8.4.3 スペインの全盛期 世界史の教科書を最初から最後まで
「近世」のヨーロッパ諸国の君主には、「自分が◯◯国の君主なんだ」っていう自覚があんまりない。
国よりも家柄や称号にこだわり、ひとりの君主がいくつもの国の君主号を持っていることもザラだ。
その最たる例が、オーストリアの君主から身を立て、神聖ローマ皇帝を世襲するまでの勢いになったハプスブルク家。
ハプスブルク家は、ヨーロッパの名だたる家門との間に婚姻関係を結びまくる「結婚政策」によってのし上がった。
とにかく各地の王家と結婚関係を結び、後継ぎがいなくなったところで、「はいはーい!親戚のハプスブルク家に継承権がありまーす!」と手をあげる作戦だ。
そんなハプスブルク家に15世紀後半にも千載一遇のチャンスが舞い込む。
あの先進工業地帯であるネーデルラントを、結婚関係を口実にしてゲットしたのだ。
さらになんと、スペイン王位まで継承することに成功。
当時のスペイン王国といえば、アメリカ大陸にも進出しつつあったノリに乗っている状態。
スペイン=ハプスブルク家の王として即位することになったカルロス1世はといえば、生まれはネーデルラント、母語はフランス語、そしてドイツ語はしゃべれない...といったプロフィール。
それにもかかわらず、1519年にドイツの神聖ローマ皇帝に選出されたのだ。
彼の描いた理想は「キリスト教世界のローマ皇帝による統一」(!)
スペイン、ネーデルラント、ドイツなどを支配下に収めたら、次は、イタリアをも支配したいと考えるのは当然だ。
だって「ローマ帝国」なんだから。
フランス国王と争う中で、1527年にはローマに侵攻し、その市街を破壊してしまった(これをローマの劫掠(ごうりゃく)という)。
しかし、東の方からはオスマン帝国の侵攻を受けた。
1526年にはハンガリーの大部分を奪われ(モハーチの戦い)、
1529年にオーストリアのハプスブルク家の都であるウィーンが包囲されたのだ(第一次ウィーン包囲)。
そんな中、ドイツではルターによる宗教改革も激化。
カルロス1世(カール5世)は、宮廷での豪華な生活や、複雑に構成された領土を維持するための戦いに、新大陸から獲得した大量の銀のほとんどをついやすハメになった。
カルロス1世(カール5世)は心休まらぬまま1556年に退位すると、ハプスブルク家の広大な領土はふたつの領域に分割されることになった。
① オーストリア=ハプスブルク家
ひとつは、ハプスブルク家のふるさとであるオーストリア(都はウィーン)、チェコ人のベーメン、それにハンガリーの北部(他の部分はオスマン帝国に占領されてしまったている)を中心とするオーストリア系の領土だ。
② スペイン=ハプスブルク家
もうひとつは、スペインとネーデルラント、イタリア北部のミラノ、イタリア南部のナポリ王国(シチリアを含む)、サルデーニャ島を中心とするスペイン系の領土。
こちらは息子のフェリペ2世(在位1556〜98年)に相続された。
こわい。
1571年にはオスマン帝国の海軍をバルカン半島西部のレパントの海戦で破り、一時的にその脅威を排除。
1580年にはポルトガルの王の位も兼ね、ポルトガルがアジアに持っていた拠点も支配下に置くことに成功(ポルトガル王国との同君連合)。
しかも、王妃(おうひ)はイングランドの女王メアリ1世(在位1553〜58年)だ。
世界どこに行っても、支配領域を擁する“スペイン海上帝国“。
まさに文字通り「太陽の沈まぬ国」を実現させたわけだね。
しかし、1568年以降のネーデルラントでは、カトリックを押し付けるスペインからの独立戦争(オランダ独立戦争)が、カルヴァン派の多い北部(現在のオランダ)を中心に勃発。
さらに1588年にはイングランド国王エリザベス1世(在位1558〜1603年)
とのアルマダの海戦に敗北すると、スペイン王国の国力は決定的に低下していくこととなる。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊