見出し画像

7.1.5 明後期の社会と文化 世界史の教科書を最初から最後まで

国際商業の活発化は、中国国内の商工業の発展をおおいにうながした。その様子を見ていこう。

商業ブームと産業発展

長江の下流エリアは、これまでお米ばっかり植えられてきたところ。

しかし「自分たちで食べちゃうもののために土地を使うのももったないよなあ」「収穫しちゃったらヒマになるよなあ」ということで、土地と時間の有効利用のため、お金になる作物の“副業”がはじまった。

魅力的な商品を開発すれば、巨万の富を築くのも夢じゃない。


販売用商品の生産を取り仕切った地主や大商人は、ヒマな農民たちを募(つの)って、綿の布とか蚕の栽培といった「手しごと」をさせたのだ。


長江下流部の蘇州(スージョウ;そしゅう)という街は、商人たちで大賑わい。

「こりゃもうかる」ということがわかると、「お米は別の場所で作らないと足りなくなっちゃうよ」という状況になった。

そういうわけで明の末期にもなると、それまで稲作地帯だった長江下流江蘇や浙江(江浙(こうせつ);蘇湖(そこ))エリアに代わって、長江中流の湖北(フーベイ;こほく)・湖南(フーナン;こなん)エリアが稲作地帯となっていったんだ。
湖北と湖南は合わせて「湖広」(フーグヮン;ここう)エリアというよ。


また、当時世界的なヒット商品となったのは、中国の陶磁器
有名な窯元(かまもと)は各地にあったけど、とくに江西省の景徳鎮(ジンドゥーヂェン;けいとくちん)の陶磁器が大当たり。

画像5



中国の陶磁器は、インド洋を超え、オスマン帝国、ヨーロッパ諸国、アフリカ東岸などでも珍重されるほど。現代に例えれば、世界中でつかわれているiPhoneみたいなものだ。



中国商人は貿易によって蓄えた経済力を背景に、明の役人など権力者にも結びついた。
「賄賂を贈るかわりに、貿易を保護してね」といったような裏取引も蔓延。宦官をはじめ役人の汚職はしばしば問題となった。


商人は地域や親族別にさまざまなグループを組織し、各都市の中に会館(かいかん)や公所(こうしょ)と呼ばれる組織をつくった。
これにより、遠く離れた地でも「同業」「同郷」であれば、寝泊り・資金の貸し借りといった助け合い関係を築くことができたのだ。
中国国内だけでなく、国外にも建設されているよ。

画像6



銀による税の徴収がはじまった

また、がメキシコや

日本など

国外から大量に流入したこともあって、取引は銀でおこなわれるのが当たり前に。


16世紀には、これまでさまざまな区分にわかれ複雑だった税と徭役(人手を提供することで払う税)を一本化し、銀で納入するようになった。
これを一条鞭法(いちじょうべんぽう)という。
ただ、戸籍の登録を逃れるため、家族の人数を過少申告する“脱税”も当たり前におこなわれていた点には注意が必要。
当時の人口調査の資料があてにならないのは、このためだ。


富裕層向けアーティストが活躍

農民も銀で税を払うほど、お金による取引が当たり前となっていたこの時代。

都市には、商人のほか、科挙に合格したり役人を経験したことで名声を手に入れた郷紳(きょうしん)というエリートのようなお金持ちがあつまった。
自分の富を示そうと庭付きの豪邸が競って建てられ、元・高級官僚であった董其昌(ドンチーチァン;とうきしょう、1555〜1636年)のような富裕層向けアーティスト(書画)も現れたよ。



朱子学の改革者が登場

しかしその影では、競争にやぶれて貧しさにもがく人々がいたことも忘れちゃいけない。

同じ土地で死ぬまで生きる固定的な社会から、人々の移動が活発化するようになると、社会の秩序はおのずと不安定となる。

役人として、こうした社会の変化に対応しようとしたのが、王守仁(ワンショウレン;おうしゅじん、王陽明)という人物だ。


朱子学のいうように知識や修養にたよるのは外面的で、間違っている。
この世の真理は、自分をはなれた外の世界にあるのではなく、じつは自分自身の中にある。
彼は庶民だろうが誰だろうが、心の中には子供のときから本当の道徳をもっているはずだ。
“ありのまま”の善良な心を大切にすれば、かならずやこの世の真理に至る知識を獲得できる(到良知)。
だから心のままに実践をおこなえばよいのだ(知行合一(ちこうごういつ))。


王先生の自己啓発的な考えはとってもわかりやすく、学問を修める余裕などない貧しい人々だけでなく、商人たちの心をもとらえ、フォロワーは急増。

もちろん、こんなこといわれちゃあ、朱子学の先生たちも黙ってはいられない。
王はきびしい批判にさらされた。



「小説」が大人気

それでも、都市の庶民や商人たちが、変わりゆく社会を生き抜く知識や知恵、そして日々の暮らしに潤いをもたらす「娯楽」を求める思いは強い。

宋の時代に発明され、元の時代にさかんになっていた木版印刷を使った書物の出版はさらに増え、科挙の参考書、小説、商業・技術などの実用書の売れ行きがとくによかった。

小説としては以下のものが広まった。


・『水滸伝』(すいこでん)


・『西遊記 』(さいゆうき)


・『三国志演義』(さんごくしえんぎ)


・『金瓶梅』(きんぱいばい)


庶民向けの講談や、劇も、都市の盛り場や農村でおおいに受けた。
中国の劇は、鳴り物が大きく派手なことが特徴だ。



高まる理系人気

また、産業の発展を背景に、理系のテクノロジー解説本や理系本も人気を博した。


人生の全てを漢方薬研究にささげた男 李時珍(リーシーヂェン;りじちん)の『本草綱目』(ほんぞうこうもく)、


伝来したばかりのサツマイモの栽培法についての記述もある徐光啓(シーグァンチー;じょこうけい)の『農政全書』(のうせいぜんしょ)、


画像2


宋応星(ソンインシン;そうおうせい)があらゆる技術を詰め込んだイラスト入り解説書、『天工開物』(てんこうかいぶつ)が代表だ。

画像1

鉄をつくる方法



イエズス会が中国にヨーロッパの学問をレクチャー

こうした最新鋭のテクノロジーは日本など周辺諸国にも広まっていった。

新しいテクノロジーに刺激を与えた存在として、ヨーロッパから派遣されたイエズス会のメンバーも見逃すことはできない。​​​

みんなが知ってるフランシスコ=ザビエル(1506頃〜1552年)は、中国でのキリスト教(ローマ=カトリック教会)布教に失敗。

その遺志を引き継いだマテオ=リッチ(1552〜1610)は、中国の伝統文化をうけいれながら、キリスト教を中国の支配層(士大夫)に広めることに成功。

画像4



布教許可の見返りに、イエズス会の宣教師たちは中国人の常識をくつがえすさまざまな情報を与えている。

たとえば「世界地図」(坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず))、

画像3

太陰太陽暦である「崇禎暦書」(すうていれきしょ、のち時憲暦)、

ヘレニズム時代に完成した平面図系(ユークリッド幾何学)のテキストの中国訳などがある。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊