500年~1650年のオセアニア
歴史:この時代、オセアニアがヨーロッパ人の「アジアへの通り道」になるよ。
アメリカに進出していたスペイン王国が、太平洋を横断する貿易ルートの開拓に成功。アメリカで掘り当てた銀(シルバー)が大量にアジアに流れこみ、アジアの貿易ブームにも影響を与えた。
どうやって太平洋を横断したんですか?
地理:太平洋の海流をみてみよう。
日本列島のほうに南から北上しているのは黒潮。(世界の海流)
地理:フィリピンからは黒潮に乗っていく。そこから北アメリカ大陸に向かう海流に乗り換える。
北アメリカから太平洋に行くときには、それより南に針路をとる。
大きく円を描くようなルート。それが最短ルートだってことに気づいたんだ。
間違って日本に漂着しちゃう船もときどきあった。
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オセアニアの島々はヨーロッパ人によって支配を受けたんですか?
歴史:熱帯の気候は過酷だし資源も少ないので、直接的な支配は受けていないよ。オセアニアの人たちはさぞかしビックリしたことだろう。
スペインに引き続きオセアニアを目指したのはイギリスやオランダだ。イギリスはさかんにスペインの船を襲ったよ。イギリスの「王様公認の海賊」(注:バッカニア)は、スペイン船の積む金銀財宝を狙ったんだ。
オランダの探検家はオーストラリアやニュージーランドのあたりを「発見」している。タスマニア島もこのろき「発見」された。
地理:タスマニア島はオーストラリア大陸の南東沖にあって、独自の生態系と人間の文化が維持され続けてきた島だ。
タスマニア(クレイドル山)Photo by Laura Smetsers on Unsplash
ヨーロッパ人が知らなかっただけで、長い歴史があったわけなんだけどね。
そういえば、イースター島のモアイ像はまだ作られているんでしょうか?
歴史:小さい島で資源が不足し、モアイ像の建設はストップしている。島民どうしで争いが起きて、モアイ像の多くが倒されてしまったようだ。
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●1500年~1650年の中央ユーラシア
モンゴル帝国はもうバラバラになってしまったんですよね?
歴史:うん、バラバラになったとはいっても「モンゴルの過去の栄光」はレジェンド(伝説)として語り継がれている。
草原地帯の遊牧民のリーダーになるためには、建国者の血を引いていることが絶対条件となったんだ(注:チンギス統原理)。
これだけ広い範囲に名前をとどろかせ続けるなんてスゴイですね。
歴史:だね。西は今のロシアのほうから東は中国のほうまで、リーダーはモンゴルの建国者の子孫であることが求められたわけ。
で、モンゴルの本家本元の家柄は中国の北のほうでずーっと続いていたんだけど、モンゴルの血を引いていない新たな民族が現れた。
どんな民族ですか?
歴史:当時のアジアは貿易ブームだったよね。
東南アジアから沖縄、沖縄から九州、本州、本州から北海道、北海道から中国の北のほう…というように、貿易ルートが数珠(じゅず)つなぎのようにはりめぐらされ、各地で貿易ルートを銃や大砲などの武器の力でコントロールし、リッチになった支配者が現れているんだ。
例えば、沖縄の王様、日本の信長や秀吉、北海道のアイヌなどだ。
北の海でとれるはずのコンブが沖縄料理の定番となっているのも、この時期以来の遠距離交易ルートのおかげだ。
北海道の方面とのクロテンなどの毛皮貿易や、朝鮮の薬用ニンジンの貿易で力をつけたのが女直(じょちょく)という民族。
彼らは高級品を中国の皇帝に売り込んで力を付け、数々の戦いを勝ち抜いていった。その結果、女直の王様はなんとモンゴル人から「あなたが遊牧民のリーダーになるべきです」と推薦されたんだ。
すごいことですね!
歴史:モンゴルの支配層の間でも揉め事があったことも関係している。
女直はその後、中国に攻め行って皇帝を倒し、なんと中国の「皇帝」になっちゃうんだ。
こうして新しく中国にできた「清」(しん)という王国は、女直のふるさとである中国の東北方面(「満州」というところ)と、モンゴルの一部を従え、大きな国になっていくんだ。
草原地帯と定住民の地域をまたぐ国が、また新しくできたわけですね。
歴史:そうだね。
一方同じころ、インドの北にある世界有数の高山地帯で巨大な国ができた。
チベット人のお坊さんが、チベット仏教というお寺の「ふしぎな力」を利用して広い国をつくったんだ。リーダーは、ダライ=ラマという称号を名乗ったよ。
どうしてお坊さんにそんなことができたんですか?
歴史:同じころ北のほうで成長していたモンゴル人の遊牧民の一派の力を借りたんだよ。モンゴル人の側も、自分たちのグループをまとめることができる考えを求めていたんだ。
モンゴル人とチベット人の協力ですか。スケールの大きな話ですね。
歴史:そうだね。今でもチベットの観光名所となっている巨大な宮殿は、このときにつくられたものだ。
もっと北の寒い地域はどんなことになっていますか?
歴史:北極に近いところだよね。このへんではトナカイにコケを食べさせながら移動する遊牧民が活動している。農業ができないので余るほどたくさんの食料をつくることはできないから、大きな国はできないよ。
しだいに「毛皮」を目当てに西のほうから進出したロシア人に、生活する場所を奪われていくことになるよ。
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●1500年~1650年のアジア
歴史:この時代の中国は明(みん)が支配していますが、北の遊牧民と南の海を拠点に活動する人々によって、サンドイッチのように圧迫されている状態だ。
北にはまだモンゴル人たちがいるんですか?
歴史:しばらくバラバラに分かれていたんだけど、この時期にはモンゴルの建国者の本家の家柄のボスが、遊牧民の再結集を図っているよ。
どうしてまたまとまったんですか?
歴史:危機的な事態になると遊牧民は結集する傾向がある。
このときは中国の皇帝が遊牧民との貿易を制限しようとした。それに困って貿易を要求するために小競り合い(こぜりあい)が起きたんだよ。
地理:さらに地球全体の気候の寒冷化(注:小氷期)も拍車をかけた。
寒冷化は、当時の中国や日本にも大きな影響を与えた。
日本ではこの時代に、現在の東京に武士の政権が置かれ全土が統一された(注:江戸幕府)けれど、終わり頃には大きな飢饉(ききん)に見舞われているね。
遊牧民側にも、のっぴきならない事情があったわけですね。
歴史:そうだよ。
遊牧民は一時、中国の首都である北京を占領。さすがに現実を見た皇帝は、オフィシャルな形での貿易を再開しているよ。
一方、中国の皇帝は海の貿易もコントロール下に置こうとした。
都は中国の北のほうにあるけど、経済の中心は海を通して西の世界とつながっている南のほうにあるからね。
でも実力がともなわず、中国沿岸には隠れて貿易をしようとする人たちであふれかえっていたんだ。
「海賊」ですね。
歴史:そう。中国の皇帝からは「日本の海賊」と呼ばれたけど、実際には中国の周りでビジネスを行っていたいろんな民族が混ざっていたよ。
このようにピンチに立たされた中国は、支配層の間で仲間割れが起き、おいうちをかけるように朝鮮に日本の秀吉が軍を進めた。
踏んだり蹴ったりですね。
歴史:日本は当時、今の島根県で世界有数の銀(シルバー)を産出し、大阪や福岡の商人を中心に莫大な貿易の利益をあげていた。
そんな中、朝鮮の北の「満州」というところで、北方のビジネスによって力をつけた女直(じょちょく)という民族が、モンゴル人を味方につけて北京を占領。中国の皇帝に即位することになるんだ。
◇1500年~1650年のアジア 東南アジア
歴史:この時代の東南アジアでは、中国商人や日本商人が特産品を持ち込みみ、ヨーロッパ商人がアメリカや日本から運び込んだ銀で買い付けるようになっている。
日本人も東南アジアに進出していたんですね。
地理:そうだね。今みたいにバックパッカーとしてではなくて、気候の寒冷化にともなう飢えから逃れるために移住した人もいたようだ。
日本人は現地でどんな生活をしていたんですか?
歴史:東南アジアの王国で兵隊として雇われたり、ビジネスをしたり。ほかにヨーロッパ諸国などによって奴隷として売られた人もいたようだ。
「日本人奴隷」ですか…。
歴史:それを防ぐために日本の政権は「鎖国」に踏み切ったという見方もできる。
そんな中、東南アジアでは特産品のスパイスがヨーロッパに輸出されてヒット商品となっている。
スパイスは料理に使うんですか?
歴史:そうだよ。昔は冷蔵庫がないから肉や魚の保存につかったり、薬としても重宝されたんだ。
※「魅惑のスパイスの世界を一枚の絵にまとめたグルメなインフォグラフィック」より。
地理:特に独特な風味をもつクローブは香料諸島でしか産出されなかった。
貿易がブームになると、各地でモノの流れをコントロールした支配者が現れそうですね。
歴史:そうだね。
各地の王様は内陸の特産品を港に集めたり、大規模な田んぼを支配下におさめたりして、ビジネスしやすい環境を整えていった(例:ビルマ、タイ)。
王様のまわりには日本人や中国人の相談役が集められ、ヨーロッパから輸入した銃や大砲で武装していたよ。
◇1500年~1650年のアジア 南アジア
インドはモンゴルの影響は受けなかったんですよね?
歴史:いや、インドも草原地帯の動向と無縁ではなかったんだ。
インドの北のほうでは、モンゴルの建国者の子孫の建てた国が続いていた。しかし、勢力争いに敗れた王様の一族が北インドに逃げ、今のデリーという町を都にして新しい国をつくった。
この国は今ではムガル帝国と呼ばれるよ。
インドの宗教といえばヒンドゥー教ですが、ムガル帝国は何教ですか?
歴史:イスラーム教徒だ。
インドを支配しようと思ったら多数派はヒンドゥー教徒だから、支配するには工夫が必要だよね。そこで、有力なヒンドゥー教徒の大物をひいきしたり、税を免除したりしている。
現実的ですね。
歴史:そうだね。
イスラーム教の「人間はみな平等」という考えの影響も受けて、シク教という新しい宗教も生まれたよ。ターバンとヒゲが特徴的な格好の宗教だ。
シク教徒。Photo by Mohammad Bagher Adib Behrooz on Unsplash
ムガル帝国はしだいに南へと支配エリアを広げていくけど、南インドは当時空前の貿易ブームだ。
ヒンドゥー教の王国は“お隣さん”の東南アジアや西アジアとの貿易で、莫大な利益をたたき出している。
当時の南インドにはポルトガル王国やオランダの商人もやって来て、貿易のために頑丈な基地をつくっているね。
インドは何を売っていたんですか?
地理:熱帯性のコショウや、暖かくある程度の降水量のある地域を好む綿花からつくられる織物だ。
インドの中央部のデカン高原には、レグールという玄武岩でできた土が分布していて、綿花の栽培に適しているよ。
◇1500年~1650年のアジア 西アジア
歴史:この時代にはトルコ人の建てたオスマン帝国という国が、地中海からインド洋にまたがる巨大な国に成長している。
当時、一大ブームとなっていた海の貿易で莫大な利益を稼ぎ出し、豊かなエジプトも獲得して栄えるよ。
オスマン帝国の皇帝は、イスラーム教徒の多数派のリーダーである「カリフ」の位も兼ね、聖地メッカを守ることで西アジアだけでなく世界中のイスラーム教徒から尊敬される存在になったんだ。
強さの秘密はなんだったんですか?
歴史:宗教がちがっても認める度量の広さと、最新鋭の大砲や銃を装備した歩兵部隊が強さの秘密だ。
オスマン帝国はヨーロッパにも東から軍を進め、キリスト教徒の若者をこの部隊に取り立てたんだ。
バルカン半島に上陸したってことですか?
地理:そうだよ。
ドナウ川をさかのぼって軍をすすめていったんだ。
当時のヨーロッパの国々は互いにケンカばかりしていたから、オスマン帝国の進出にビックリしてしまったけど、ウィーンという大都市を占領するのには失敗してしまった。冬が迫り、雪が降っていたことも原因だった。
西アジアはオスマン帝国の独り勝ちの状態だったんですか?
歴史:ううん、イランではイラン人の一派が大きな国を建て、海にも進出して貿易で利益を挙げている。オスマン帝国とも何度も戦っているし、当時海からやってきたポルトガル人とも戦って勝利している。
おなじイスラーム教徒の国なのにどうして中が悪いんですか?
歴史:トルコ人とは言葉や文化に違いがあったということもあるね。
それだけでなく、イスラーム教のグループの違いも大きいよ。
そういえば、イスラーム教には多数派と少数派に別れた争いがありましたね。
歴史:そうそう。オスマン帝国のほうは多数派のスンナ派だ。
イランの王様は、オスマン帝国との「違い」をハッキリさせようと、少数派のほうのシーア派を保護したんだ。その結果、今でもイランではシーア派が多いよ。教義や儀式のやり方にも、かなりの違いがあるんだ。
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●1500年~1650年のアフリカ
アフリカはヨーロッパ人の海外進出の影響を受けましたか?
歴史:めちゃめちゃ受けている。
アメリカ大陸の3K(キツイ、キタナイ、キケン)の仕事の労働力として、沿岸から数多くの住民が連れだされたんだ。
誰が積み出したんですか?
歴史:アフリカの西のほうの沿岸の王様たちだ。
内陸から別の民族を捕まえてきて、ヨーロッパの商人に売ったわけだ。
これをはじめに始めたのはポルトガル王国。
ポルトガルは奴隷を運ぶだけで莫大な利益を上げ、のちにスペインやオランダ、イギリスなどの国々もマネし始めるよ。
アフリカには王国が意外とあるんですね。
歴史:文字による記録があまりないから詳しいことがわかっていないだけで、われわれが思い込んでいるよりもずっと社会は複雑だ。
王様は特産物を海に運びだし、その貿易ルートは遠く中国ともつながっていた。特産品は金(ゴールド)や象牙(ぞうげ)だ。沿岸の港町があまりに栄えたものだから、ヨーロッパからやって来たポルトガル人や、北のほうのアラブ人やイラン人のターゲットになるよ。
アフリカも貿易ブームとは無縁ではなかったんですね。
歴史:そうだね。
サハラ砂漠を越えるラクダ貿易は昔から盛んだったよね。この時代にもサハラ砂漠を流れる川の周りに、貿易をコントロールした王国(注:ソンガイ王国)が栄えるよ。
でもその後、この利益に目をつけたサハラ砂漠の北はモロッコの王様に攻撃されて滅ぼされてしまった。
アフリカの北のほうはどんな感じですか?
歴史:はじめのうちはオスマン帝国に従っていたけど、しだいにその土地の王様の支配に変わっていくよ。
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●1500年~1650年のヨーロッパ
歴史:この時期のヨーロッパのことを日本では「大航海時代」というよ。
冒頭の説明のとおり、気候が寒冷化したことが背景にあるんでしたね。
地理:そうそう。
森林が減り、ブドウや小麦の生産も大変になった。
どうしてそんなことわかるんですか?
地理:当時はもちろん温度計なんてないからね。木の年輪を読んだり、教会が付けている地元の人の誕生やお葬式に関わる記録をみたり。あと、風向きや流氷の様子について記した文書を探す方法がある。
それに当時描かれた絵を手がかりにする場合もあるね。以前は雪なんてほとんど積もらなかったところに雪がが積もっていたりなんてことがある。
農民の絵を描いた有名な画家の作品。当時の風景がわかる。
そうなると、人々の生活も厳しくなりそうですね。
歴史:そうだね。
こういう寒い気候を操っているんじゃないかと疑われた人は「魔女」というレッテルを貼られ、いわれのない罪で処刑されていったことがわかっている(注:魔女狩り)。
そんな中、西ヨーロッパはアジアやアフリカに活動エリアを広げたんですよね。
歴史:そうそう。
アメリカではもともとあった国々を滅ぼし、支配下に置いた。
でもアジアには大きな国々があって貿易で栄えていたから、ヨーロッパが支配できたのは各地の貿易の拠点に過ぎないよ。
本格的な支配はまだなんですね。
歴史:そうだね。でもこの時代のヨーロッパ人は、今まで知らなかった知識や情報に大きな衝撃を受け、考え方もガラっと変わっていくことになるよ。
数学の知識を使って世の中の様々な法則を表現し、新しいテクノロジーを生み出そうとする動きも盛んになった。絵や文学のテーマも宗教的なものから社会的なものへと変わっていたよ。
現実的な考え方になっていったわけですね。
歴史:そうそう。ヨーロッパはとっても狭いわけだけど、各地で国による「まとまり」がつくられていって、王様の力が強まっていったんだ。
でも、国の力を強くするにはビジネスの成功がとっても大切だ。王様は「お気に入り」の商人(注:特権商人)と結びついて、どうしたら強い国がつくれるか考えた。
王様は、その国では「自分が一番えらい」ということを主張したかったわけですよね。
歴史:でも、国民のほとんどはキリスト教の信者だ。
だから、人々の支持を集めるには「王様はキリスト教を守っている」というアピールが大切だ。
でも、伝統的にキリスト教は、西ヨーロッパではローマの教会、東ヨーロッパではコンスタンティノープルの教会が、それぞれいちばん強い権力をもっていたよね。
でもすでにコンスタンティノープルの教会を守っていた東ローマ帝国は、イスラーム教徒の国(注:オスマン帝国)によって滅んでいる。
今度はロシア人の王様が、コンスタンティノープルの「保護者」を称するようになっていった。
ロシアは、ユーラシア大陸の東部(シベリア)に向かい、狩猟採集民や遊牧民の地域に領土を一気に広げていく。Photo by Tom Grimbert on Unsplash
東と西の境目にあたるポーランドは「ローマの教会」を保護し、当時のヨーロッパで最も広い国に発展していた(注:ヤゲウォ朝)。
一方、ローマの教会の保護者は伝統的には「神聖ローマ帝国」の皇帝であったわけだけど、当時の西ヨーロッパではそれが気に食わないフランスやイギリスの王様も力を伸ばしていた。
「神聖ローマ帝国」の「ブランド」が低下していたわけですね。
歴史:神聖ローマ帝国の国内でも、帝国の支配に反対する領主も増えていたんだ。
しだいに領主たちは、「ローマの教会」の主張が「キリスト教ほんらいの考えからそれている!」と主張する新説(注:ルター派)を支持し、「ローマの教会」グループから抜けようとする動きを進めていった(注:宗教改革)。
え、そんなこと平和的にできるものですか?
歴史:もちろん、そうはいかない。
その後、西ヨーロッパ各地で血みどろの「ヨーロッパ大戦」が繰り広げられたんだ(注:三十年戦争)。
「宗教の争い」のようにみえるけど、実際には「国と国の争い」という面が大きい。「ローマの教会」の言うことを聞かずとも、「自分の国のことは自分で決めたい」王様が増えていたんだ。
地理:気候をみてみると太陽活動が弱かった時期にあたり、気候がかなり冷え込んでいたこともわかっている。
結果的にこの時代には、イギリスでは「イギリスの国王をトップとする独自の教会」(注:イギリス国教会)がつくられ、事実上「ローマ教会を中心とするヨーロッパ」から抜けてしまった。
イギリスは寒さをしのぐためにカブをオランダから輸入し、狭い土地で効率の良い農業を行うシステムの改良がおこなわれていった(注:農業革命)。
フランスはどうですか?
歴史:やはりフランスでも「フランスのキリスト教会」の制度(注:ガリカニスム)がつくられていった。
こうして、ローマ教会の考えるすべての世界をカバーする、「たったひとつのキリスト教会」は崩れていったんだ。
そうなると「神聖ローマ帝国」のように、ヨーロッパのすべてをカバーしようとする広い国は、本格的に時代遅れになりそうですね。
歴史:その通り。
神聖ローマ帝国は、ヨーロッパの上流階級たちと「親戚関係」になることで、広大な領土を獲得していったんだけど(注:ハプスブルク家による結婚政策)、結局スペインを中心とする領土と、ドイツを中心とする領土に分かれてしまったんだ。
当時のスペインはアメリカやアジアとの貿易でめちゃめちゃ栄えていたから、スペイン側の家柄は一時、世界のどこにでも領土があるので、「太陽の沈まない国」とまで言われた。
この通り。
でも、スペインの支配していたオランダが、ローマの教会から離れて独自のキリスト教会を建設して独立を勝ち取ると、スペインの繁栄には先が見えるようになる(注:オランダ独立戦争)。
「海の貿易ルート」を握る中心国がスペインからオランダに変わったわけですね。
歴史:貿易の中心が、地中海から大西洋へとシフトしたわけだね(注:商業革命)。
スペインは地中海に接しているけど、オランダは接してないでしょ。
地理:現在のオランダには世界最大の港であるロッテルダム(注:ユーロポート)がある。
これはライン川の河口に位置する。
オランダはこのロッテルダムを、内陸の川や水路のルート(注:河川交通)と大西洋周辺の港町と連結させようとしたわけだ。
当時のオランダの画家に、市民たちが集団でオーダーした肖像画。
ドイツ側の家柄はどうですか?
歴史:こちらはそのまま「神聖ローマ帝国」の皇帝の位を引き継いでいった。
でも、南からイスラーム教徒のオスマン帝国が攻めてくる状況で、西にはライバルのフランス王国もあるから盤石とはいえない。
「神聖ローマ帝国」の構成メンバーである各地のドイツ人の王様や貴族たちの中にも反抗する動きも出始めている。
ドイツ人のいるところってなかなか「ひとつの国」にまとまりにくいんですね。
地理:そうだね。
そもそもドイツって広いし、現在の地図をみても実にいろんな国と国境を接しているよね。だからその分、地方色も強いんだ。
北のほうはデンマークやスウェーデンとの関わりが深い。バルト海に接しているから港町も発達している。とくにハンブルクは、広く口の開いた形の河口(注:エスチュアリー)の付け根に発達した良い港だ。
北と南では、言葉の話され方にも違いがあるよ。この時期には、「ローマの教会」から距離を置こうとした宗教家によって、「ドイツ語で聖書を読もう運動」(注:宗教改革)が展開されたんだけど、彼はドイツのどこの人でも読めるような「標準語」を意識して聖書をドイツ語に翻訳するのに苦労したそうだ。
ハンブルクの運河。Photo by Adrian Degner on Unsplash
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