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14.3.4 インドにおける民族運動の展開 世界史の教科書を最初から最後まで

イギリスによる厳しい支配下に置かれていた植民地インド。


しかし第一次世界大戦中には、「植民地には自治を与えるべきだ」という国際世論の圧力に押され、インドに自治を約束することとなった。
しかし、第一次世界大戦後の1919年に制定されたインド統治法の内容は、「自治」とはほど遠い内容。
州の行政の一部をインド人にゆだねたものにすぎなかった。

しかもそれと同時にローラット法という、植民地統治への反発を厳しく処罰する法も制定される始末。

これに対しインド北西部のパンジャーブ地方のアムリットサールで民衆が抗議集会を開催した。



だ、イギリス軍はこれに容赦なく発砲し、多数の死傷者を出すという痛ましい事件(アムリットサール事件)が起きた。


こうした植民地政府のやりかたに対し、「暴力に対して暴力でやり返しても何も生まれない。暴力を使わないことこそが、暴力に打ち勝つのだ」と主張する画期的な運動家が現れた。

ガンディー(1869〜1948年)だ。


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彼はイギリスに留学し弁護士資格をとり、南アフリカで弁護士として暴力に訴えることなく、インド人移民の権利を守る活動を展開し、注目を集めていた人物だ。




1920年の国民会議派の大会で、イギリスの植民地支配に協力しない「非協力」(不服従)の運動を提案。
これまでは、イギリスの大学に留学経験をもつエリートが、一部の人を率いて民族運動を、もっともっと広範なすべての人々が参加できる運動に変貌させていったのだ。


彼自身はヒンドゥー教徒であったけれど、インドにはイスラーム教徒もいるよね。

たとえば全インド=ムスリム連盟という、イギリスとの距離の近い組織を率いていたイスラーム教徒のジンナー(1876〜1948年)は、ヒンドゥー教徒と一緒に闘うことを避ける姿勢だった。

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ジンナー


イスラーム教徒の結束を切り崩し、一緒になってイギリスの支配に対抗する方向に引き寄せるためにガンディーが着目したのは、インドから遠く離れた現在のトルコでの動向だ。

当時、大戦に負けたオスマン帝国内に樹立された新政府がカリフ制を廃止しようとしていることに対し、インドのイスラーム教徒による反対運動が起きていた。
これに、ヒンドゥー教徒を多数派とする国民会議派もサポートしたことで、イスラーム教徒たちの心もぐっとつかんだのだ。


しかし、ガンディーの望む「非暴力」が民衆に理解されるのはなかなか難しく、1922年に農民による警官の殺害事件が起きると一旦中止。


運動方針の対立から、宗派対立(ヒンドゥー教とイスラーム教の対立)も深刻化していくことに。
ヒンドゥー教徒の中からも、「ヒンドゥー教徒のインドをつくるべきだ」という組織もつくられていった(のちにガンディーの暗殺者を出すことになる民族奉仕団)。


民族運動はなかなか一枚岩とならず、イスラーム教徒の支持は、しだいにヒンドゥー教徒を主体とする国民会議派に反対し、イギリスの植民地支配に協力するようになっていった。

イギリスによる “分裂工作” の作戦勝ちだ。



そんな中1927年、あらたにインド統治法を制定するために憲政改革調査委員会(サイモン委員会)が設立された。
しかし、“インドの未来”を決する委員会のメンバーにインド人が含まれていなかったことから、民族運動はふたたび激化。


1929年には国民会議派内で主導権を握ったネルー(1889〜1964年)ら急進派が、完全独立(プールナ=スワラージ)を目標とすることを決議した。

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右の人物がネルー



ネルーにより運動に再度呼びだされたガンディーは、世界の注目を集める、あるイベントを企画。
塩の行進」(1930年)だ。
イギリス植民地当局が禁止していた「塩をつくる権利」を取り返すため、海岸まで行進をするというもの。インド人みずからの手にインドを取り返そうというメッセージを込めたのだ。


一方、イギリスはヒンドゥー教以外のさまざまなグループをロンドンに招待。
インドが将来どのような姿になるべきかを、すべてのグループを対等に扱う形で議論させる場(ロンドン円卓会議)を用意した。「ガンディーやネルーだけがインド独立の交渉相手ではない」ということを示そうとしたのだ。


しかし円卓会議では合意が成立せず、1932年にガンディーの非協力運動(第二次)は再開。
そうした中、1935年に新たなインド統治法が成立する。この中で、州の政治はインド人に委ねられることになったものの、中央の財政・防衛・外交はイギリスが依然として掌握。
やっぱり完全独立(プールナ・スワラージ)とは程遠い内容のままだった。


1937年に、1935年インド統治法の下で州ごとの選挙がおこなわれ、多くの州では国民会議派が当選。政権を獲得した。

これに対し、イスラーム教徒は「ヒンドゥー教徒によって政治が握られるのはイヤだ」と反発。
イスラーム教徒が多数派の州では、イスラーム教徒がリーダーである地域の政党が勝利した。
民主主義が導入されると、「宗派」による対立が生まれてしまうというジレンマが引き起こされたのだ。



こうした状況の中、イスラーム教徒のジンナー(1876〜1948年)をリーダーとする全インド=ムスリム連盟が1940年にイスラーム教徒だけで構成された純粋な国家パキスタンの建設を目標にかかげた。



「インドには、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の2つの民族がいる」という主張だ。日本では伝統的に、ガンディーが“正義”で、ジンナーは“悪者”という図式で語られることが多いけれど、このへんの分断の事情にはイギリスの思惑も絡み、実際にはなかなか複雑だ。


こうやって分裂が深まる中、1939年に第二次世界大戦がはじまる。


イギリスがドイツの攻撃に苦しむ中、ヒンドゥー教徒主体の国民会議派は「完全独立」(プールナ・スワラージ)をあくまで要求。
非協力運動を継続するも、イギリスの植民地当局はこれを厳しく弾圧した。国民会議派を非合法化し、ガンディーなどのリーダーを投獄する措置がとられた。


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