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8.2.2 ルネサンスの文芸と美術 世界史の教科書を最初から最後まで

ルネサンス文化の文学として最初期のものは、イタリアのフィレンツェで活動したダンテ(1265〜1321年)の『神曲』(しんきょく;ラ=ディヴィナ=コメディア)やボッカチオ(1313〜73年)の『デカメロン』(十日物語)といった作品だ。

だいたい日本でいうと『徒然草』(つれづれぐさ)の吉田兼好(兼好法師(けんこうほうし)、1283〜1350年)と同年代の人たちだ。

『神曲』は、ダンテが古代ローマの詩人に導かれ、地獄・煉獄・天国ツアーをする内容。
内容もさることながら、教養のある人しかわからないラテン語で書くのをやめて、普段の言葉であるトスカーナ地方の言葉で書いた点が画期的だった。

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『デカメロン』は、黒死病の大流行にふるえるフィレンツェの街から逃れた10人の男女(5×5)が、1日ごとに “すべらない話”を披露するという内容(14世紀の“テラスハウス”?)。


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『デカメロン』に衝撃を受けたイングランドでは、チョーサー(1340頃〜1400年)が英語(中英語)で『カンタベリ物語』を著している。

『カンタベリ物語』の冒頭では、カンタベリー大聖堂への巡礼を思い立ったチョーサーが、ロンドンの宿屋に聖職者、貴族、平民など、さまざまな巡礼団がやって来て、宿屋の主人とともに旅することになった経緯が語られる。

史料 『カンタベリ物語』より
パレスチナの聖地巡礼をする人は、海を越えて、外国へとあこがれる。
とくにイギリスでは、どの州のはてからも、カンタベリの巡礼を思いたち、病気をいやしてくだされた、聖トマスの参詣にでかけるのだ。[…]
ロンドンの南の地区の、スースウェルクというところにあった「陣羽織」という宿屋にとまって、そこで巡礼の支度をした。
すると、その夕方、29人もの団体が、どやどやとその宿屋にはいってきた。
聞いてみると、いろいろの人たちが途中で偶然おちあって、団体をつくったというのである。みんなカンタベリの巡礼に出かける人たちであった。
[…]だが、この「物語」をする前に、時間も暇もあることだから、この団体にいる人たちを、一人一人について、自分の見たとおりに紹介してみるのもムダではあるまい。

ワシントンD.C.、Library of Congress John Adams Buildingのエズラ・ウィンターによる壁画(1939年)、クリエイティブ・コモンズhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%89%A9%E8%AA%9E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Canterbury-west-Winter-Highsmith.jpeg

そして、宿屋の主人はつぎのような話を持ちかける。

「[…]カンタベリのへの旅の道草に、どなたも話を二つずつなさることにきめましょう、ようござんすか。帰りの途でまた二つずつ、昔起った事件の話を。で、みなさんのうちでいちばんうまくやってのけられた、つまり、いちばんためになり、またいちばんおもしろい話をされた方はどなたでも、カンタベリからのお帰りに、またここで、この場所で、この柱のところに坐られて、ほかのみなさんの費用で夕飯のご馳走をおごってもらうことにいたしましょう。」

西脇順三郎・渡辺一夫訳『チョーサー ラブレー 筑摩世界文学体系12』筑摩書房、昭和47年、14頁。

…つまり、これだ!


一行のなかには赦免状、すなわり免罪符(贖宥状)を販売する人もいた。

赦免状[筆者注:免罪符;贖宥状のこと]売りの話
[…]赦免状売りは言った。
「[…]自分はキリストの神聖なお仕事をおこなうにあたっては、大胆にも、わしの仕事を邪魔しようとする乱暴者に対しては、それが僧侶であろうと学者であろうと、自分の身をまもるために、この委任状におされてあるローマ法王の御印をまず見せてやることにしている。
 それがすむと、遠慮しないで、法王[筆者注:ローマ教皇のこと]や、法王の最高顧問官や、高級司教や僧正などの教書や委任状をみせてやります。
 わしが説教する時に、ラテン語を少し使うのは、説教を立派にみせかけて、人に宗教心をそそるためだ。[…]
 わしはこんなふうに説いてまわる。
 『みなさん、ご静聴を願います。牛や羊が蛇にかまれたり、虫にさされたりして、はれあがったときなど、この骨を井戸につけて、そのお水で、かまれた動物の舌を洗ってやれば、たちまちなおってしまう。また羊などにその水を飲ませると、どんなすり傷でも、皮癬(ひぜん)でも、吹き出物でもけろっとなおる。よろしいか』
 […]わしが赦免状売りになってからこういう手段を用いて、年々、百マルクの収入があった。[…]わしの説教の題目は年じゅう、金の欲ということだから、人はけちけちせずに寄付をだす。とくにわしにくれるのだ。またわしの説教の目的は、金をもうけることだけで、人の罪をさとすのでない。
 人が死んで埋められ、その霊魂がふらふらして極楽往生しかねても、わしの知ったことじゃない。

西脇順三郎・渡辺一夫訳『チョーサー ラブレー 筑摩世界文学体系12』筑摩書房、昭和47年、
152-153頁、太字は筆者による。



これらの著作は、今でこそ図書館の隅に収められる”つまらなそうな“”むずかしい“本に見えるかもしれないけど、権力者をバカにしたり、はたまた下ネタがあったりと、当時の人々の度肝を抜くようなものだったんだよ。


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また、ローマ=カトリック教会の権威に対し、知的に批判する人も現れる。

ネーデルラントの人文主義者であったエラスムス(1469年頃〜1536年)だ。

彼は、ローマ教会の腐敗っぷりを痛快に批判。
その著作『愚神礼賛(ぐしんらいさん)』論破ぶりに、多くの人々が夢中になった。
彼の肖像画はドイツの画家ホルバインによるものが有名。

ヨーロッパ各地を旅し、イングランドの政治思想家トマス=モア(1478〜1535)とも親交をむすんでいるよ。

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重要なのは、こうした著作が各国の地方語で書かれたという点。

ある地域で通用する地方語で書かれた著作が、多くの人々に読まれることによって、その地方語が現在の各国の「国語」形成につながっている場合もある。

作家によって頻度はまちまちだけれど、あえてラテン語で”書かない“というのが、ルネサンス文化の特徴だ。


なお、フランスではラブレー(1483?〜1553)が『ガルガンチュワとパンタグリュエルの物語』という、巨人族を主人公に据え、自由奔放にあらゆる権威を諷刺する物語を発表。かなり”危険”な内容で、1543年にはパリ大学により禁書処分をうけている。


ガルガンチュワ(ギュスターヴ・ドレ作)


史料 ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエルの物語』のうち『ガルガンチュワの物語』第13章
五年目の終り頃にグラングゥジエはカナール人どもを討ち平らげて凱旋し、息子ガルガンチュワに会いに来た。そこで彼は、己が愛児に対面する世の父親と同じようによろこび、接吻したり抱擁したりして、他愛もないこまごましたことをいろいろと訊ねたのであった。そして息子やその侍女たち相手に負けじ劣らじと杯を重ねたが、侍女たちに向かっては、何より息子をこぎれいにまた清潔にしておいてくれたかと、念入りに問いただした。これを聞いてガルガンチュワは、そういうことは実に立派にきちんとしておいたから、国ぢゅうを訪ねてみても自分くらい清潔な男の子はいないはずだ、と答えた。
 ――どうしてだな、それは? とグラングゥジエは言った。
 ――長いあいだの珍しい実験の結果、(とガルガンチュワは答えた、)ぼくは、今までなかったような、もっとも堂々とした、もっとも素敵な、もっとも工合のよろしい、おしりの拭きかたを発明しましたよ。
 ――どういうのじゃ? とグラングゥジエは言った。
 ――それは、(とガルガンチュワは言った、)ただいま申し上げるとおりです。
 ある時、誰か腰元のびろうどの小頭巾(カシュレ)を使ってみましたが、なかなかよろしゅうございました。なにしろ、絹の柔かさでおしりのところがとてもよい気持でしたから。[…]それから、草薮のかげでうんこを垂れていますと、弥生を一匹見かけましたので、こいつで拭いてみましたところが、爪でありのとわたりのあたりをずっと引っ掻かれてしまいました。
[…]

 かみなどでできたなきしりをふくやつは
 いつもふぐりにかすのこすなり

 ――これはしたり!(とグラングゥジエは言った、)このおちんちん小僧め、もう三十一文字などとしゃれるところから見ると、すっかりませてしまったのじゃな。
[…]
 だがしかし結論といたしましては、産毛のもやもやした鵞鳥の子にまさる尻拭きはないと判断しかつ主張する者であります。もっともその首を股倉で挟んでやるのがかんじんです。これは、ぼくの名誉にかけてお信じくださいませ。と申しますのは、鵞鳥の雛の産毛の柔らかさといい、そのほどよい加減の暖かさといい、おしりの穴にえも言われぬ心地良さをお感じになるからですが[…]。
 [以下第14章]このような言葉を聞いて、善良なグラングゥジエはわが子ガルガンチュワの秀抜な能力と驚くべき理解力とを想い、感嘆のあまり恍惚としてしまった。

西脇順三郎・渡辺一夫訳『チョーサー ラブレー 筑摩世界文学体系12』筑摩書房、昭和47年、300-302頁。



絵画


絵画の世界でも新しい技法と発想が持ち込まれる。
15世紀前半に確立された、一点透視法による遠近法だ。



初期の例としてはイタリアのジョット(1267?〜1337)による《聖フランチェスコの生涯》が画期的。


フィレンツェのドナテルロ(1286?〜1366年)の《聖ジョルジオ像》も、彫刻を石ではなく、まるで遠近法をもちいた絵画のように仕上げた風雲児だ。

美術室で探してごらん。

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対象を対象そっくりに写しとるリアリズム(写実主義)は、神様やイエス様、マリア様にも適用される。

たとえばラファエロ(1483〜1520年)はあたたかみのあるイエスとマリアの像(聖母子像)をたくさん描いている。


この頃になってくると、ただ単に”絵がうまい“というのではなく、「なんでもできる」ことが素晴らしい、「人間の可能性を最大限に伸ばすことがすごいことだ」という価値観がもてはやされるように。


レオナルド=ダ=ヴィンチ(1452〜1519年)のように、画家 兼 医学者 兼 武器開発者 兼 エンジニア...のような”なんでもできちゃう人“(万能人)も現れた。

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「中世」的な価値観では、万能なものは神様であるはずで、人間なんか足元にも及ばないはず。

でも、べつに人間が能力を最大化させていくことは、けっして神に対して失礼なことじゃない。


そういう価値観だ。

事実ダ=ヴィンチは、人体解剖にもトライし、

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はたまた武器や「空飛ぶ乗り物」の開発研究までやってのけた。最終的には、フランスの王様のもとに仕えているよ。

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言わずと知れた《モナ・リザ》はルーヴル美術館にある
バーチャル・ツアー


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ミラノにある《最後の晩餐(ばんさん)》




ラファエロレオナルド=ダ=ヴィンチ、それにミケランジェロ(1475〜1564年)を加え、盛期ルネサンス(1450〜1527年)の「三代巨匠」というキャッチフレーズで呼ばれることもある。



ミケランジェロといえば、『旧約聖書』に題材をとった《ダヴィデ像》の彫刻のほか、

ローマ教皇庁のサン=ピエトロ大聖堂の建築監督としても知られる。
大きなドームを持つルネサンス建築の代表例だ。

大聖堂付属のシスティナ礼拝堂の前壁面には、《最後の審判》という超大作が描かれた。天井にも聖書の書く場面がビッシリ描かれ、ミケランジェロのほとばしる才能を今にのこしている。


フィレンツェのシンボルであるサンタ=マリア=デル=フィエーロ大聖堂も、ルネサンス建築の代表例のひとつ。
コンペに勝ち抜き巨大なドームを建設したのは、ブルネレスキ(1377〜1446年)だった。彫刻家と知られていた彼は、ユニークなアイディアで巨大なドーム(クーポラ)の建設を可能にした建築家でもある。





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さて、このようにイタリアで盛り上がったルネサンス文化は、貿易ルートを通してネーデルラント(現在のベルギーやオランダ)にも伝わった。

この波を北方ルネサンスという。


今では当たり前となった油絵という技法に革命をおこしたファン=アイク兄弟(兄1366年頃〜1426、弟1380年頃〜1441年)は、その後のネーデルラントにおける「フランドル派」のルーツ。
兄弟の合作である《ガン(ヘント)の祭壇画》が有名だね。

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これは弟の作品《アルノルフィーニ夫妻像》。油絵技法が編み出されたことで、従来のテンペラ画ではできなかった重ね書きやグラデーション付けが可能となり、この絵のような超繊細なタッチでの表現が可能になったのだ。


またドイツでも、ルターの宗教改革に共感したデューラー(1471〜1528年)が、大量印刷の可能な「版画」を使った作品をつくり、多くの人に思いを届けようとした。《四人の使徒》が有名。
ローマ=カトリック教会に反発するルター派への共感を現した作品だ(→8.3.1「宗教改革の始まり」へ)。







このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊