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14.4.2 ニューディールとブロック経済① 世界史の教科書を最初から最後まで

「世界恐慌」(世界を巻き込む激しい不景気)の“震源地” アメリカ合衆国では、ニューヨーク州知事をつとめていたフランクリン=ローズヴェルト(在任1933〜1945年)が民主党の候補として1932年に大統領に当選。


スローガンは「3つのR」だった(救済(Relief)、回復(Recovery)、改革(Reform))。
猛威をふるう恐慌に対し、「すべてを新たに巻きなおしていこう」(ニューディール(新規巻きなおし))を叫び、国が民間の経済に首を突っ込む形の政策を実施していった。

ルーズベルトの主な支持母体は、労働組合、マイノリティ(カトリック、南部に多いアフリカ系の人々など)、農場経営者、知識人など。
正義を重んじ、公平な富の分配を主張。
そのために連邦政府の権限をパワーアップすることにも賛成した(「大きな政府」という)。
このクラスタは「ニューディール連合」と呼ばれ、第二次世界大戦後も大きな存在感を持ち続ける。アメリカで「リベラル」といえば、このニューディール連合にルーツを持つグループのことだ。



ニューディール政策


ニューディールの前半戦は「復興」がメインテーマとなった。
1933年3〜6月のいわゆる「百日間」の間に次々と法が制定されていく。

まず、貸した資金が戻らず、経営の悪化した銀行を救済。

また、農産物の生産を調整して価格を引き上げる農業調整法(AAA)を制定。家畜が買い上げられ、農家に補助金が支給された。

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航空写真で土地の利用が適正におこなわれているかがチェックされた。農業不況とダストボウルで荒廃していた農村部の立て直しを図ったのだ。

作家スタインベックの『怒りの葡萄』は恐慌期のオクラホマからカリフォルニアを舞台に、農民の苦悩を描いた作品だ



産業界に対しては、工業製品の価格を企業の間で事前に決めてもいいよとする全国産業復興法(NIRA)を制定。

また、テネシー川に巨大な複合ダムを建設するためのテネシー川流域開発公社(TVA)を設立。国が仕事をつくることで、失業者を減らし、建設業者をうるおわせようとする公共事業政策がはじまった。

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とりあえず復興はここまで。
ここからは「改革」に比重を置いたニューディール後半戦だ。

1935年5月には緊急救済法が制定され、失業対策が本格化。
しかし、5月末にはNIRAに最高裁によって違憲判決が下されてしまう。
「連邦政府によって州の権限を侵害しすぎだ!」という声があがったのだ。
アメリカ合衆国には、連邦政府に対して州の権利が最大限尊重されるべきという憲法上の規定があるからね。


焦った大統領は、1935年7月にワグナー法(全国労働関係法)を制定。
労働者の団結権(労働組合をつくる権利)と団体交渉権(労働組合が、企業のトップと労働条件について対等交渉する権利)を認め、労働組合をつくることを認め、労働者たちの支持をつなぎとめた(労働者たちが、社会主義の考え方に染まり革命を起こすのを警戒したのだ)。


また、8月には社会保障法を制定。
年金や失業保険が給付される事になった。
即時給付ではないし、少額だったけれども、アメリカ合衆国初の公的な社会保障制度だった。



ルーズベルト政権の労働者バックアップの姿勢を受け、これまでの全米規模の労働組合AFL(アフリカ労働総同盟)の「熟練労働者」重視の方針に反発する、「非熟練労働者」中心のグループがAFLから分裂し、

1938年に産業別組織会議(CIO)を設立した。
これ以降1947年までの間、アメリカの労働組合はAFLとCIOの二大労働組合が、政府や産業界への運動の主体となっていくよ。




しかし現在では、こうした政策が景気回復にすべて結びついたものとは考えられていない。

たしかに、この時期にルーズヴェルト大統領が全面に出て対応したことは、国民の不安を減らすのには効果があった。また、ルーズヴェルト大統領の政策が、憲法の三権分立の規定にのっとって、ちゃんと最高裁判所から意見の判決が出たことからもわかるように、イタリアやドイツのようなファシズムの方式とは一線を画すものだった。

しかし、国が主導して国民の福祉と経済のために、国が多くの支出を行うやり方は、その後のアメリカ政府の権限がどんどん膨らんでいくきっかけにもなった点には注意しよう(その延長線上にあるのが、第二次世界大戦への参戦だ)。

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アメリカ合衆国の実質GDP(1910〜1960年)ピンクの部分は恐慌期
GDPが本格的に伸びていくのは、太平洋戦争(1941〜1945年)以降のことだ。



ルーズヴェルト大統領の外交

世界恐慌に対する対策をおこなう一方で、ルーズヴェルト大統領は1933年、なんとロシアに成立していた社会主義国家の連合である「ソ連」を承認


資本主義体制と真逆の立場をとっていた社会主義国家を認めるとは、驚きだけれど、両者には「国際連盟」に加盟していないという共通点もあった。
その後、1934年にソ連は国際連盟への加入を果たすことになる。



ソ連は「社会主義」の国といっても、国が主導する形の社会主義をとっていたから、国の保有する企業はあるし、お金を廃止していたわけでもない。
アメリカはソ連を認めることで、経済関係を樹立しようと考えたわけだ。



また、保護国化していたキューバについても、1934年にそれを認める条項(プラット条項)を憲法から廃止した。
政治に対する干渉をひかえ、経済関係を樹立しようと考えたわけだ。
関係が良好になったほうが、農園・工場・リゾートなどの開発への投資もしやすいしね。



このように、外交関係を見直すことで、アメリカ合衆国のドルの “新たな投資先” を探そうとした政策のことを、善隣外交政策(ぜんりんがいこうせいさく)というよ。


一方、1933年にはロンドンで世界経済会議が開催されたときには、「金本位制」(きんほんいせい)の復活を拒否
「金本位制」の枠組みでは、国の中央銀行がお金を発行したくても、発行する額と同額の金を保有していることが前提になる。
世界恐慌対策のために、国が思い切ってじゃんじゃかお金を発行しなきゃってときに、「金本位制」の縛りがあるのは面倒だ。


そういうわけで今後のアメリカは、各国がどの程度のお金を発行しているのかは構うことなく、中央銀行(アメリカの場合はニューヨーク連邦準備銀行をはじめとする連邦準備制度(FRB))が「ドル紙幣」(連邦準備券)を発行できることになった。


これを管理通貨制度という。



こうして各国が連携して「お金の発行」をコントロールすることは難しくなり、各国はお金の価値が下がらないようにするために「他国のお金の動き」を排除し、勢力エリア内の「自国のお金の動き」だけをコントロールしようとするようになっていく。
モノとカネの取引が、ますます「自由」ではなくなっていったのだ。


その後、イタリアとドイツのファシズム諸国の存在感が増していくい中、アメリカ合衆国政府は「それはヨーロッパのことだ」という「中立」の立場をとった(1935年に中立法を制定)。


1939年に第二次世界大戦が始まると、これを理由に大規模な軍備の拡張をスタート。軍事関連の企業に莫大な利益をもたらした。
こうして政府と軍事関連企業との結びつき(軍産複合体)は、ますます強まっていったのだ。



生産された軍事製品は、イギリス側の連合国(ユナイテッド=ネーションズ)に送られた。
アメリカ合衆国は、ヨーロッパ諸国と同盟関係を結んでいなかったし、連合国の敵国(ドイツやイタリア)との宣戦布告もおこなっていなかったのにもかかわらずだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊