同時に学べる!世界史と地理 Vol.17 1650年~1760年の世界
ヨーロッパ諸国が外に向けて発展し、海の重要性が高まる時代
歴史:この時代、大砲や銃が広まったために、ユーラシア大陸の草原地帯を牛耳っていた遊牧民の軍事力は、もはや「最恐」とはいえなくなった。
銃を手にした定住民たちの「時代到来」ですね。
地理:でもね、この時代は「ミニ氷期」ともいわれる寒い気候が世界各地を襲ったこともあり、経済活動はスランプにおちいってしまうんだ。反乱とか革命とか、良からぬことが各地で同時多発的に起きているよ(地域差はあり)。
この時期の終わりに向け、太陽の活動も弱まっていったようだ(注:マウンダー極小期)。
立ち行かなくなった各地の国々は貿易の利益を求めてますます海沿いに進出していくよ。
太陽の活動と地球って関係あるんですか?
地理:関連性についてはまだわかっていないことも多いんだけど、さいわいこの時期にヨーロッパの科学者が太陽の表面の観測をしていたために、太陽活動が弱まったことがわかっているんだ。
この時期には世界中で反乱、戦争、内乱など、不穏な動きがオンパレードの時代だ。
前の時代は「 拡大 」の時代だったのに…
歴史:拡大にも「限界」があるからね。開発をし過ぎれば、環境破壊にもつながるし。
面積の狭いヨーロッパの国々は「限界」突破のため、盛んにアメリカ、アジア、アフリカに進出し、利益につながりそうな物を自分の国に持ち込んだ。とくにアメリカはスペイン(一部、ポルトガル)によって利用されるだけ利用されていく。
ただ、ヨーロッパ各国は資源争いを背景をして、「宗教」の考え方の違いを口実(こうじつ)に、国と国とのケンカがエスカレートしているよ。
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●1650年~1760年のアメリカ
歴史:アメリカは、いちばん先に乗り込んだスペインと、あとからやってきたフランス、イギリスとの間で「植民地取り合い合戦」がはじまっている。
どうしてアメリカに進出しようとしたんですか?
歴史:寒い地方の動物の毛皮や、魚をとることが目的だ。
ヨーロッパにとってはアジアに向かう西まわりのルートをとる際に、カナダが地理的に重要だ。
地理:それに北アメリカの東海岸沖は世界的な漁場(注:北西大西洋漁場)で、水の深さが浅くなってくるところにタラ、ニシン、カレイなどが集まってくる。
浅い海は魚が産卵する場所だし、魚のエサ(注:プランクトン)も多い。大陸のそばにある浅い海底(注:大陸棚)や、そのうちのさらに浅くなっている部分(注:バンク)は良い漁場になりやすい。
漁師たちは魚を大量に捕まえて塩漬けにし、それをヨーロッパに売り込んだんだ。
ヨーロッパの人たちは魚が好きなんですか?
地理:キリスト教ではお肉を避ける伝統行事(注:四旬節)があって、その間の食べ物として魚が重宝されたんだ(魚はOKとされた)。
それに、当時のヨーロッパの人たちはそこまでお肉を食べまくっていたわけでもないんだよ。
魚のほかには寒い地方の動物の毛皮の取引も重要だ。
歴史:「インディアン」と呼ばれた先住民族たちは、ヨーロッパの人たちが自分たちの土地を奪おうとしていることが分かると必死の抵抗をこころみるものの、持ち込まれた病気によって人口は減っていった。
武器などの点でも圧倒的な差があったから多くが悲惨な結果に終わったけど、なかにはヨーロッパから持ち込まれた馬を駆使した民族や、逃亡した黒人たちと強力してヨーロッパ人に立ち向かおうとした民族もいたんだよ。
やられっぱなしではないわけですね。
歴史:インディアンたちにとって面倒だったのは、ヨーロッパの国どうしの「駆け引き」に巻き込まれたことだ。
たとえば、イギリスとフランスは、ライバルどうしの先住民族をそれぞれ応援し、武器を与えて戦わせた。
悲惨ですね…。アメリカ大陸に進出しようとしたのは他にはなかったんですか?
歴史:赤道に近い熱帯の島々が浮かぶカリブ海には、イギリス、フランスのほかにオランダも進出したよ。
ここは島が多く、日本で言うところの「台風」であるハリケーンもたくさん発生するから警備が手薄になりがちな場所で、先に来ていたスペインがうまく支配することができていない場所だった。当時は「カリブの海賊」の根城になっていたんだ。
地理:でもサトウキビの栽培にもってこいの場所なので、当時ヨーロッパでヒットしていた紅茶に入れるための砂糖の多くが、ここに運び込まれた黒人によって生産されたんだ。
サトウキビってどんなところが栽培に向いているんですか?
地理:30度以上の高温と、たっぷりの水が必要だ。
原産地はオセアニアのニューギニア島だけど、現在の生産量はブラジル、中国、インドの順だ。
ヨーロッパ人は自分たちの紅茶に入れる砂糖がまさかそんなふうにして作られていたなんて、思いもよらないでしょうね。
歴史:だよね。
この「黒人奴隷」で「砂糖」をつくるビジネスで大儲けしたのがイギリスだ。イギリスが今後、世界ナンバーワンの先進国としてのし上がっていくきっかけとなったのは、大西洋をまたにかけたこの貿易だといわれているよ。
南アメリカはどんな感じですか?
歴史:ブラジルはポルトガルが支配し、その他のエリアはスペインが植民地にしているよ。各地からは特産品(ブラジルの金(ゴールド)など)がヨーロッパに輸出され、現地の人の気持ちを無視した支配が続けられた。
現地の人たちは一丸となって反乱を起こしたりしなかったんですか?
歴史:もともといた先住民族に「まとまり」はなかったし、ヨーロッパ人との結婚も世代を追うごとに普通になっていった。さらにそこへアフリカ人が奴隷として流れ込み、人種を超えたカップルも生まれる。
そうなると、とっても複雑な社会になりそうですね。
歴史:そうだね。
ただ、この時代には、かつて広い範囲を支配していたインカ帝国という国の、支配者の子孫を名乗る者が各地で反乱を起こすようにもなっている。成功はしなかったけどね。
また、アメリカでスペイン人の両親から生まれた人たちの中には、「アメリカ生まれ、アメリカ育ち」という、「スペイン人とは違うんだ。俺たちはアメリカ人だ」という意識も生まれていく。
こういった雰囲気が、次の時代になるとスペインに対する反抗につながっていくことになるんだ。
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●1650年~1760年のオセアニア
歴史:この時代は、オセアニアに一体どんな人たちがいるのか、ヨーロッパ人に「バレてしまう」時代だ。
わたしたちにはオセアニアに長い歴史があることがわかりますが、ヨーロッパ人にとっては分かりませんもんね。
歴史:そうだね。この時代にはオランダ人の探検家が細かく調査をしたのだけど、報告書を読んだヨーロッパ人の中には「現実とは違った」イメージを持つ人もでてくる。「のんびりしたパラダイス」とか「文明を知らない人たちの素朴な楽園」みたいなね。
地理:オーストラリアもまだ外部との接触がない。
先住民のアボリジニーは、狩りや採集による生活を続けている。
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●1650年~1760年の中央ユーラシア
歴史:この時代になると、定住民の軍事力が、草原地帯の遊牧民のパワーにいよいよ追いつくようになる。
大砲や銃の力ですね。
歴史:そうだよ。火薬の力が馬の力に勝ったわけだ。
草原地帯では、モンゴルの血を引く遊牧民のリーダーによる「最後の遊牧帝国」が勢力をのばすけど、中国の皇帝によって、砂漠地帯に住んでいたトルコ系のウイグル人たちとセットにされて、支配下に置かれることになってしまった。
当時の中国の皇帝って、北部出身の民族なんですよね。
歴史:もともと漢字も使えなかった女直(じょちょく)という民族だ。この時代に領土を拡大させていき、西から領土を拡大したロシアとの間に、国境線を引いているよ。
ロシアってヨーロッパの国なのに中国のほうまで拡大しているんですね…
歴史:ロシアはかつて長い間モンゴルの支配を受けていたから、草原地帯の事情には詳しかった。
地理:北の方に広がるさむ~い森林や平原を東に東に進んでいったんだ。
ウラル山脈というゆるやかな山脈(注:古期造山帯)を超えれば、低い平原(注:西シベリア低地)がどこまでも続いている。
そんなところまで遠征する兵隊はどうやって集めたんですか?
歴史:モンゴルの子孫の人たちやトルコ系の遊牧民に頼んだんだ。「征服したら、そこに自由に住んでいいよ」っていうことで。
外国を支配するために外国人を利用したわけだ。自分の手は汚さずに済む。
そんなところに進出して何かいいことがあるんですか?
地理:針葉樹林(注:タイガ)には、寒いところに適応した動物たちがたくさん分布している。
この毛皮を集めてセレブに売ったんだ。
とくに中国の皇帝にはラッコの生皮が高く売れたんだよ。
毛皮ですか…今でも高級品ですもんね。でもとんでもない距離ですよね、地図でみると。
地理:たしかに広いけど、地図での見え方と実際の広さとでは、イメージが違うかもしれないよ。
北極に近いほど大きく見えるように作られている地図が多いからね(注:ミラー図法、メルカトル図法)。
本当の面積に即して調整すると、こんな地図になる(注:正積図法)。
インドの北のチベットはどうなっていますか?
歴史:チベットでは、モンゴル人のリーダーがチベット人の仏教のお坊さんを保護し、強力な国が建設されているよ。
しかし、モンゴル人とチベット人が手を結ぶことを恐れた中国の皇帝は、軍隊を出動させてチベットの大部分を占領してしまった。
それ以来、チベット人は間接的に中国のコントロール下に置かれることになっている。
チベットの人たちはどんな暮らし方をしているんですか?
地理:水が得られるところでは農業もできるけど、家畜の遊牧をしている人も多い。
リャマやアルパカですか?
地理:ここにいるのはヤクっていう家畜だよ。
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●1650年~1760年のアジア
歴史:この時期には寒かった気候がいったん持ち直し、各地で「開発」がすすみ、人口が増えていくよ。
日本でも、今まで田んぼのなかったところに新しく田んぼがつくられるようになったのもこの時代だ。
技術が発展したっていうことですか?
地理:文字の読める人が増え、新技術が伝わりやすくなったことも大きいね。だけどアジアの場合は人口が多いから、マンパワー(人の力)に頼ったところが大きいかな。お米は小麦に比べ、狭い面積で育ててもたくさんの人を養えるだけの収穫が見込めるから(注:人口支持力が大きい)。
この時期につくられた集落は今でも日本のあちこちに残っている。「○○新田(しんでん)」という名前がついているところが多いよ。
収穫が増えれば、商業も盛んになりそうですね。
歴史:そうだね。日本各地を結ぶ貿易ルートが整備され、大商人が特産品を仕入れて全国に売り出し、ヒット商品も数多くできた。
日本には、沖縄にある琉球(りゅうきゅう)王国を通して、中国や東南アジアの特産物が流れ込んでいたよ。
あれ? 日本は「鎖国」(さこく)していたんじゃないんですか?
歴史:実は日本は外国との関係を100%閉ざしていたわけではなく、窓口として4か所のドアが開かれていたんだよ。
青森からは北海道のアイヌ。
福岡の北にある対馬(つしま)からは朝鮮。
長崎ではオランダと中国。
鹿児島を通して、沖縄。
窓口の所在地には外国の事情に詳しい支配者が置かれ、国の管理下で貿易が行われていたんだ。
ずいぶん貿易が盛んですね。当時の中国も貿易に熱心だったんですか?
歴史:当時、中国の北にいた女直(じょちょく)という民族が、モンゴル人を味方につけて中国の皇帝に即位していたよね。
でも、この女直に滅ぼされた前の皇帝一族は、復活を夢見て南のほうに逃げていたんだ。
中国の南の方には港町がたくさんありますから、経済力がありそうですね。
歴史: 広州や泉州、寧波(にんぽー)といった港町だね。
前の皇帝一族の中には、当時東アジアの海で活躍していた武装民間商人グループと協力し、女直を中国から追い出そうとした人もいた。
そこで女直人の皇帝は、この武装民間商人グループのアジトである台湾を攻撃し、占領することに成功。
前の皇帝一族を完全にやっつけることに成功したんだ。
大変でしたね。でも女直人が、圧倒的多数の中国人を支配するのって大変じゃないんですか?
歴史:その通り。
だから、甘くするところはそれなりに甘く、でも厳しいところは徹底的に厳しい態度を見せて、批判が出ないようにおさえこんだ。「女直人に協力すれば有利になるぞ」と、中国各地の有力者たちをうまーく取り込んだんだ。税のとり方をシンプルにしたことも好評だった。
それにこの時代には人口が1億人から3億人にまで増えている。
えっ、もうそんなにたくさん…。どうしてですか?
地理:この時代に導入されたアメリカ産の野菜(トウモロコシやジャガイモ)の導入の効果が起きいよ。
歴史:領土もかなり広がって、現在の中国の領土よりもちょっと広いくらいのエリアまでになったよ。
庶民の文化も発展して、小説から人生論まで様々な書物が出回った。
海外貿易は認められていたんですか?
歴史:皇帝は「海賊」対策のため、貿易ができる場所を4か所に限定した。
ヨーロッパ人の進出を防ぐ意味でもあったんだよ。
それを嫌った中国南部の商人たちは、こぞって東南アジアに移り住んでいった。東南アジアに今でも中国系の人たちがたくさん住んでいるのは、これがルーツだよ。
でも、この時代の終わりごろにはヨーロッパ人が中国との貿易を求めて盛んに来航するようになり、皇帝は中国の南にある広州という港に限って、免許を与えられた民間のビジネスマンによる貿易も認められた。
中国の貿易は、皇帝に「あいさつ」する形での貿易が基本じゃなかったでしたっけ?
歴史:「朝貢(ちょうこう)貿易」のことだね。伝統的にはそれが基本だったんだけど、この時代になるとついに民間人の貿易が許可されたわけだ。
中国からはどんなものが積み出されたんですか?
歴史:ヨーロッパでブームになっていたお茶がヒット商品だ。
イギリスはこのお茶代金によって貿易赤字になってしまうほどだった。
中国といえば烏龍茶ですよね。
地理:でもヨーロッパでは紅茶のほうが人気だよ。
お茶は、日当たりがよくて雨がたくさん(少なくとも1300~1400mm以上)降る温暖なところでよく育つ。
季節風の影響で夏場に雨が大量に降る中国南部は、世界有数のお茶の産地だったんだ。
○1650年~1760年のアジア 東南アジア
歴史:東南アジアでは貿易の利益を握った王国が、各地で栄えている。
また、中国で貿易の制限が強まると、それを嫌った中国商人が拠点を東南アジアに移していくよ。
ヨーロッパの進出はどうなっていますか?
歴史:前の時代にはスパイスの貿易が盛んだったよね。
スパイスって持ち帰るだけで高く売れたんですよね!
歴史:はじめはね。
でも当然ずっーとやってれば飽きられるし、珍しくもなくなる。
この時代にはスパイスの価格は暴落し、もうからなくなったオランダは島の支配へととりかかるんだ。
オランダは後から新規参入してきたイギリスを追い出し、現在のインドネシアの島々の支配地域を広げていくよ。
貿易から支配への方針転換だ。
この地を支配していたイスラーム教徒の王様たちは次第にオランダの言うことを聞かざるをえなくなり、コーヒーやお米を輸出向けに栽培させて利益を上げようとしたんだ。
ヨーロッパの支配は東南アジア全体に及んだのですか?
歴史:まあ「支配」といってもこの頃のヨーロッパには、まだまだアジアの国々を支配できるだけの経済力も軍事力もない。
特に大陸側の東南アジアでは、ビルマ、タイ、ベトナムにあった王国が貿易ブームの恩恵を受けて絶好調だ。
この地域は農業も盛んですよね。
地理:大きな川が北の高い山から大量の土砂を下流に運んで来るから、河口付近には「三角州(さんかくす)」という低くて湿った土地が広がっている。
しかも季節風が大量の雨を降らせてくれるから、米の栽培にはもってこいだ。
雨季と乾季の区別がハッキリしているところでは浮き稲という、水深が高くなるとそれに合わせて根っこが伸びるタイプの稲も栽培されている。
○1650年~1760年のアジア 南アジア
歴史:南アジアにはムガル帝国というイスラーム教徒を支配者とする国が領土を広げていた。
貿易が盛んで、ヒット商品だった綿織物の生産により、アジア有数のリッチな国にのし上がっているよ。
皇帝はイスラーム教徒だったけど、ヒンドゥー教徒に対して手加減をしていたんですよね。
歴史:そう、現実的な支配を心がけたんだね。
インドの建築様式を取り入れたタージ・マハルという巨大なお墓(皇帝の奥さんの墓)からも、インドの文化を柔軟にとりいれようとした跡が読み取れる。
でも、その後即位した皇帝が、マジメにイスラーム教の決まりを実行しようとしたものだから、イスラーム教徒ではないヒンドゥー教徒からも税を取り立てようということになってしまった。
ヒンドゥー教徒からの税は免除されていたはずですよね。
歴史:だよね。
これがもとで各地のヒンドゥー教徒が反乱を起こし、帝国はバラバラに。
そのスキに、東南アジアの支配をあきらめたイギリスが、インドを支配しようと沿岸の港町をゲットし、貿易の拠点をつくっていったんだ。
イギリスは、同じ頃インドに進出したフランスを戦いで破り、インドの支配をほぼ独占することになるよ。
インドは完全にイギリスの植民地になってしまうんですね。
地理:その影響は今にも残っている。いまでもインドでは英語が公用語とされているし、イギリスで流行したクリケットというスポーツ大会には今でも参加している。
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●1650年~1760年のアフリカ
歴史:アフリカの国々にはヨーロッパ人の商人が奴隷や象牙、金(ゴールド)目当てに進出している。
ヨーロッパの国々は植民地は作らなかったんですか?
歴史:熱帯特有の病気にかかる心配もあることから、本格的な植民地化はまだだけど、温暖な気候である南アフリカには、オランダ人が植民地をつくっているよ。
西アフリカはどうですか?
歴史:サハラ砂漠からナイル川に向けた貿易ルートには、ハウサ人という民族がいくつも国をつくっている。各地で王様が貿易の富を独占して栄えたんだ。
ハウサ人ってどんな人たちですか?
地理:チャド系といわれる言葉のグループに属する人たちで、今のナイジェリアにたくさん分布している。
商売が得意だったので、今でもハウサ語は西アフリカのビジネス共通語だ。
歴史:一方、海岸近くでは相変わらず奴隷をヨーロッパの商人に売り渡ししていた王国が栄えている。
積み出した特産物によって、今のガーナのあたりは黄金海岸、リベリアのあたりは胡椒海岸、コートジボワールという国のあたりは象牙海岸というふうに呼ばれているよ。
アフリカ人がアフリカ人を奴隷として売っていたってことですよね。
歴史:アフリカにもさまざまな民族がいるからね。悲劇だよね。
西アフリカの遊牧民の中には奴隷貿易に反対し、イスラーム教の“正義”の下で広い地域をまとめようとする運動も起きるようになっているよ。
また、この時期には従来のモロコシ(ソルガム)に代わって、アメリカ大陸から伝わったトウモロコシの栽培も導入されている。
北アフリカはどのような状況ですか?
歴史:オスマン帝国の影響力がどんどん弱まっている。地元の有力者が各地で勢力を強めている状況だ。
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●1650年~1760年のヨーロッパ
歴史:この時代のヨーロッパは「17世紀の(全般的)危機」ともいわれるとっても「スランプ」にあたるんだ。
どうしてですか?
歴史:気候が寒くなったことが、無視できない原因だ。
農業が立ち行かなくなったため、特にイギリスでは農業の技術革新(注:農業革命)が起きている。飢えに苦しむヨーロッパの農民を救ったのは、アメリカ大陸から持ち込まれたジャガイモだった。
この時期にはイギリスのロンドンを流れるテムズ川は冬にひんぱんに氷結。オランダの運河も同じように凍ってしまい、オランダ衰退の背景となったと言われている。
そんな時期に、ジャガイモは「飢え」をしのぐために導入されていったんですね。
歴史:国をあげて栽培を奨励するところもでているよ。
狭い土地でたくさんの収穫が見込めるし、手もかからない。
ある意味、ジャガイモのおかげで「工業化」が実現できたといっても過言ではない。
同じ時期にはトウモロコシの栽培も広まっている。
ヨーロッパはとっても大変な状況だったんですね。
歴史:あれだけ盛んだったアジアの貿易も不振となり、「宗教がらみの戦争」も各地で起きていたからね。
「宗教」ってキリスト教ですよね? キリスト教の教会のパワーは弱くなっているはずなのに、どうしてまだ「宗教がらみの戦争」なんて起きるんですか?
歴史:以前からキリスト教のローマ本部のパワーが弱くなり、各地で「独自のキリスト教」が生まれ、ローマ本部から独立しようとする動きが起きていたよね。
ローマのキリスト教本部は、国なんて関係なく「全世界」のキリスト教を目指していたわけだけど、この時代には各国が「自分の国限定」のキリスト教」をバックアップするようになっていたんだ。
だから、一見「宗教」と「宗教」の争いのようにみえるけど、実のところは「国」と「国」との争いというわけなんだ。
現在の「国」との違いはありますか?
歴史:いちばん大きな違いは、「国民」は「国」の持ち物だっていうことだね。
「国民」には、国に関する決定権なんてない。
「国」は一部の王家や貴族が運営するもので、由緒正しい王家がいくつもの国の支配者を掛け持ちしていることだってある。
ただ、それぞれの国が自分勝手に行動した結果、ドイツで史上最悪の戦争が起きてしまったことを反省し、「人様の国の中で起きているケンカには口出ししない」「ケンカが起きたら、関係各国の国が集まってミーティングをし、取り決めを決める」「普段から国と国との間に外交官を送り合って関係を取り合う」といった国を超えたルールがつくられていくよ。
今では当たり前のようなルールですけど、このころのヨーロッパで生まれたものなんですね。
歴史:そうだね。
ただ「ヨーロッパ」といってもこの頃には地域によって大きな差も出ているよ。
例えば西のほうのヨーロッパでは、王様が商人の富を利用しつつ、あの手この手で強い国をつくろうとしている。イギリスやフランスが代表例だ。
東のほうのヨーロッパでは、ロシアが西はバルト海、東はアジアのほうまで領土を広げているよ。
バルト海はヨーロッパの北にある海で古くから貿易が盛んなエリア。周辺のスウェーデン、ポーランド、ロシアが支配権をめぐって争ったんだ。
ポーランドって強くて大きな国だったんですよね?
歴史:今とは比べものにならないほど巨大な国だったんだ。でもこの時期になると、西からはドイツ人、東からはロシア人に挟まれて、しだいに衰えていくよ。
国の大部分が真っ平らな平野だから、外からの侵入を受けやすいことが弱点だった。
ドイツ人の力も大きくなっているんですか?
歴史:うん、ドイツ人の国として「プロイセン」と「オーストリア」という新興国が成長している。
だけど、「ドイツ」というまとまった国はないよ。
どういうことですか?
歴史:「ドイツ語」を話す人の住む地域を「ドイツ」ということにすると、その地域をカバーしていたのは神聖ローマ帝国という国だ。
でも、当時の神聖ローマ帝国はもはやいくつものドイツ人の国があつまったグループのような存在。皇帝は「名誉会長」のような存在だ。
「名誉会長」って必ずしもパワーがあるとは限りませんね。
歴史:そうなんだ。でも、由緒はあるから威厳はある。
当時の神聖ローマ帝国の皇帝(=「名誉会長」)を務めていたのはオーストリアの支配者だ。
その頃、オーストリアは、地中海からアラビア半島に付け根のほうにまたがる巨大な国をつくっていたオスマン帝国から、ハンガリーを取り返すことに成功。
オーストリアは、このハンガリーだけでなく、チェコというところの王様の位も兼任し、一大勢力になっていく。
どんどん強くなっているじゃないですか。
歴史:だけど、他の国がオーストリアのいうことを聞いてくれるとは限らない。その代表がプロイセンだ。戦争を2回もおこない、工業地帯を取り合っている。
「どちらが最強のドイツ人の国か」をめぐって争っているんだね。
でも「どっちもどっち」のところもある。産業は盛んではないし、土地にしばりつけられた農民も多い。
支配者の中からは「先進国」のイギリスやフランスの最新思想をとりいれて、支配の方法を改善しようとする人も現れるよ。もちろん「自由」や「平等」のような、支配に都合の悪い考え方までは取り入れないけどね。
イギリスやフランスはそんなに進んでいたんですね。
歴史:平和な世の中だったとは限らないけどね。
イギリスでは政治的に落ち着かない時期(注:名誉革命)が続くけど、この時代に「王様が無条件に偉い!」という考え方は否定され、「王様よりも議会の決定のほうが上!」という慣習が定着した。
それに比べてフランスでは「イギリスよりも遅れている」という意識が強い。海外ではイギリスとフランスの植民地取り合い合戦が100年続き、経済的にフランスはイギリスに立ち遅れてしまった。
なぜそんなに差がついてしまったんでしょう?
歴史:簡単にいえばイギリスは、国民からきっちり税をとる能力が高かったので他の国からの信用が高く、イギリスにお金を貸してくれるお金持ちは国内外にたくさんいたんだ。「イギリスにお金を貸せば必ず多くなって戻ってくる」という期待も高かった。
それにこの時代のイギリスではとっても効率よく農業を行うテクノロジーが開発されて食料の増産ができるようになり(注:農業革命)、みんながビジネスに専念できるようになった点も大きいよ。
国民の稼ぎが増えれば税金も増えるし、税金が増えれば軍隊を強くすることもできる。強くした軍隊でオランダやフランスと戦い、この時期には広大な植民地を世界中に獲得することになるんだ。
なるほど。それで「海の貿易ルート」を次々に広げることができたわけですね。
地理:そういうこと。
ロンドンの中心地には、「イギリスの国や会社にお金を貸せばもうかる」と考えた人たちが集まり、シティという地区はヨーロッパの金融の中心地に成長していった。有名人の集まる「サロン」的な「コーヒーハウス」も流行する。ここでの発言や議論は、政治・経済に関する言論冊子とともに活発化し、やがて政治・経済を動かす大きな力となっていくようになるよ(注:世論)。
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そのコーヒーって、輸入品ですよね。
地理:コーヒーは熱帯地域、しかも限られたところでしか栽培できないからね。
どういうことですか?
地理:成長期には1800~2500mm程度の雨が必要だけど、収穫期は「乾燥」が必要なんだ。
つまり、ただ暑いだけ、ただ雨が降るだけっていうのじゃなくて、雨季と乾季に分かれている必要があるってこと。それに暑すぎるのもダメ。年平均20度くらいがいい。
えっ、ちょっとイメージと違います。
地理:さらに日当たりが強すぎるのもダメ。土も栄養分があって、ちょっと酸性であるほうがいい。
ってなると、赤道の周辺で、しかも山や高地のような限られた地域しか適したところはないってことになるわけだ(注:コーヒーベルト)。
コーヒーベルト(AGFのウェブサイトより)
当時はレア物で、非常に高価だった。
で、貿易が盛んになるにつれ、ロンドンでは港も整備され、大きな船が乗り付けることができるようにもなるよ(注:現在のドックランズ、地図)。
再開発の進んだ現在のドックランズ
気候が寒くなって大変な時期だったからこそ、工夫をがんばってしたわけですね。
歴史:たしかに、後世に影響を与えた科学者や哲学者が活躍するのもこの時期だ。
「寒さ」によって 今までの価値観が崩れ、社会がひっくり返ると、それを乗り越える新しい「発想」が生まれたっていうふうに見ることができるかもしれない。
国や宗教の違いで血が流れる現状に対し、「古い考え方は捨て、理性的になろうじゃないか(注:啓蒙思想)」と「広い心」を訴えた思想家もいる。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊