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9.2.2 アメリカにおける植民地争奪 世界史の教科書を最初から最後まで


16〜18世紀中頃のヨーロッパ諸国は、アジア方面で物流ルートに食い込むことで進出していったのに対し、南北アメリカ大陸では直接的な領土支配に乗り出していった。



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ポルトガルとスペインの新大陸進出プロジェクト

ポルトガル王国が南アメリカ大陸の東部 ブラジルを植民地にした以外は、スペインが大半を植民地化。


スペインは北アメリカ大陸でも、現在のアメリカ合衆国南部南部からメキシコ、中央アメリカにかけても植民地化している。


スペイン人の持ち込んだ病原菌やウイルスに、アメリカ大陸の先住民は次々に感染。パンデミックとなった。

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天然痘(てんねんとう)にかかった人々の図(16世紀のメキシコ)


働き手が足りなくなるということで、今度はアフリカ西部の沿岸諸国を通じて、内陸部の人々が奴隷として売り飛ばされていくように。



先住民や奴隷たちは、ポルトガル人やスペイン人によって金や銀の鉱山で犬同然に働かされ、絶望の中で多くの人々が命を落としていった。

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激減する先住民
Rodolfo Acuna-Soto, David W. Stahle, Malcolm K. Cleaveland, and Matthew D. Therrell - “Megadrought and Megadeath in 16th Century Mexico” (PDF).


なお、1580年〜1640年の間、ポルトガルの王様は、スペインの王様が兼ねる形となったので、実質的に、北アメリカ植民地の一部とカリブ海の島々、南アメリカ大陸の大部分は「スペインの植民地」となったことになる。

ただ、これだけ広い植民地をガッチリ支配するのは、当然ながら困難だ。

銀をはじめとする貴金属の供給地以外に、スペイン王室も「ちゃんと植民地をコントロールしよう」という気はあまりなく、支配はローマ=カトリック教会やイエズス会、一部の商人や現地のスペイン系の支配層に任せっきりの状態だった。


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南米各地に、先住民向けのイエズス会の伝道所遺跡が残っているのはそのためだ。


しかし、その “わきの甘さ” が、やがてイングランド(イギリス)王国やフランス王国の標的となることに。
「やはりガッチリ支配せねば」と、18世紀になってスペイン王国は支配強化に乗り出した。行政区画を変え、本国から直接役人を派遣。さらにイエズス会を弾圧。

しだいに、アメリカ生まれのスペイン系(クリオーリョ)の商工業者らの、スペイン本国に不満が高まっていくことになるよ。



ネーデルラントの新大陸進出プロジェクト

この時期ネーデルラント連邦共和国も、アメリカ大陸に進出プロジェクトを実施している。
17世紀になって1621年にネーデルラント連邦共和国は西インド会社を建設。

ヨーロッパから見て西にあるカリブ海の貿易に関する会社なので、「西インド会社」というんだ。
アフリカ西部とアメリカ大陸との物流ルートが整備され、北アメリカにはニューネーデルラント(新しいネーデルラント)植民地が建設された。

しかし、中心としニューアムステルダム(新しいアムステルダム)は、1664年に戦争で勝利したイングランドに奪われた。
これが「ニューヨーク」の語源なのだ。

ちなみにニューヨークの「ウォール街」はオランダによって築かれた壁(ウォール)が語源。
ニューヨークの地下鉄ウォール街駅の壁には、当時の壁を描いた作品があしらわれているよ。

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フランスの北アメリカ進出プロジェクト

オランダやイングランドのほかに北アメリカ大陸に進出したのがフランスだ。
大西洋の北部には、魚がたくさんとれる漁場で有名。

それに北アメリカの森林地帯に生息する動物の毛皮も、ヨーロッパの富裕層の間で高い価値で取引された。


フランス王国はそこに目をつけ、国王ルイ14世のときには探検家によってミシシッピ川流域地帯を「ルイジアナ」として手に入れた。
ルイの土地という意味だ。

スペインの支配のゆるみを狙って、カリブ海の島々への進出もすすんでいくよ。この時期のカリブ海は、さながら “大海賊時代” を迎えることになる。



イングランド王国の新大陸進出プロジェクト

一方イングランドも17世紀の初頭に、北アメリカ東岸に最初の植民地であるヴァージニアを建設。
“ヴァージン”の愛称をもつエリザベス1世にちなむ名前だ。
ここにはアメリカ大陸原産のタバコの大農園が建設された。

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その後、イングランドからは弾圧をのがれたカルヴァン派(イングランドではピューリタンと呼ばれた)がアメリカに移住。
彼らは北アメリカ大陸東岸に「ニューイングランド」を形成していった。1620年にイングランドからわたってプリマスという港町に定住した「ピルグリム=ファーザーズ」と呼ばれるグループが、そのルーツとして有名だ。


先住民の「インディアン」の中には小さな国を組織するグループも見られたけれど、王様ほどの権力は持たない「首長」が人々を儀式を通してまとめているケースが多かった。
広い北アメリカ大陸は地域ごとに気候もさまざまで、「インディアン」たちはそれぞれの気候に合わせ、さまざまなグループに分かれて狩猟・採集・農業・漁業などを営んで暮らしていたんだ。


イングランド人は先住民の「インディアン」とは交わることなく、あくまで「北アメリカに移住したイングランド人」としての立場を崩さなかった。
「インディアン」との間に土地や資源をめぐる争いが多発し、多くの場合「インディアン」側が大きな被害を受けることになった。


ピルグリム=ファーザーズが、インディアンに助けられ、その後“恩返し”をしたという「アメリカ大陸の建国ものがたり」として“神話”化されていくことになるよ。
本当はそんな“ほっこり”とした物語であるわけないんだけどね。


イギリス人が北アメリカ東岸に建設した植民地群は、18世紀前半までには「13の植民地」が並ぶ形となっていく。
移り住んだ人のプロフィールは、宗教グループ、国王の承認を受けた人々などさまざまだ。


18世紀になると、イギリス王国とフランス王国との植民地をめぐる戦いは激化。
イギリスはスペイン継承戦争の結果、フランスを北アメリカ大陸から領土を獲得した。


つづくオーストリア継承戦争では、フランスの兵力が北アメリカ大陸に補充されないよう、直接的な利害関係がないにもかかわらずオーストリアのマリア=テレジアを応援。
フランスは、オーストリアの敵国プロイセン側について戦った。

北アメリカでの戦争が、ヨーロッパの戦争と密接に結びついていたことがわかるね。


さらにフランスは先住民の「インディアン」の諸勢力と組み、イギリス王国を北アメリカから追放しようとこころみた。このフレンチ=インディアン戦争も、やはりヨーロッパ大陸での七年戦争とリンクしていたんだ。

結果的にイギリスが勝利。



イギリスが得たもの


1763年のパリ条約によって、イギリスが獲得したのは以下のラインナップ。


ケベックなどの北アメリカ北部のカナダ(フランスからゲット)


② ルイジアナ東部(ミシシッピ川よりも東(アパラチア山脈まで))(フランスからゲット)

イングランドの13の植民地よりも南にあるフロリダ(スペインからゲット)


④ カリブ海の島々
その内訳は、
(1)セントビンセントおよびグレナディーン諸島、


(2)グレナダ、


(3)ドミニカ(現在のドミニカ国)、


(4)トバゴ島 だ。



フランスが得たもの

じゃあ、10年弱も戦争をした結果、フランス王国が得たものというと...

① 西インド諸島の一部

その内訳は、

(1)グアドループ、

(2)マルティニーク、

(3)セントルシア。

いずれもカリブ海の小さな島々だ。


さらにアフリカ大陸のセネガル沖のゴレ島(奴隷貿易の基地があった島)を獲得。

さらにその上、フランスは、ルイジアナ西部(ミシシッピ川よりも西のエリア)をスペインに譲渡している。

スペイン王国としては、カリブ海の島々に続々とフランス・イギリスに食い込まれる形になり、「これまで通りの支配方式で、ちゃんと植民地を死守できるのだろうか」という焦りを生むこととなる。

また、一連の領土変更はカリブ海の島々の人々にとっても “激変”だ。
熱帯気候に合わせたサトウキビの大農園などで働かせるため、アフリカ大陸の人々が奴隷として送り込まれ、人種の構成が大きく変化。

フランス人やイギリス人とコミュニケーションをとるために、言語がたがいに混ざり合い、「クレオール」という言葉やカルチャーが生まれていくことになった。







要するに、以上の領土交換によって、フランスは北アメリカにおける領土をすべて喪失。


」を支配し物流ルートを支配するだけでなく、海外に植民地という「」的な領土を持つことで富を増やしていこうとする「イギリス植民地帝国」のベースが完成することとなったわけだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊