【ニッポンの世界史】#35 進む「世界史離れ」:文化圏学習・ナチカル・共通一次
これからいよいよ「ニッポンの世界史」にとってきわめて重要な1980年代に足を踏み入れます。
この10年を通して、世界史にいかなる意味がつけ加わり「世界史必修化」に至るのか。
”公式” 世界史と ”非公式”世界史の輻輳を追うことで、経緯を浮かび上がらせていきます。
「文化圏」学習の徹底:1978年度指導要領改訂
そのためにまずは "公式" 世界史の動向から確認していきましょう。
1970年度の学習指導要領改訂で導入された「文化圏学習」は、古代文化につづく時代を、ヨーロッパ文化圏・イスラム文化圏・東アジア文化圏の三大文化圏にわけて学んでいこうとするものでした。
1970年度版における文化圏学習の範囲は、ヨーロッパではルネサンス・大航海時代・宗教改革の時代、アジアの「専制国家」(明清・ティムール朝、ムガル朝の時代)のはじまる前まででした。
一方、1978年度改訂版はというと、その終期をさらに後ろへひきのばします。
古代文明以降の前近代全体を、文化圏の視点でとらえようとしたわけです。
そのことは科目の目標からも伺えます。
目標自体もかなり簡素化されていますね。
1978年度指導要領は、1980年代の「ニッポンの世界史」の方向性をうらなう上でも重要ですから、今回はもうすこし細かいところまで確認しておくことにしましょう。
優先された文化圏ごとの視点
1978年度版において徹底された形となった「文化圏」。
しかしその設定がかならず「三大文化圏」でなければならないとされていたわけではありません。
78年度版内容の取扱いには次のように記されています。
(1) 内容の取扱いに当たっては,次の事項に配慮するものとする.
ア 内容の(1)については,人類が,各地域の自然環境に対応しながら文明を築き上げていったことを理解させるとともに,各文化圏の素地がつくられたことに触れること.イ 内容の(2),(3)及び(4)については,次の諸点に留意すること.
(ア) 各文化圏の風土や民族に触れ,人々の生活の様子が具体的に理解できるようにし,政治の流れのみを追う学習にならないようにすること.
(イ) 各文化圏における歴史の発展や特色を把握させ,文化圏としてのまとまりに着目させること.
(ウ) 文化圏のまとめ方については,「地理」との関連に配慮するとともに,例えば,インドや東南アジアを独立した文化圏として取り扱うなど,いろいろと創意工夫すること.
この点について1970年度版の指導の際に配慮する事項では、「(1) 文化圏に関する事項の取り扱いに当たっては,生徒の理解を容易にするため,文化圏のまとめ方をいろいろと創造くふうすることが望ましい。なお,文化圏学習については,各文化圏における歴史の発展や特色について考慮して取り扱う。また,各文化圏の歴史をまったく分離して取り扱わないで,相互の関連を考慮しながら,世界の歴史の大勢と結びつけて正しく理解させるようにする」とされていました。
1978年度版と比較すると、相互の関連に関する記載が抜け落ちている点が注目されます。すくなくとも指導要領の文言の上では、文化圏ごとのタテ(地域)が優先され、時代ごとの地域間のヨコの連関は二の次とされたわけです。文化圏学習の範囲を18世紀に後ろ倒したことで、とくにみえなくなってしまうのは大航海時代以降の世界の一体化の動きです。
文化圏学習に対する批判は公示された当初からみられました。文化圏単位の学習は、世界史を各文化圏ごとに孤立した歩みととらえてしまうのではないか、文化圏ごとの特質を本質主義的にみてしまうのではにかといったものです。
これに対し、改訂にたずさわった文部省(当時)の星村平和は、文化を同じくする地域の歴史を考える際、その「文化圏」が形成される段階だけを学のはなく、たとえば中国であれば明、清まで、しっかりと見届ける。そうすればこそ、各文化圏がどのように発展していったのかがわかるのだと述べています(「「世界史」における文化圏学習」『社会科研究』28、20-28頁、1980年)。
文化に対する注目は、主題(テーマ)をあげて生徒に主体的に学習させる主題学習に関する記載にもあらわれています。
1970年代指導要領における主題学習の例は、以下のようなものでした。
一方、1978年度版では次のように項目が付け変わっています。
唐突に現れる「文化人類学」というキーワードは、すでに1970年代に近代批判や日本人論の流行とともに脚光を浴びた学問領域です。
1978年度指導要領については、気になった方はテクストを読んでいただくとして、とりいそぎ以上の点をおさえておけばよいと思います。
変わる高校現場と、歴史カルチャーの変質
この1978年度改訂版の学年進行での実施がはじまったのは1982年度のこと。この頃の高校現場の状況は、けっして平穏なものとはいえませんでした。
はやくも1970年代後半には校内暴力、いじめを苦にする自死、登校拒否(当時の言葉)、受験戦争といった学校をめぐる様々な問題が噴出(当時の議論としては田中孝彦「現代子ども論と人間像の探究」『教育学研究』47 (2)、p. 81-90、1980 年を参照)。
その主犯として槍玉に上がったのは、高度経済成長期の画一的な詰め込み教育でした。
そこで叫ばれるようになったのは「ゆとり」と「精選」。これらを基本軸として1978年度の改訂がおこなわれたわけです。
社会科教育の現場においても、生徒像の変化を指摘する声が相次ぎます。1979年から1982年までの世界史教育の動向を伝える、当時のある論考では、たとえば「教科書の内容が豊富すぎるからとか、授業進度がどうしても現代まで到達できないとか、時間も不足しているし、大学受験も考慮しなければならない」といった現場教師の悩みが掲載されているほか、「興味・関心を示さないとか、暗記科目ととらえているとか、理解力が低下してきた...教科書の文字すら読めない」という生徒側の問題点も紹介されています。
なかでも目を引くのは、「ヒトラーを英雄視する生徒」がいて困っているいう報告です(原田智仁ほか「世界史教育の動向」『社会科教育論叢』30巻、1983、28-35頁)。
やや世代が上にはなりますが、1970年代半ばから後半にかけて高校生活をおこなったメディア史研究者に、佐藤卓己(1960〜)がいます。
その佐藤の編著である『ヒトラーの呪縛』(飛鳥新社、2000年)において、自身の「ナチカル」(ナチカルチャー)体験をタイガー戦車のプラモデルやヒトラー暗殺をとりあげた学習用図書、あるいは映画「大脱走」などとの関わりをふりかえりつつ、佐藤は日本における戦争を扱った大衆文化の転換点が1978年にあったのではないかと指摘します。
その前年1977年に劇場版公開された「宇宙戦艦ヤマト」に少年たちは熱狂した。
共通一次試験と「世界史離れ」
歴史に新たな関心がひらかれる一方で、科目としての世界史の評判は、まったくよくありません。
それに拍車をかけたのは1979年にはじまった共通一次試験の導入です。難問・奇問の出題を減らし、「入試地獄」を緩和するというふれこみで導入されたこの試験は、さまざまな問題点を抱え込んだまま11年間つづけられることとなります。
当初は共通一次単独で受検者の到達度を測る出題とうたわれていた試験は、実際には大学個別試験との総合得点による判定が余儀なくされ、大学の序列化は加速しました。
また、点の取りやすい科目が選択される傾向が強まり、「社会科では、不利な世界史、日本史が敬遠され、「歴史離れ」が起きている」(「評判のよくない共通一次試験」『朝日新聞』1984年9月16日)といいます。
特に世界史の評判は1980年代を通してぐんぐん低下します。
東南アジア史研究者の山本達郎(1910〜2001)は、朝日新聞のインタビューに次のように答えています。
世界史を避ける理由として指摘されているのは、国立大学にあわせた進学校の入試戦略です。
もちろん ”世界史離れ” はひとえに受験によるものだけではありません。
1970年代で指摘したように、研究の深化や、非西洋圏の歴史を拾い上げようとする動きによって、教科書記載は厚みを増す一方でした。
にもかかわらず、これを統一するような「理論」は不在のまま。
先ほどの山下の指摘するように、大学教育においても「世界史」をひとつのパッケージとしてとらえる教育は進展していませんでした。
受験という "飴玉" のない高卒就職者にとっても、世界史イコール暗記地獄という見方は強まる一方であったのです。
(続き)
***
今回指摘した1978年度指導要領にみえる要素や、共通一次試験において進行した「世界史離れ」が、1980年代の「ニッポンの世界史」にとってどのような意味をもつものとなっていくのか。ひとつひとつ見ていくことにします。
(続く)
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊