7.3.3 サファヴィー朝の支配 世界史の教科書を最初から最後まで
イラン・イラクにまたがる広範囲を支配したティムール朝が衰えると、現在のアゼルバイジャン周辺
のトルコ系騎馬遊牧民の一派がイラン高原に侵入。
彼らの精神的な指導者だったのが、神秘主義教団の長 イスマーイール(在位1501〜24年)だった。
イスマーイールは、トルコ系騎馬遊牧民の軍事力によって、タブリーズ
を都にサファヴィー朝を建国。
イラン高原周辺にいた他のトルコ系騎馬遊牧民や、イラン系の農耕民を支配下におさめた。
《アゼルバイジャン出身のトルコ系の遊牧民がイラン高原を支配した》なんていうと、いったい「アゼルバイジャン人」の国なのか、「トルコ人」の国なのか、それともイラン人の国なのか、よくわからない感じだよね (笑)
まあかつてのセルジューク朝のように、中央アジアからやってきたトルコ人たちが、イラン高原を支配するっていうタイプの遊牧国家と見ればいい。
でも、住民の多くはイラン系の農耕民。
彼らを支配するサファヴィー朝は、やがて「イランっぽさ」を住民をまとめるための“旗印”として掲げる必要に迫られていくことにある。
その背景にあったのは、トルコ人のオスマン帝国の快進撃だ。
1453年にコンスタンティノープルを陥落させてからというもの、1517年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼしてカリフを保護し、聖地のメッカとメディナを守護するまでに発展していた。
そこで、スンナ派のオスマン帝国との差別化をはかるため、イランは「シーア派」をイランのイスラーム教の教義として採用したわけだ。
ただし、かつてこの地域で盛んだった戦闘的なシーア派(イスマーイール派)とは違い、穏健なタイプのシーア派(12イマーム派)を選んだ(現在のイランとイラクに多くの信徒がいる。12代目のイマーム(隠れイマーム)は今はどこかに隠れてしまっているが、いつか再び現れて、この世に正義をもたらしてくれると信じるものだ)。
サファヴィー朝はさらにイラン高原の「歴史」も重視。
古代のイラン人(ペルシア人)の王様の称号であった「シャー」を君主の称号として用い、イスラーム教のシーア派の信仰と、イラン人の民族意識をたくみにブレンドしようとしたんだよ。
現在も、イランとトルコの関係は良好とはいえない。
「イラン人らしさ」と「トルコ人らしさ」の“違い”のルーツの一つは、このころ以降の支配者の政策にあったといえる。
“イラン人魂”と“シーア派魂”を強調したサファヴィー朝は、アッバース1世(在位1587〜1629年)のときに最盛期を迎える。
オスマン帝国とたたかいイラクの一部を取り返すとともに、ペルシア湾の入り口にあるホルムズ島という島に居ついていた新勢力 ポルトガル人を追放することに成功。
インド洋の物流ルートにも積極的に進出し、首都イスファハーンにはヨーロッパをはじめ世界各地の商人たちでにぎわった。
イランがヨーロッパ諸国と外交やビジネスの関係を結んだのも、このときが初めてのこと。主力商品は、イラン産の絹(きぬ)だった。
現在のイスファハーンにも、当時のアッバース1世が王の広場を中心に整備した新市街の後が残されている。東西150m、南北500mの広場では、軍隊の閲兵式(えっぺいしき)や、イラン伝統のスポーツであるポロの大会も開かれた。
広場の後ろには「イマーム(シーア派の指導者の称号)のモスク」もあって、アラベスクの模様の描かれた澄み渡る青色のタイルが、息を飲むような美しさを放っている。
「イスファハーンは世界の半分」という言葉は、当時のサファヴィー朝がいかに繁栄していたかを物語るものだ。建築、美術、工芸などのイラン・アートも、この時期に最高レベルに発達していった。
だが、諸行無常。サファヴィー朝は次第に衰え、オスマン帝国には再びイラクを奪われることに。
現在「イラク」という国がある地域(ティグリス川とユーフラテス川の流域)に、シーア派の聖地が分布し信徒が多い一方で、スンナ派の人々も分布しているのには、オスマン帝国とサファヴィー朝による“イラクの取り合い”の歴史が関係しているんだよ。
ただ、スンナ派とシーア派の区別は、現在ほどハッキリしたものじゃなかったけどね。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊