見出し画像

9.1.6 北方戦争とロシア 世界史の教科書を最初から最後まで

西ヨーロッパ諸国が大西洋からアメリカやアジア方面に進出し、国内を統一的に支配しようとしていた頃というのは、どうしてもポルトガル王国、スペイン王国、イングランド王国、フランス王国などが目立ちがち。

でもじつは、その頃、北ヨーロッパでめきめきと力を付けていた国がある。



スウェーデン王国だ。


そのきっかけとなるのは、17世紀の“ヨーロッパ大戦” である三十年戦争


新教国として参戦し、見事勝利したスウェーデン王国は、バルト海を取り囲む広大なエリアに覇権をおよぼすようになっていったのだ。




しかし、スウェーデン王国の拡大に対し挑戦をしかけたのは、東ヨーロッパのロシアだった。

モスクワ

を拠点に拡大した北西ロシア人の国「ロシア」。

「17世紀の危機」が襲ったのはロシアも例外じゃない。
17世期後半には、ステンカ=ラージン(1630〜71年)率いる農民反乱が勃発し、混乱をきわめた。
彼はドン川流域に住むコサックと呼ばれるグループの一員。モスクワの国王を倒し、「平等な国をつくる」ことが目的だった。

現在でもラージンは民謡の中で歌い継がれている



しかし、この農民反乱の鎮圧後、君主の座についたピョートル1世は、のちに大帝とよばれる大物だ。


「ロシアは西ヨーロッパに遅れをとっている」


そう感じたピョートルはみずから身分をいつわって視察旅行を実施。
オランダの船工場でも働いた。

画像4



西欧をモデルにして国の強力なプッシュによる工業化を目指したところは、明治時代の日本によく似ているよね。



彼のもとでロシアは軍備を拡大し、東方のシベリアにも支配エリアを広げていく。
なんと中国を治めていた清朝と条約(ネルチンスク条約)を結び、国境を定めて貿易を開始している。


また、南方面で広大なエリアを支配していたイスラーム教の国 オスマン帝国を圧迫し、黒海の北にあるアゾフ海にまで進出している。


寒いロシアにとって、冬でも凍らない港を獲得することは至上命題だったのだ。


そんなロシアが警戒した相手が、当時バルト海のまわりに支配をひろげていたスウェーデン王国だった。

まだ若いカール12世(在位1697〜1718年)が王に即位すると、


ピョートル1世はポーランドとデンマークと同盟してスウェーデンを攻撃することに。



これを北方戦争という。
戦争の状況は最初スウェーデンに有利な状況だったけれど、ロシアは態勢をたてなおしてスウェーデンを撃破。

スウェーデンはバルト海の覇権をロシアにゆずることとなった。

戦争中に建設されたペテルブルクという都市は、1712年からロシアの首都に。
その名も、「ピョートル大帝の街」。



内陸から発展したロシアは、ついにバルト海周辺に拠点をうつすこととなったのだ。


北方戦争後のロシアは東ヨーロッパの大国に成長し、フランス、イギリス、オーストリア、プロイセンなどと肩を並べる強国へと成長していくことに。



18世紀後半には、ドイツ出身のエカチェリーナ2世(大帝、在位1762〜96年)が、ピョートル大帝のプロジェクトを受け継ぎ、拡大政策を実施。

画像7





南の方では、クリミア半島をオスマン帝国から奪った。


東の方では、北海道の北のオホーツク海にまで進出、貿易を制限していた日本に対し自由な通商を要求するため、ラクスマン(1766〜96年以降)を派遣している。


帝国を支えていた貴族たちは、自分の領地における農民に対する支配を強めていたのだが、エカチェリーナ2世はその治世の初め、農民の地位を向上させようと改革をこころみている。

当時のフランスで広がっていた「古臭い考えをぶっこわしよりよい社会をつくるための考え」(啓蒙思想)を受け入れ、ロシアの発展に都合のよい部分はどんどん採用しようとこころみたのだ。


しかし、拡大するロシア帝国の辺境地帯では、しだいにトルコ系やモンゴル系の民族による支配に対する反感が高まっていき、プガチョフ(1742年頃〜75年)の率いる大農民反乱(1773〜75年の農民戦争)が勃発した。

画像8


このときに鎮圧されたトルコ系やモンゴル系の人々は、現在にいたるまでロシアの支配下に入ったままだ。

バシキール人


カルムイク人

このプガチョフを極悪人としてではなく、人間味あふれる人物として描いたのが、ロシアの詩人プーシキン(1799〜1837年)による『大尉の娘』(1836年発表)だ。乱を鎮圧してからというもの、エカチェリーナ2世は貴族たちと妥協をし、農奴制を強めていくこととなった(農奴制の強化)。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊