5.1.8 封建社会の成立 世界史の教科書を最初から最後まで
さまざまな民族が行ったり来たりする“混乱時代”の西ヨーロッパでは、安全な移動すらままならない。
都市と都市を結ぶ物流は途絶え、商業は衰退した。
必要な物資の獲得は、物々交換やコミュニティでの助け合いに頼らざるを得なくなる。
農業をベースとした自給自足の生活だ。
同時期に商業がめちゃくちゃ栄えていた、イスラーム教の世界とは大違いだよね。
物流が滞ると、金属でできた貨幣(コイン)なんて、持っていたってたいした意味がなくなってしまう。
災害発生直後の被災地をイメージしてみるとよいだろう。
「水」は有るけれど「懐中電灯」が足りない人と、「お金」しか持っていない人がいたとしよう。
「お金なんていらないよ! 「懐中電灯」が欲しいんだ!」ってなるよね。そりゃ。
「水」を持っていて「懐中電灯」が欲しい人なら、「懐中電灯」を持っていて「水」が欲しい人をがんばって探すはずだ。
当時のヨーロッパにおいても似たような状況が起こっていたわけだ。
お金を発行しようにも、偽のお金を広域で取り締まることができるような強い権力者がいるわけでもない。
広い範囲にパワーをおよぼす統一的な国がないので、お金を盗む侵入者を逮捕してくれるような警察官も配備されていない。
《自分の命は自分で守る》
これが当時の西ヨーロッパの原則だ。
専門的には「自力救済」(じりききゅうさい)という。
《争い事は当事者間で解決する》
広いエリアを管轄する統一した裁判所があるわけじゃないので、もめごとは当事者間の決闘などによって決められた。
これを「私刑」(しけい)という。
こんな状況じゃ、弱い立場にある人は、生きていくために強い者を頼るしかないね。
やがて、各地に有力な“民間軍事業者”が出現。
彼らはある地域における人と土地をコントロールする「領主」へと成長していくことになる。
領主は配下の“家来”たちに土地を与え、主従関係を結んだ。
もともとゲルマン人の間には似たような制度(従士制度)があって、それが土地の授受をともなうようになったのだ。
家来は主君のために、騎馬軍団を組織して戦うことが義務付けられ、家来はさらにその下の家来を養った。
一般に、いちばん下っ端で実戦を担った家来のことを「ナイト」(騎士)というよ。
主君は自分の土地がほかの武装集団に奪われないように、より上のランクの方々の権威を頼って、形式的に自分の領地を「王や皇帝」「キリスト教の教会」などに”預ける“形をとった。
主君への忠誠を誓う儀礼(オマージュ)をおこなうと、土地を管理する権利が家来にあたえられる。
しかし、「王や皇帝」「キリスト教の教会」といえども、個々の領地に口出しすることはとっても難しかった。
「王や皇帝」「キリスト教の教会」のパワーがどれくらいあるかは、地域によっても異なるよ。
さて、以上のような形でやりとりされた土地のことを「マナー」という。
日本では、同じような意味の中国語を転用して「荘園」(しょうえん)と訳されるよ。
領主が支配権を及ぼすことができるのは、基本的には保有する領地の中だけ。
飛び地となっている領地も少なくない。
結果として西ヨーロッパ各地は、多数の領地が”モザイク状“に分布する分権的な状況となっていったのだ。
君主による統一的な支配よりも土地を通した個人的結びつきを重視する、このような社会のことを「フューダル」な社会というよ。
日本ではやはり中国の周の時代の制度名を転用し「封建社会」(ほうけんしゃかい)と呼ばれる。
ただし中国の封建制と違うところは、いくつもある。
必ずしも血の結びつきは重要ではなく、家来が複数の主君を持つことも可能だ。主君と家来との関係はあくまで契約関係だから、どちらかが破れば破棄は可能。主君には主君の、家来には家来の義務がある(双務的契約)。
主君であったとしても、契約に背けば家来たちが団結して反抗を起こすことも正当化されるのだ。
契約を重視するヨーロッパらしい側面だよね。
国王の称号をもっていたイングランド王、フランス王、ドイツ王(ローマ皇帝を兼ねていた)などは、形の上では立派な血筋をもつ“超人的”な存在とされた。
国王は不思議な力を持ち、手をかざすだけで病気が治るなどという奇跡(王の奇跡)も信じられていた。
西ヨーロッパで王を名乗ることのできたのは、イングランド、フランス、ドイツの王様たち。
彼らは”家来“たちに、公・侯・伯といったランクを与え、それに見合った土地の利権を与えることで従えようとしたのだ。
ただし、イングランド、フランス、ドイツの王は、それぞれイングランド、フランス、ドイツの“領主”であるという設定ではあるものの、実際に彼らの“家来”である「諸侯」たちも同じく領主である。
だから「諸侯」たちも、自分の“家来”(騎士)と封建的主従関係を結ぶことが可能なのだ。
契約関係はあくまで個人的なものに過ぎないから、主君の主君は主君とは限らない。
なかには多くの騎士をしたがえ、国王に匹敵するような「大諸侯」もいた。
水場と豊かな収穫の見込めるところや、鉱産資源の豊富なところなど立地の良い場所には、しだいに有力な「諸侯」が任命されるようになっていき、そのランクも世襲されるようになっていくよ。
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領主たちは荘園を、直接経営する領主直営地と、農民が”保有“する形をとる農民保有地に分けて管理した。
農民は奴隷として人格を完全否定されたのではなく、領主から土地を借り受ける形で保有することが認められていたのだ。奴隷とちがって家族を持つこともできた。
そのほうがやる気も出るしね。
ただし農民は領地の外に自由に出ることはできない。
「移動の自由」というものがないのだ。
そもそも領地の外に出ても自活することなんて普通はできないのだから、農民にとっても領主はみずからの生活の安全を保障してくれる”ありがたい“存在でもあるわけだ。
このような不自由な農民のことを、「サーフ(serf)」という。
日本語では「農奴」と呼ぶ。
奴隷の「奴」の字が入っているけど「奴隷」という意味ではないからね。
シャルルマーニュの治世の終わりに近いある晴れた春の日,ボドは早朝に起床した。何故かというと,この日は僧院の直営畑に働きにいく日だったからである。……その日は彼の賦役日であったから,自分で飼っている大きな牛と,突き棒でこの牛をそばで追う幼いウィド(ボドの子ども)を連れ,ちかくの小作地から出てくる仲間と連れだって出かけた。
混乱の時代に、農奴の側でも「みんなで助け合ってまとまろう」という動きもしだいに起きるようになっていく。
領主の支配に置かれた農奴たちは、限られた資源を活用するために、領主の保護をうけながら”みんなで利用する“エリアを確保していくようになった。
これを共同利用地(入会地)といい、共同の放牧地や森などに使われる。
森の薪(たきぎ)は、ガスや電気などない当時の人々にとって重要な燃料となったし、どんぐりなどの木の実は豚のエサにもなった。
農奴たちは領主の保有する館に一週間のうち数日間働き、あとは自分たちの保有する畑で働いた。自分たちの畑からとれた収穫は、貢納として領主に納めなきゃいけなかった。村にあった教会にも、『聖書』の規定にのっとって十分の一税というものを支払った。教会は赤ちゃんからお祭り、お葬式まで農奴の暮らしにあらゆる側面で関わる存在だったからね。
なにせ、コンバインもトラクターも除草剤も化学肥料もない時代である。
田舎に住んでいない人にとっては実感がわかないかもしれないけど、用水路の建設、雑草とり、収穫、粉挽き、災害対策など、農業にとって共同作業は必須だ。
収穫した小麦も、領主さまの貸してくださった粉ひき場のおかげで、小麦粉にすることができた。また領主さまのパン焼き場でパンに焼くことができた。
領主さまと教会のおかげで、農奴は日々の暮らしを送ることができたわけである。だから農奴たちは、身内が亡くなると死亡税を領主さまに支払い、身内がどこかへ嫁ぐと結婚税を支払うことが当然とされたんだ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊