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13.2.1 アフリカ大陸の分割 世界史の教科書を最初から最後まで

今なお続く、植民地支配の補償問題

かつてドイツは、アフリカ大陸南部に「南西アフリカ」という植民地を持っていた。いまのナミビアである。
ここで1904〜1907年に、ヘレロ人が土地を奪われたことに対して放棄し、ドイツ軍は彼らを絶滅させようとし、8割近くが殺害された。

ドイツは、かつて第二次世界大戦中、ユダヤ人に対するホロコーストを実施したことで知られるが、実はアフリカに対しても人道的に問題のある虐殺をおこなっていたのだ。

ドイツが植民地時代の虐殺について公式に認めたのは、実は最近のことだ。


では、こういったヨーロッパ諸国のアフリカの植民地化は、どのような経緯で進んでいったのだろうか?


19世紀前半、ヨーロッパ人のアフリカに関する知識は、北部とインドルートの港などアフリカ沿岸部に限られていた。

アフリカの内陸部は、未知の地形・民族・感染症に満ちた、文字通り「暗黒大陸」だったのだ。

 ツェツェバエにより広まる眠り病



「暗黒大陸」から争奪戦へ



ところが同世紀半ば、リヴィングストンスタンリーが中央アフリカを探検して事情を伝えたのち、列強はこのエリアに関心を示すようになった。



1880年初めには、アフリカ大陸の赤道直下 ど真ん中に位置するコンゴ地域をめぐるヨーロッパ諸国の対立が勃発。

遅れて進出を開始したドイツ帝国も1880年代半ばに、カメルーン

南西アフリカ(現在のナミビア周辺)、東アフリカ(現在のタンザニア周辺)に進出。


しかし、“アタックチャンス”を狙おうにも、周辺はすでにイギリスやフランスにとられている。

ビスマルクは、「ヨーロッパの強国の領土あらそいを “仲裁” する形をとって、自国の植民地を確保しよう。それがヨーロッパの平和につながり、ドイツの発展のためにもなる」と判断。
1884〜85年にベルリン会議(ベルリン=コンゴ会議)をひらき、ベルギー国王の「私有地」としてコンゴ自由国の設立を認め、さらにアフリカの植民地化の原則(基本的に早い者勝ち(先に実効支配をした国に優先権が与えられる))を定めた。


ベルリン会議の風刺画 ビスマルクがアフリカを切り分けている




「私有地」って、おい...っていう感じだけれど、ベルギー国王レオポルド2世としては原住民たちを保護しようという理想があったようだ。

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しかし現実はうらはら、コンゴの人々は天然ゴム園ですさまじく非人道的な働かせ方をさせられた。

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ベルギー国王がタイヤでコンゴの男性をぐるぐる巻きに締め上げるという設定の風刺画。説明書きに「コンゴ “自由” 国」とある。


こののち、列強はアフリカに殺到し、あっという間にその大部分を切り分けて植民地にしてしまう。



これに対し現地の人々は、地域の自立や固有の文化をまもろうとして抵抗。
こうした抵抗運動は、やがて民族主義や民族解放運動に成長し、20世紀の歴史をつくる大きな流れになっていった。



イギリスの動き

イギリスは1880年代初め、ウラービー運動を武力で制圧。エジプトを事実上の保護下におき、さらに南部のスーダンに侵入した。
スーダンでは、預言者マフディーを中心とする国家が建設されていた。このマフディー派は、中国の太平天国の乱の鎮圧に活躍した将軍ゴードン指揮下のイギリス軍をハルツームを破り、一時侵入をブロックした。ゴードンもこのときに落命している。

しかし、最終的に1899年に征服された。



イギリスが植民地化していた現在の南アフリカ周辺部では、セシル=ローズ(1853〜1902)の指導で、ケープ植民地から周辺に侵攻する政策がとられていった。
1899年には、オランダ系のブール(ボーアに対し、熾烈な南アフリカ戦争がはじまり、激しい抵抗をうけながらも、ボーア人の独立国家であるトランスヴァール共和国(1852〜1902年)とオレンジ自由国(1854〜1902年)がケープ植民地に併合されていった。


イギリスはさらに、ケープタウンとカイロをつなぎ、インドのカルカッタを結びつける3C政策をすすめる。

画家・装飾美術家ウォルター・クレインによる《ストップ・ザ・ウォー》(1899年)
「…(クレインは)寓意画的な伝統にのっとりながら、第二インターナショナルの動きに連動するようにして、労働者の国際的団結や平和を積極的に訴えるパンフレットを何点か制作しているのである。たとえば、《ストップ・ザ・ウォー》(…、1899年頃)では、南部アフリカ侵攻をもくろんで大英帝国が仕掛けた第二次ボーア戦争(1899〜1902年)を背景に、ギリシア神話の女神ニケーかローマの女神パークスを連想させるような女性寓意像に託して、半軍国主義のメッセージがストレートに表現されている。下の銘文には次のようにある。「戦いで双方が大きな痛手を負っている。博愛の名のもと、共に手を引き、頭を使って同意の基盤を見つけよう」。(岡田温司『反戦と西洋美術』ちくま新書、2023年、47-48ページ)
ウォルター・クレイン《社会主義と帝国主義の鬼火》(1901年)
「「社会主義」が新しい白熱電球に、「資本主義の搾取」と結託した「帝国主義」が人をたぶらかす鬼火(ウィルオウィスプ)にそれぞれなぞえられていて、イギリス人民を象徴するひとりの男が、武装して英国旗を振る軍人を背負って鬼火のほうに向かっている。この男の背中にはまた「重税」の袋がずっしりとのしかかっている。庶民の血税で軍備が増強され戦争へと向かっているのだ。男は社会主義の女性寓意像に視線を送っている。その足元には、「庶民に家を、子供たちに食べ物を」「失業者に仕事を」などと、教科書のように明快なメッセージが刻まれている。」(岡田温司『反戦と西洋美術』ちくま新書、2023年、48ページ)




フランスの動きとドイツの挑戦

なお、この間フランスは、1881年にチュニジアを保護国にし、

さらにサハラ砂漠周辺をおさえた。
そしてアフリカを横断して、東アフリカの紅海(こうかい)に面する良港 ジブチや、

マダガスカル島をリンクさせようとした。

西アフリカでは、サモリ・トゥーレ(1830頃〜1900)が抵抗し、1898年に捕虜にされるまでイスラームにもとづく帝国を建設し、抗争をつづけた。


この計画はイギリスの推進する、アフリカ大陸をエジプトからケープ植民地までタテにつらぬく縦断政策(じゅうだんせいさく)とぶつかり、1898年に英仏戦争勃発 “一秒前”状態となる ファショダ事件が勃発。


赤ずきんはフランス。イギリスは狼。赤ずきん扮するフランスは「ファショダ」の文字のみえるクッキーを差し出している。つまり、フランスがイギリスにファショダに関して妥協したことが読み取れる。


ファショダ事件の風刺画。左のブルドッグがイギリス、右のプードルがフランス。


フランスが譲歩(じょうほ)して解決。ことなきを得た。


その後、両国が接近して、1904年に英仏協商が成立。
「エジプトではイギリスが優先」「モロッコはフランスが優先」というように、それぞれの支配を認め合うことでドイツに対抗しようとしたのだ。





ドイツ帝国はフランスが支配するモロッコに食い込もうと、1905年にモロッコの港 タンジール

に皇帝ヴィルヘルム2世がじきじきに上陸するという強引ぶり。
現地の王様と接触し「モロッコの領土について強国を集めて会議をひらこう」と要求した。


しかし、1904年にすでにタッグを組んでいたイギリスとフランスの“鉄壁”により、翌1906年にスペインのアルヘシラスというところで国際会議がひらかれ、ドイツの要求はくじかれることに。

しかし、それでもあきらめないヴィルヘルム2世は、1911年には再度大砲を積んだ軍艦をやはりモロッコのアガディールに派遣。フランスを牽制(けんせい)した。



しかし、このときもドイツ帝国はフランス領コンゴの一部を得るだけにとどまり、1912年にモロッコは結局フランスの保護国(ある国の外交や行政の権限を奪ってコントロール下に置かれた国)となる。

ドイツ帝国はけっきょく満足いく植民地を獲得することができなかったのだ。



イタリア王国の動き


なお、やはり統一の遅かったイタリア王国も、1880年代にはソマリランド

エリトリア

などの東アフリカの「アフリカの角」と呼ばれるエリアを獲得。さらにエチオピア帝国に侵攻したものの、1896年のアドワの戦いで敗北。

イタリアが進出しないように、イギリスやフランスがエチオピア皇帝に軍事的なサポートをしたとはいえ、この勝利はエチオピアの人々にとってのちに大きな誇りとなっていった。


アフリカ人がヨーロッパ人に勝利した、数少ない戦いの一つとして重要だ。



イタリアはさらに1911〜12年には、オスマン帝国の支配下にあったトリポリ

とキレナイカというエリアを戦争(イタリア=トルコ戦争)によって獲得。これを、古代ローマ帝国の呼び名にならって「リビア」と命名した。
オスマン帝国はさらに支配エリアを減らすこととなった。


独立を保った国家

こうして20世紀の初頭には、イタリア王国を撃退したエチオピア帝国と、アメリカ合衆国の黒人保護団体(アメリカ植民協会)によって解放された黒人奴隷を植民させ1847年に独立させたリベリア共和国をのぞき、ほとんどすべての領域がヨーロッパ諸国の植民地下に入ることとなった。



アフリカ分割のまとめ



・フランスはモロッコ(1912年保護国化)、アルジェリア(1830年)、広大なサハラ砂漠(フランス領西アフリカ(1894年))、フランス領コンゴ、マダガスカル(1896年)、紅海に面するジブチなど。


・イギリスはエジプト王国(ムハンマド=アリー朝)、スーダン、ケニア(1885年)、ウガンダ(1890年)、ローデシア、ベチュアナランド、マタベレランド、ケープ植民地など。


・イタリアは、リビア(トリポリ、キレナイカ)、エリトリア(1880年)、ソマリランド(1889年)


・ドイツは、タンガニーカ(1885年)、南西アフリカ(1885年)、カメルーン、トーゴなど。


・ポルトガルは、アンゴラ、ポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)など。


・スペインはモロッコの北部、モロッコ南部の現在の「西サハラ」など。


・ベルギーは、王様の私有地とされたコンゴ自由国を議会の決定によって領有(ベルギー領コンゴ(1908年))


こうした領域は、原料や資源を得るためや商品を売る市場、軍事基地として利用され、すさまじい非人道的支配がおこなわれた。
アフリカの人々の言語や民族の分布をガン無視し、ヨーロッパの強国は境界線を勝手に設定。
人々の交易ネットワークやつながりを無視した線引きによって、その後のアフリカの人々は想像を絶する苦労を背負うこととなっていくんだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊