10.3.4 皇帝ナポレオン 世界史の教科書を最初から最後まで
統領に就任したナポレオンはフランス革命中に「革命に反する古臭い考え方」としてしりぞけられたキリスト教との関係を修復しようとして、1801年にローマ教皇と協約(コンコルダート)を結んだ。
これにより農民をはじめとする多くの国民の支持率はアップする。
次いで1802年にアミアンで和約(アミアンの和約)を結んでイギリスと講和し、第二次対仏対同盟を正式に終わらせた。
フランスの安全を確保し、これによっても支持率がアップ。
さらに、イギリスで進行していた蒸気機関で動く機械による大量生産への対抗策も忘れちゃいない。
機械を購入し大工場を建てるため、大規模な投資を必要としていた有産市民の期待にこたえるべく、商工業を振興。
規律ある生活や最低限の読み書き計算ができる ”質の高い” 労働者を確保するために、国が教育を義務付ける制度を整備した。
海外の植民地を確保したり強い軍隊をつくり、産業を振興するにはお金がかかる。
そこで、国家が信用を保証する形で民間からお金を調達したり、民間の投資家たちが安心してお金を調達したりできるよう、資産家たちと協力して中央銀行を創設。
これがフランス銀行だ。
また取引のルールも「新しい時代」に合わせた内容に変更。
1804年3月には、私有財産の不可侵、法の前の平等、契約の自由など、フランス革命中に積み上げられた制度をもりこんだ民法の法典(ナポレオン民法典)を公布。
自由な競争をのぞむ商工業者たちの期待にこたえた。
こうして地盤を固めていったナポレオンは、すでに1802年に終身統領(死ぬまで統領)となっていたところ、1804年5月に国民投票を実施。
圧倒的な支持を受けて皇帝に即位した。
ナポレオン1世(在位1804〜14、15年)の誕生だ。
戴冠式は、まるで「ローマ帝国」の皇帝即位の式典をほうふつとさせるイベントに仕立て上げられ、その模様は宮廷お抱えの古典主義(ギリシア・ローマ的な画風のアート)のアーティストであるダヴィッド(1748〜1825年)が立派な絵画を作成し、国内外に伝えられた。
この絵《ナポレオンの戴冠式》はフランスのルーヴル美術館で観られる
ダヴィッドは有名な《ベルナール峠からアルプスを越えるナポレオン》の作者でもある。
彼の治世(のちにもう一人皇帝が現れた時期がある(彼の甥(おい))ので、第一帝政という)は、前半は周辺諸国との戦争に勝利し領土を拡大したものの、後半は坂道を転がり落ちるように崩壊への道をたどることになる。
まず前半から見ていこう。
1805年に、イギリス、ロシア、オーストリアは「ナポレオンが皇帝に即位」したというニュースを見てぶったまげた。
第三回対仏大同盟を結成し、1805年10月にはネルソン(1758〜1805年)率いるイギリス海軍が、フランスをトラファルガーの海戦で撃破。
この戦勝を記念した広場が、ロンドン中心部の「トラファルガー広場」だ。
しかし海で敗れたナポレオンも、陸では負けていない。
オーストリアとロシアの連合軍を、1805年12月のアウステルリッツの戦い(いわゆる三帝会戦)で破ることに成功した。
アウステルリッツの戦勝を記念して建造がはじまったのが、フランスはパリの凱旋門(がいせんもん)だ。ローマ時代の凱旋門がモチーフとなっている。
1806年には、ドイツ西南部の諸国とあわせてライン同盟を結成させ、コントロール下に置いた。
これによってオーストリアの皇帝は神聖ローマ帝国の地位を放棄せざるをえなくなった。
ここに962年から続いた神聖ローマ帝国は、正式に消滅することとなったんだ。
ナポレオンの快進撃は止まらない。
プロイセンとロシアの連合軍を破り、1807年ティルジット条約を締結。
これによりポーランドにはワルシャワ(大)公国を立てた。ポーランド人ははじめ「自分たちの国を復活させようとしてくれているんだ」と期待したけれど、実態はナポレオンの“操り人形”国家だった。
ナポレオンの狙いは、東欧の穀倉地帯を確保し、イギリスへの輸出をやめさせ、イギリスを困らせることだった。
1806年にプロイセン王国(現在のドイツ)のベルリンで発した大陸封鎖令によって、ヨーロッパ諸国がイギリスとビジネスをすることを禁止した。
そうすれば、はじまったばかりのフランス産業を成長させることができると考えたんだね。
でも、そんなことしたってイギリスにとって“痛くも痒くもない”というのが現実。
すでに世界中にマーケットを持ち、産業革命も進んでいたのだから、イギリスからの物流が途絶えることは、逆にフランスやヨーロッパ諸国にとって不利になってしまうだけだった。
それにナポレオンは征服先のワルシャワ大公国、スイス、イタリア王国(北イタリアにつくられた)、南イタリアのナポリ王国、スペイン王国と個々に同盟を結んで支配しようとした。
オランダ王国、教皇領はフランスの領土に組み込まれ、オーストリア帝国、プロイセン王国、デンマーク王国はナポレオンに服属させられた。
このうちスペイン王やオランダ王には、ナポレオンの兄弟があてられた。
“私物化”だよね。
自分自身は若い時から支えてくれたジョゼフィーヌに代え、由緒正しいハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝の娘マリ=ルイーズと1810年に結婚。コルシカ島の田舎貴族出身のナポレオンは、“ブランド”をつけようと必死だったんだ。
ナポレオンの征服したところでは、ナポレオン法典が施行され、フランス革命の成果にもとづく改革がうながされた。
でも「そんなのフランス人のやり方の押し付けじゃないか」という反応も起き、それが反乱という形をとってあらわれたのがスペインだ。
プロイセンでも、思想家のフィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」と題する連続講演で愛国心を訴え、
シュタイン(1757〜1831年)とハルデンベルク(1750〜1822年)は農民を領主から解放したり、国による教育、営業の自由、軍事改革などのさまざまな改革を進めた。
いわゆる「プロイセン改革」は工業化に向けた国主導の「上からの改革」であり、今後プロイセン中心にドイツが統一していくきっかけとなったんだ。
このように反ナポレオン感情が沸き起こる中、ナポレオンが切ったカードは「ロシア遠征」。
「ロシアが大陸封鎖令を守らず、イギリスに穀物を輸出している」ことを理由に1812年にスタートした。
しかし、その冬の記録的な寒さに加え、ロシアの巧みな戦法に引き込まれたフランスは敗退を重ね、大失敗。
これを見た諸国は1813年に「解放戦争」にたちあがり、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でついにナポレオン軍を破った。
1814年にはパリが占領され、ナポレオンは退位。
コルシカ島の東に浮かぶエルバ島で拘束されることになった。
これを受け、ルイ16世の弟がルイ18世(在位1814〜1824年。すでに16世の息子17世は若くして亡くなっていた)として王位につき、ブルボン朝が復活。
ブルボン朝を倒して共和政を実現してフランス革命は、こうして“振り出し”にもどる形となったのだ。
しかし、ナポレオンも簡単にあきらめはしない。
1815年3月に協力者の支援を受けてエルバ島を脱出。
パリに戻り、再び皇帝に就いたのだ。
しかし6月18日午前に、ウェリントンひきいるイギリス軍が、ナポレオンひきいるフランス軍とにらみあう中、“最終決戦” ワーテルローの戦いがスタート。同日午後にプロイセン軍が到着したことで、ナポレオンはあえなく敗北。
「百日天下」はあっけなく幕を降ろした。
南大西洋の絶海の孤島 セントヘレナ島に流されたナポレオンは、拘束される中で自伝を書き、1821年に息を引き取る。
フランス社会に大きな自信と挫折、そしてヨーロッパ社会に”新時代“への夢と犠牲を残したナポレオンの時代が終わると、ヨーロッパ各国は「君主による支配」に一旦逆戻りしていくことになる。
しかし、「蒸気機関を導入したイギリスの工業化」というインパクトと、ナポレオンの広めた「フランス革命の自由と平等の理念」の影響は無視できない。
「伝統的な秩序」と「新時代の改革」の狭間に、ヨーロッパ諸国とその従属エリアは大きく揺れていくことになるよ。
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