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5.1.5 カール大帝 世界史の教科書を最初から最後まで

カール大帝って聞いたことがない人でも、一度はその姿を目にしているはず。



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トランプのカードだ。
ダイヤのキングがローマのカエサル。

クラブのキングがアレクサンドロス大王。

そしてスペードのキングはヘブライ人のダビデ王、

そしてハートのキングがカール大帝だと言われているんだ(諸説あり)。


どうしてそんなにカール大帝という人物が有名なのかというと、彼の時代にフランク王国が最大領土となり、その領土が現在のフランス、イタリア、ドイツのルーツになったこと、

そして、カール「大」と呼ばれることからも分かる通り、彼はしばらく不在だったローマ皇帝の冠を、ローマ=カトリック教会のトップ 教皇からじきじきに授けられた人物であることからだ。


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カールは、ローマ教会に対して領土を“寄付”したピピン3世(小ピピン、在位751〜768年)の子として生まれた(ラテン語読みでは「シャルル」)。



彼はアタナシウス派のローマ教会を守るため、異端(いたん)とされるアリウス派を信仰していたランゴバルド王国を征服、ついにこれ774年に滅ぼした。


また、フランク王国北東を支配していたザクセン人を、度重なる凄惨な戦争の末に服属させている。

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また、ピレネー山脈を超えてイベリア半島にも進出し、「スペイン辺境」として支配した。

現在のバルセロナのある当たりが、カタルーニャ地方として独立色が強いのは、このとき一度カール大帝に支配された歴史を持つからだ(987年に独立し、その後18世紀にスペインに完全に併合された)。

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こうして大多数のゲルマン人は、カール大帝のフランク王国のもとに束ねられることになった。

領域内ではローマ教会のアタナシウス派キリスト教が「正しい信仰」とされ、カール大帝はキリスト教の信仰を守る立場と考えられた。

また、東方で領土を広げていた騎馬遊牧民のアヴァール人の王国を撃退し、南方から進出してきたイスラーム教徒も撃退。


こうして、イベリア半島やイタリア南部を除く西ヨーロッパのほとんどの部分はフランク王国の領土となったわけだ。



王のカールは広い領土をおさめるために、全国を州に分けた。

ローマ以来の有力者を含む各地のリーダーたちを、その州の長官(日本語訳は「」)に任命し、ちゃんと仕事をしているかチェックするために巡察使(じゅんさつし)を送ったよ。

ただし王の権力はのちのちのヨーロッパの国に比べるとまだまだ弱く、国王は自分の権力をアピールするために、国内の主要都市をしばしばパレードしてまわる必要があった。


カールの勢力はローマを含むイタリア半島にも及んだことで、ローマのキリスト教会(ローマ=カトリック教会)の教皇は、自らのポジションを固めるため、カールの権力を頼ることを決意。



そこで、800年のクリスマスの日。


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ローマ教皇レオ3世(在位795〜816)は、別件でローマに滞在していたカールに対し、ローマ皇帝の冠を与えるという“サプライズ”を実行。“皇帝”の位をローマ教皇に与えられるのは、“寝耳に水”のカールにとっても悪くない話ではあった。

『フランク王国年代記』(9世紀前半) 
「(前略)…ちょうど聖降誕祭の日、ミサのために王〔カール〕が至福の使徒ペテロの前での祈りから立ち上がった時、レオは彼の頭上に冠を載せ、そして〔居ならぶ〕すべてのローマ人達が賛同の歓呼をあげた。…(後略)」

古代ローマの時代以来の由緒正しい“皇帝”(インペラートルにしてアウグストゥス)の位をゲットしたカールは、「カール大帝」(シャルル=マーニュ)と呼ばれるようになるが、他方でこのような記録も伝わっている。


『アインハルトのカール大帝伝』(830年代中頃)
「(前略)…このことは当初彼の気に入らなかったもようで、彼は次のように断言した。即ち、かの日、たとえそれが〔降誕祭の〕大祭の日であったとしても、もし彼が教皇の計画を事前に知っていたならば、聖堂内には入らなかったであろう、と。…(後略)」

(出典:歴史学研究会編集『世界史史料5』岩波書店、2007年、19−20頁)

カール大帝は、フランク人ではなく、ローマ人と教皇が主導するかたちでの戴冠を嫌ったようなのだ。

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「中世ヨーロッパ世界」の成立

ともかく、こうして少なくとも理念上は、「西ローマ帝国」が復活したことで、東西のヨーロッパは、中心となる教会と2人の「ローマ皇帝」が支配する2つのエリアに分かれることになった。
つまり、東ローマ帝国の「ローマ皇帝」がコンスタンティノープルの教会(ギリシア正教会)を保護したのに対し、西ヨーロッパではフランク王国のカール大帝が「ローマ皇帝」としてローマの教会(ローマ=カトリック教会)を保護する形となったのだ。
しかし、東西ヨーロッパはどちらも先行するギリシアやローマの文明を受け継ぐとともに「神様の子イエスと、神様の別の形である聖霊」を信仰するキリスト教であるという共通点を持っている。

同時期の地中海の向こう側では、7世紀以降「神様は神様。絶対的な存在であり、イエスや聖霊などは認めない」とするイスラーム教が広がっていたのは対照的だね。


西のキリスト教世界


東のキリスト教世界


そして、「イスラーム世界



このように、かつては「ひとつのまとまり」を持っていた地中海世界は、このように、大きく分けると2つの理念的な世界に分かれることとなったのだ。カール大帝はその幕開けを告げる人物として重要だ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊