5.3.9 スペインとポルトガル 世界史の教科書を最初から最後まで
イベリア半島には5世紀(今から1600年ほど前)以降、ゲルマン人でキリスト教徒の西ゴート王国(418~711年)が栄えていた。
しかし、711年にイスラーム教徒のウマイヤ朝によって滅ぼされ、その後756年には、アッバース朝に倒されたウマイヤ朝のカリフが西アジアから逃れて「後ウマイヤ朝(こううまいやちょう;イベリア半島のウマイヤ朝)」が建国された。
その首都コルドバには、アラブ人の先端文化が持ち込まれ、繁栄をきわめることとなった。
しかし、北部に退却していたキリスト教徒は、イスラーム教徒の勢力に対する戦争を、以後800年にわかって仕掛け続ける。キリスト教徒はこれを「レコンキスタ」(国土回復運動)と呼んだ。Re(もう一度)+conquista(征服する)という意味だ。
こうして、12世紀までにはイベリア半島の北半分はキリスト教エリアとなり、高原の多いイベリア半島各地に、いくつかの王国ができた。
西南部のポルトガル王国、北西部~中部のカスティリャ王国、東部のアラゴン王国だ。
カスティリャ王国
カスティリャ王国は、12世紀後半までにはマドリードやトレドのような中部の都市をイスラーム教徒から獲得し、15世紀後半までにはコルドバ、
壮大なモスクの建てられたセビリャ(現在ではキリスト教の聖堂として使用され、コロンブスの墓がある)、
コロンブスの出港したパロス港といった都市も獲得。
アラゴン王国
一方、内陸のサラゴサ、沿岸のバルセロナや
バレンシア
を擁するアラゴン王国は地中海に接し、さかんに地中海の東方面の貿易に乗り出すようになっていった。
カスティリャ王国+アラゴン王国=スペイン王国🇪🇸
1479年には、カスティリャ王国の王女イサベルと
アラゴン王子フェルディナンドの
結婚によって両者は合体。
なんだかロマンティックだけど、まあ政略結婚だね。
こうしてイスパニア王国が成立した。
日本では「スペイン王国」と表すのが普通だから、それにならうことにしよう。
2人はスペイン王国を共同統治し、1492年には南西部のグラナダを落とし、イベリア半島最後のイスラーム教徒政権であったナスル朝を倒すことに成功した。
同年には、スペイン語の辞典を編纂させて「国語の統一」をはかるとともに、ユダヤ人やイスラーム教徒に対する追放令を出した。
追放されるイスラーム教徒
ユダヤ人やイスラーム教徒の中には、支配に服したり改宗したりするなどしてイベリア半島に残る選択をしたものもいたけれど、その多くは北アフリカへと逃れていくことに。
北アフリカから西アジアにかけて分布するユダヤ教徒(セファルディム)は、このときに逃れた人々の子孫であることが多いよ。
スペイン国王は”裏切り者”を探すために「異端」(いたん)を探す名目で、反対派の貴族に対し厳しい制裁を加えていったんだ。
ポルトガル王国とスペイン王国の大西洋ルート開拓
こうして統一を成し遂げたスペイン王国と、すでに15世紀後半に国王ジョアン2世(在位1481~95年)によって王権をパワーアップさせていたポルトガル王国は、競うようにしてアジアとの直接貿易ルートの開拓に乗り出すことになったのだ。
地中海を通る貿易は、イタリアのヴェネツィアやジェノヴァの商人や
イスラーム教徒のカーリミー商人(エジプトのカイロを本拠地とする商人グループ)に牛耳られていた。
前人未到の物流ルートを開拓すれば、アジアの富が独占できる。
そう信じたのだ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊