見出し画像

13.3.7 西アジアの民族運動と立憲運動 世界史の教科書を最初から最後まで


西アジアが不安定となった理由は、広範囲を支配していたオスマン帝国やの国力が弱まったことにある。



そこにヨーロッパの強国が自分の国の勢力を広げようとしてつけ込んでくると、オスマン帝国内にいたさまざまな出自の人々の思いが、ヨーロッパ各国の思惑に利用され、従来はなかったような問題が次々に生まれていった。


すると、従来は西アジアになかったような思想も流入。

たとえば、西ヨーロッパで生まれた「ひとつの国はひとつの国民でまとまるべきだ」という意識や「国は憲法を持ち、“法の下の平等”の原則で国民をおさめるべきだ」という考え方だ。


ヨーロッパの進出が激しくなると、西アジア諸国の人々の中にも「自分たちは◯◯人だ」という意識が生み出されていく。

そのときに問題になるのは、「まとまり」の基本単位を「民族(言語や文化)」に置くべきか、それとも「イスラーム教」に置くべきかということだ。



イスラームの新しい形

このうち「イスラーム教徒」としてまとまるべきだと考えた運動家にはアフガーニー(1838〜97年)がいる。
彼はイランに生まれ、ヨーロッパに対抗するためイスラーム教を改革する必要があると説き、帝国主義に反対する革命家・扇動家として活躍。
彼の考え方は、エジプトの反イギリス抵抗運動であるウラービー運動や、イランのカージャール朝でおきたタバコ=ボイコット運動にも大きな影響を与えた。

その一番弟子はエジプト生まれのムハンマド=アブドゥフ(1849〜1905年)。

画像2
ムハンマド・アブドゥフ

彼はウラービー運動に直接関わって国外追放となり、パリで師匠とともに雑誌『固き絆』を出版。
西洋の文明に直面したイスラームがとるべき道は、ひたすら“伝統”にこだわることではなく、新しい時代に合わせてイスラームを改革することではないかと考えた。



オスマン帝国の動向

一方、ロシア帝国との度重なる戦争に悩まされていたオスマン帝国では、スルタン(君主)のアブデュル=ハミト2世が、露土戦争のドサクサにまぎれ、できたばかりの憲法を停止(1878年)。

権力を集中し、「イスラーム教徒はひとつ」(パン=イスラーム主義)と訴え、オスマン帝国のパワーを維持しようとしていた。


なにせオスマン帝国には、イスラーム教徒多数派のスンナ派の精神的支柱であるカリフがいる。
そのカリフを守る存在として、オスマン帝国のスルタンは重要だというわけだ。


しかし、これに対し若手の知識人や将校のグループ「青年トルコ人」は、スルタンの専制政治に反対。
統一と進歩委員会」を結成する。

画像3

メンバーは西欧風のスーツを着ている


彼らは1908年に政府にせまり憲法を復活させ、政権をにぎることに成功。
これを青年トルコ革命というよ。


しかしその後、国内・国外の情勢の変化にともない、「統一と進歩団」による政府も政治権力をすすめるようになってしまう。
不安定な政治情勢の中で、国内の世論も分裂。
さまざまな意見が飛び交い政治的なグループが結成され、「トルコ人の国をつくろう」というトルコ民族主義が成長していくことになるよ。


イランの動向


一方、カージャール朝の支配下にあったイランでは、19世紀末からアフガーニー(1838〜97年)の呼びかけにこたえて、君主(シャー)のナーセロッディーン=シャー

画像5

がイギリスの会社にあたえたタバコの独占利権に反対するタバコ=ボイコット運動が展開された。

運動は、国境をこえて組織された。
在イスタンブル・イラン公館の支援を受けて、イラン領アゼルバイジャン出身の商人を中心にオスマン帝国のイスタンブルで1876年に創刊されたペルシア語新聞は、次のように訴える。

史料 『アフタル』紙、1890年1月
…イランのようなタバコの生産が国家の重要部分を成すような国にあっては、独占規定が実施されるような場合には、その利権は国内に限られるべきであり、その輸出に関しては如何なる規定からも自由であるべきなのだ。至高なるオスマン政府のタバコ独占利権に関する勅令でさえ、この点に関しては配慮がなされている…われわれは衷心から、至高なるイラン政府も今日の発展の高みにまで上りつめ、国家の天然の豊かな富を、然るべく利用することを望むものであり、やむ無く、こうした発言を行った次第である。

歴史学研究会編『世界史史料8』

「タバコ・ボイコット」を軸にしてイラン人の民族意識は高まり、イラン政府は専売権をイギリス人からとりもどすにいたった。

しかしその後も、カージャール朝の君主が権力をほしいままにしていることに対して、ヨーロッパで学んだ官僚、さらに専制支配に対する商工業者・ウラマー層からの批判も高まっていく。

その中から、「イランもヨーロッパ諸国のように憲法をつくるべきだ」という主張が生まれ、1906年にはイランで最初の国民議会が開かれ、フランスの人権宣言の影響を受けた憲法が公布される。
これをイラン立憲革命といい、日露戦争において、立憲国家であった日本がロシアに勝利したことも少なからず影響を与えているよ。

画像6

しかし、イランが自立的な強国となってしまったら、進出を進めようとしていたロシア帝国とイギリスにとっては厄介だ。
1907年に英露協商でイランの勢力圏を取り決めた2か国は、イランの国内情勢に介入。
1911年にロシアはイランに軍をすすめ、議会を閉鎖してしまうのだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊