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5.2.1 ビザンツ帝国の繁栄と衰亡 世界史の教科書を最初から最後まで

西ヨーロッパが民族大移動の混乱の渦に置かれていた頃、旧・東ローマ帝国では「ローマ皇帝」の権力が依然として強いままだった。

民族大移動の影響が少なかったことに加え、ローマ帝国末期にコンスタンティヌス帝によってコンスタンティノープルが“帝都”“キリスト教の都”として重要視されていたことも大きい。


コンスタンティノープルは東地中海と北アフリカ・アジアを結ぶ商業の一大中心地として繁栄し続けた。


民族大移動で大混乱して”田舎暮らし”に逆戻りした西ヨーロッパの状況とは180度異なる状況だね。


現代の目線で見ると、「ヨーロッパのほうが昔から栄えていたんじゃないかな」と思いがちだけど、古代以来貿易の中心であったのは、ナイル川からメソポタミアにかけてのエリア。
西側のローマ皇帝がゲルマン人によって476年に引きずり降ろされた後も、東側のローマ皇帝は権力を維持。
西と東のローマ皇帝を区別するために、現在では東側のローマ皇帝のことを、「東ローマ皇帝」というよ。

527年に東ローマ皇帝に即位したユスティニアヌス大帝(在位527~565)は、かつて地中海をぐるっと囲んでいた頃の領土を回復しようという野心に燃えていた。



ラテン語読みすると長くてややこしい名前だけれど、英語圏では「ジャスティン・ビーバー」の「ジャスティン」などで、今でも使われている名前だ。



このユスティニアヌス帝は、各地のゲルマン人による国の征服戦争を開始。北アフリカのヴァンダル王国と、イタリア半島の東ゴート王国を次々と滅ぼし、一時的に地中海のほぼ全域を獲得することに成功した。

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西ゴート王国とフランク王国を滅ぼすことはできなかったけどね。


ユスティニアヌス大帝は、広い領土を支配するためには、場所によらずどこでも適用できる法が必要と考えた。かつてローマで研究されてきた法典を項目別に再編させ、『ローマ法大全』を作成した。


史料 『ローマ法大全』 序
[…]無用なものや不正確なものにとらわれることなく、あらゆる点で理性に合致したことに向かうようにと。かくして、これまでは最も優れた者でも、4年かけなければ皇帝の勅令を読むことができなかったが、今や諸君は、皇帝の口から法学の教えの最初から最期までを受取る栄誉と幸運に恵まれる。[…]

歴史学研究会編『世界史史料5』岩波書店

このときのカテゴリ分けの方法は、現在の日本の法律にも生かされているほど大きな影響を持ったんだ。



また首都コンスタンティノープルを偉大なる帝都にふさわしいモニュメントで飾るため、コンスタンティノープル教会の聖堂であるハギア=ソフィア聖堂を建立した。増築されながらも現存している、驚くべき巨大建造物だ。

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ドーム型のメインホールに加え、内壁にはモザイク壁画がいろどられているのが見どころだよ。


産業の新興にも尽くし、中国から密輸により手に入れた養蚕技術によって、絹織物産業の基礎を築いている。
中国(セレス)産シルクに代わり、「ダマスク織」という名で知られる一大ブランドとなった。

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しかし、ユスティニアヌス”大帝”による征服戦争によって国力は低下。大帝が亡くなると、イタリア半島は北方から移動してきたランゴバルド王国(568~774年)に奪われ、拠点だったラヴェンナを奪われてしまう。

さらに774年には、フランク人ピピン3世(小ピピン)によってラヴェンナ地方が倒され、その子カールによりランゴバルド王国は滅ぼされた。こうして、もともと西側のローマ帝国領であったエリア(西ヨーロッパ)は、カール大帝がローマ教会によって「ローマ皇帝」に即位することで、”東ローマ離れ”が加速。教義の面でも社会の面でも、東ローマとは別々の道を歩んでいくことになるよ。



一方、7世紀初めにはササン朝や、その後拡大したイスラーム教徒によって、シリア、パレスチナ、エジプト、チュニジアなどが奪われると、すっかり領土を減らしてしまった。

ウマイヤ朝は首都コンスタンティノープルを攻撃したけど、コンスタンティノープルは陸側にある何重の城壁と、湾を守る厳重な防備によって失敗。
「ギリシアの火」という謎の兵器(おそらく火炎放射器)の威力も手伝って、コンスタンティノープルだけは守り抜いた。

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バルカン半島中西部~南西部の領土もスラヴ人によって奪われ、中央アジアの騎馬遊牧民国家であるブルガール人の侵入により、現在のバルカン半島南東部の領土を奪われてしまう。


コンスタンティノープルの近くにまで押し寄せたブルガール人を初めとする異民族は、10~11世紀の東ローマ皇帝によって撃退された。



だが11世紀後半になると今度はアナトリア半島(現在のトルコがあるところ)からセルジューク朝というトルコ系の騎馬遊牧民を主体とするイスラーム教徒が侵入。


自力で撃退することができないまま、13世紀前半(今から800年ほど前)にはイタリア商人の国家(ヴェネツィア)がコンスタンティノープルを占領する事態となってしまう(第四回十字軍)。


ヴェネツィアは東ローマ帝国内部の争いに介入。「ローマ教皇に認められ、聖地イェルサレムを回復させるための軍事行動だ」と主張したけれど、「コンスタンティノープルに商業拠点を確保したい」というのが本音だった。



ヴェネツィア主導の十字軍勢力がコンスタンティノープルに「ラテン帝国」を建設すると、東ローマ帝国は亡命政権ニケーア帝国を建てて抵抗する。「ラテン」帝国という名は、東ローマ帝国が古代ギリシア文化やギリシア聖教を融合させ、7世紀以降ギリシア語を公用語としていたことに対抗するものだ。


その後1261年にコンスタンティノープルの支配を回復したものの、もはやかつての勢いは戻らなかった。



1453年にはトルコ系の騎馬遊牧民を主体とするイスラーム教徒たちの国「オスマン帝国」によって、”あっと驚く”方法で滅ぼされることになる。



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